[#表紙(img/表紙.jpg)] 意味とエロス —— 欲望論の現象学 —— 竹田青嗣 目 次  ㈵  意味とエロス     ——欲望論の現象学   ※[#小文字のローマ数字1、unicode2170] 存在と意味の問い    1 認識の不可能性    2 〈真理〉の形而上学    3 〈妥当〉の認識論    4 根源的明証性㈵    5 根源的明証性㈼    6 認識の限界点   ※[#小文字のローマ数字2、unicode2171] 欲望論の現象学    1 存在の問い    2 欲望     A 〈実存と自由〉     B 意味と経験     C 生活世界の〈還元〉    3 意識領野の現象学     A 知覚—身体—空間     B 情動性—価値—エロス    4 時間と意味     A 時間意識の構成     B 〈意味〉の回折性     C 人間的〈意味〉の秩序     D 幻想的身体    結び  ㈼  世界認識のパラドックス 〈差延〉と〈根源〉  ㈽  実存の根底  超越としての〈外部〉  読みびと知らずのバルト  反=形而上学の源流 「あとがき」にかえて     ——現象学的思考について  初出一覧  文庫版あとがき [#改ページ]   意味とエロス[#「意味とエロス」はゴシック体]        ——欲望論の現象学[#「——欲望論の現象学」はゴシック体] [#改ページ]   ㈵ 意味とエロス        ——欲望論の現象学 [#改ページ] ———————————————————————————— ※[#小文字のローマ数字1、unicode2170] 存在と意味の問い ————————————————————————————  フッサールの現象学は、一貫して手のつけようのない誤解に蔽われてきた。現在現象学に投げかけられているさまざまな批判は、ほぼそのミスリーディングに発している。わたしがさしあたって試みてみたいのは、この誤解と批判のからみ合った根をわかり易く解きほぐしてみるということである。おそらくそのことによってわたしたちは、現在ではほぼ見棄てられかけているこの考え方のうちに、〈存在〉と〈意味〉に関する全く新しい展望が潜んでいることに納得するはずである。  現在、現象学に対する批判の最も大きな要点となっているものはふたつある。ひとつは、それが独我論であるという批判であり、もうひとつはコギト(意識)主義であるという批判だ。わたしが考える限り、いずれも現象学のエッセンスが誤読されているところから現われたものだ。なぜそういった誤読が生じたかについて、わたしたちはのちに詳しく見ることになるだろう。  現象学は観念論だという批判もあるが、フッサールは、観念論を徹底するという方法の中に近代的な認識論を克服する唯一の道がある、と確信したのであって、唯物論であれ実在論であれ、自らその課題を果してみせない限り(事実全く果せていない)、この批判には全く意味がない。  フッサールは、観念論と実在論(唯物論)の、認識方法としてそれぞれが持っている固有の意味合いをよく知っていた。優れた観念論や優れた唯物論は、自らの課題のかたちとその方法が果す意味をつねにはっきりと自覚しているのである。つまらない観念論と唯物論だけが、いつも�真正�の方法をめぐって対立しているにすぎない。 1 認識の不可能性[#「1 認識の不可能性」はゴシック体]  たとえば柄谷行人は、「形式化の諸問題」という文章でこう書いている。 [#1字下げ] しかし、このようにいうとき、私は、必ずしも「形式化」が一つの歴史的な病的な転倒——「真理への意志」とニーチェはよぶ——としてあることを指摘したいのではない。逆に、「形式化」の徹底こそが、ニーチェ自身そうであったように、その自己破綻を露呈しうるのである。そして、その破綻は、形而上学がいわばエピメニデスのパラドックスが示すような、言語がつねに言語について[#「について」に傍点]の言語であるという事実をおおいかくす装置としてあるということにもとづいている。ゲーデル的問題をもたらしたのは、数学自体ではなく、言語そのものの自己言及性をおおいかくすことによって「確実性」や「決定可能性」を確保してきた哲学であるが、しかしそれは「形式化」のなかではじめて露呈するのである。  十九世紀後半から二十世紀のはじめにかけて、諸学問、思想などの領域でひとつの大きな共通項が見出されるが、それを「形式化」という言葉でくくることができる、と柄谷は言う。具体的には、マルクスの経済社会分析、フロイトの心理学、ソシュールの言語学、フッサールの現象学、ゲーデルの数学基礎論、構造主義などである。  これらの思想上の企ては、対象の関係項を徹底的に追いつめて、「現実」を関係の構造の形で精密につかみとろうとする点で共通している。だが重要なのは、これらの「形式化」の徹底的なつきつめの中ではじめて、ひとつの重要な問題が浮かび上ってきたということだ。つまり、厳密で確実な認識というものの「不可能性」が顕わになってきたということ。それを象徴するのが、ソシュールの晩年の沈黙であり、また、ゲーデルの「不完全性の定理」である、と。 「形式化」(認識の厳密化)の自己破綻、それはさしあたっては、「言語がつねに言語についての言語である」という、「自己言及性」の問題の形で現われた。柄谷行人はこれを、ソシュール、ベイトソン、ゲーデルなどから、主として記号論的な観点でとり上げている。しかしこの問題のそもそものはじまりは、言うまでもないが、〈主観‐客観〉の一致を課題とした、デカルト以来の西欧近代哲学の基本的な問題設定のうちにある。いまこれを簡単に言い換えてみると次のようなことになる。  近代哲学が出発点としたのは、客観的な世界認識の可能性ということである。この可能性は〈主観‐客観〉の「一致」をどう得るかにかかっている。伝統的に、この「一致」が〈真理〉を意味すると見なされていた。それはまた、言語(認識)が客観世界をいかに正確に(鏡のように)映しとるか、という発想でもあった。しかし、〈客観〉という項を「形式化」していったときに明らかになったのは、人間がつかみとろうとした〈客観〉という対象は、つねに必ず言葉の形としてしか存在し得ないということである。 「形式化」が顕在化させたのは、したがって、認識のつきつめは、どこまでいってもいわば言葉の中で言葉の〈真〉を確かめることしかできない、ということである。これが言葉の「自己言及性」と呼ばれていることの内実である。  重要なのは、こういった問題が明らかになったとき、そこで近代哲学のパラダイムは根本的に滅びるほかなかったという点だ。ニーチェは、この疑念を最も早く西欧哲学の伝統に対して投げかけた思想家だった。しかし、ニーチェの異議は、いわば�心理�的なものだったと言える。つまり、彼の言い方は、哲学者は客観的〈真理〉なぞを問題にしてきたが、その隠された�心理�的内実は、転倒した道徳(ルサンチマンから発する)を説教するところにしかなかった、というものだ。むしろ「形式化」による認識の不可能性の露呈ということを、思想そのものとして生きた点では、ソシュールが象徴的である。  ソシュールがその言語学にこめた根本のモチーフは、言語はいかにして正確な〈意味〉を伝えたり映したりするのかということにほかならない。しかし、彼は、はじめに考えていたような、言語の形式的な体系《システム》性が〈意味〉を伝えるという見方を、やがて投げ棄てざるを得なくなる。わたしたちがふつう〈意味〉と呼んでいるものは、一見自明なもののように見える。しかし〈意味〉それ自体は、謎のような性格を持っていることが、ソシュールの試みの中で明らかになる。それは、さしあたって、〈意味〉の機制《メカニズム》は、言語のシステムそれ自体をいくら眺めていても決してそこからはとり出すことができない、という形で現われた。  これらの問題は、要するに、客観的なあるいは精密な認識の不可能性ということに集約される。またそれは、既に見たように、西欧近代哲学の根本的なパラダイムが、決定的に滅びてしまったということを意味する。  一方で科学技術の飛躍的な発展がとげられ、いわば応用科学の分野で認識の可能性に対する底抜けのオポチュニズムが生き続けているにもかかわらず、いま見たような問題は、思想や学問の原理論の領域では、今日ほぼ常識的な知見になりつつある。もう一度繰り返すと、「形式化」をつきつめることによって、捉えられるべき「現実」そのものは姿を消し、「現実」とは、つねにあらかじめ言葉によって構成されたものだったことが明らかになる。そのため、「言語がつねに言語についての言語である」という、言葉の自己言及的性格が顕わになるのである。  言語(認識)によって、正確に「現実」それ自体を捉えようとする伝統的な哲学の試みは、こうして「現実」それ自体という項が消え去ることによって挫折する。さてこのとき、現代思想においてほぼふたつの思想上のパラダイムが現われたと思える。  ひとつは、認識の形式化を意識的におし進め、それを論理的なパラドックスに追い込んで、むしろ積極的にその不可能性を証し立てるという方向である。ゲーデルの「不完全性の定理」やデリダの「差延」などがその典型を示す。「ダブル・バインド」のベイトソンや、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』を書いたホフスタッターなどもほぼ同じ立場に立っている。  もうひとつは、パラドックスを作りあげるのではなく、「認識」の項に同一性をあて、「現実」の項に多様性(多数性)をあてて、その映しとりの不可能性を言うような方向である。ミシェル・セールの「多様性」、ドゥルーズの〈ツリー/リゾーム〉、アレグザンダーの〈ツリー/セミ・ラティス〉などがそれを代表する。ソレルス、リオタール、クロソウスキーなどもこの方向に沿っていると言えるだろう。  このふたつの「認識の不可能性の確認[#「確認」に傍点]」の方法的特質はなんだろうか。  わたしの考えでは、前者の本質は懐疑論であり、後者の本質は、一見どれほどそう見えなくとも一種のカント主義である。だがこの「カント主義」はすこし解説を必要とする。まず懐疑論は、たとえば「アキレスは決して亀に追いつけない」というパラドックスの中で、論理的なものの本質的欠陥を暴こうとする。だが懐疑論は自分の立てた命題を自ら証明することは決してできない。なぜならそれは、論理や言葉の能力そのものの矛盾に自ら身をさらして、いわば自他をもろとも「言葉の不可能性」の淵に投げ入れるからだ。つまり、懐疑論の企ては、客観的認識の不可能性を「論理の不可能性」によって示すのだが、決してそれ以上を言うことができない。懐疑論に対するわたしたちの一般的な疑念は、それが「論理の不可能性」を一見証明するにもかかわらず人間はふつう言葉や論理の秩序を疑えないものとして生きている、という事態を懐疑論は決して説明できない、という点に基づいている。懐疑論は論理上の言葉の正確さを、自らの立論とともに焼き滅ぼそうとするが、人間にとっての言葉のリアルさそのものを、焼き滅ぼすことができない。  たとえば現代的な懐疑論は、「君は君が正気であるかどうかを決して決定できない」と言う。これは論理的には正しいように見えるがどこかおかしいとわたしたちは思うはずだ。その理由は、じつはわたしたちは直観的に、そもそもその問い自体が、人間が絶えず正気と正気でないものを決定している[#「決定している」に傍点]という事実のうえではじめて成立していることに気付くからである。だが、懐疑論の現代的な現われに関しては、のちにデリダのフッサール批判についてもうすこし詳しく見ることにしよう。  さて、現実(自然)の無限な多様性という考えについては、たとえば中沢新一の次のような見方が大変わかり易い。  彼は『雪片曲線論』の中で、ルクレティウスの「クリナメン」という原子に関する仮説を引き合いに出して、次のように述べている。 [#ここから1字下げ]  原子にはたえず斜に進路をそれていこうとする運動性が内在している。原子がいったいいつどこで進路をそれていくかは、まったく不定であり、またどんな目的を持ってこの傾斜運動が起こるのかはまったくわからない。いや、目的などというものがないどころか、この傾斜運動に自分以外の原因をみつけることすらできない。原子にはクリナメンという不思議な性質が内在しているとしか言いようがないのだ。この傾斜運動がなければ原子間の出会いは起こらず、したがって物の形成もない。  物質的宇宙の生成は、クリナメン的な運動性とともにある。原子が斜に進路をそれていくことなく、そろって一直線に空間を「落下」していく状態を想像してみれば、そこは生成に先立つカオスの轟音にみちていることだろう。そのカオスの轟音に鋭い亀裂を入れるように、原子がジグザグの斜行運動を起こす。宇宙に産まれた最初の音楽。それがカオスを引き裂いていくクリナメンの軌跡なのだ。しかもクリナメンする原子はコスモスの秩序からさえも逃がれ去っていく。コスモスは全体の目的因にそって原子の動きを自分の神的な秩序のなかに押さえ込もうとする。ところが原子に内在している傾斜運動へのインパクションは、いったいどこで、いつ起こるのかさえ不定なのだ。(略)  こういうルクレティウスの考え方を押し進めていくと、原子の運動にはつねに自分自身からのズレを作り出していこうとする性質が内在している、という考えにいたるはずだ。原子の運動には、どんな微小な領域を取っても、たえずズレ、差異を作り出していこうとする斜行運動が見られる。 [#ここで字下げ終わり]  ここには、中沢がドゥルーズ=ガタリの「多数多様体」や「生成変化」という概念を、どのように受けとっているかが、如実に示されている。  自然の秩序は、それが内在的に孕むアトランダムな「斜行運動」によって、決して規則的なものにはならない。またそれは目的性も持たない(多様性、差異性)。これに対して、人間の認識は、必ず規則的な形式性を持つ(同一性)。そしてまさしくこのことが、自然がつねに無限な多様体として、人間の認識を超え出る形で生成変化することの根本の理由である。こう中沢は言うのだ。  こういった考え方は、現在では自然認識についてのひとつのはっきりしたパラダイムを形造っている。中沢が盛んに援用する、クリステヴァ、ソレルス、ブーイサック、リオタール、セールなどが、一様にこういう考えを示している。ドゥルーズ=ガタリをモデルに〈構造と力〉という考え方を導いた浅田彰や、現代の存在論を「垂直存在論」と「傾斜存在論」に分け、後者に可能性を見出そうとする今村仁司なども同じパラダイムにある。しかし、このパラダイムの本質は、原理的に、カントの〈物自体〉の概念を裏返したものにすぎない。なぜだろうか。  カントでは、自然の秩序は、いわば神の摂理(可想界)に属するものだが、人間は完全な形ではそれを捉えきれない。なぜなら人間の認識は、完全な認識(神の認識)と較べると、制約された(時間、空間という感性形式を持つ)ものだからだ。つまり一方に「あるがままの現実」(=物自体)が存在し、もう一方に、制約された人間の認識の形式があり、この両者は〈一致〉しない。  中沢が示している思考は、自然から神の属性である規則性(摂理)と目的性を取り払うが、その代りに、アトランダムな「生成変化」という原理を仮設し、それが人間の認識の形式性に決して合致しない(ズレている)ために、完全な認識は(伝統的な形では)不可能だと言うのである。  しかし、わたしたちは、このカントの考えと中沢が象徴している思考に、次のような共通項を見出すことができる。それは、両者とも、じつはまず「あるがままの現実」が客観存在[#「客観存在」に傍点]するという前提から考えはじめているという点だ。  重要なのは、フッサールの現象学は、まさしくこの前提に、形而上学の歴史全体をつり支える根本的な錯誤を見たということである。これはよく考えてみれば、伝統的認識論に対するじつに簡潔で根本的な批判である。しかし、この批判の要諦は、現象学者たちによってもなぜか極めてあいまいな形でしか規定されてこなかったし、また批判された側も(実証心理学、実証科学、唯物論等々)、ほとんどその真意を受けとっていない。また、現象学以外のさまざまな形而上学批判も(実存主義、ニーチェの系譜学、ポスト構造主義の反=ロゴス中心主義など)、この現象学による批判の意味を、ほとんど理解しなかった。フッサールのこの批判の核心をはっきりとつかみとったのは、メルロ=ポンティとハイデガーだけであり、先駆的に、やや不完全な形でそれを見ていたのは、ヘーゲルのみであった。  たとえば、わたしの考えでは、フッサールの現象学的還元という方法上の概念をいちばん核心点で規定する仕方は、たったひとつしかない。「事象自身に帰れ」とか、「生の中の〈私〉に還帰する」といった、フランスの現象学者たちの言い方は全くあいまいなものである。〈還元〉の概念が方法として意味しているのはただひとつであって、それは、「あるがままの現実」が存在しているという暗黙の前提から誰しも考えはじめるが、それを棄てよ、ということにほかならない。  言い換えれば、フッサールはただ、考え方の順序を変えよ、と言っているだけだ。だがフッサールの考え方が誤解につぐ誤解を呼んだ最も大きな原因は、まさしくこの前提を棄てるということが、人間の自然な感覚にとっては至難のことがらだったからである。  一般に現象学的還元は、わたしたちの現実のありようをより精緻に見るための、方法上の仮説と見なされている。いわば、「あるがままの現実」(客観的真理)に到達するための幾何学上の補助線のようなものとして。しかし後に詳しく見るが、〈還元〉の概念は、その遂行によって、じつははじめにわたしたちが達するべきだと見なした「あるがままの現実」という概念の内実そのものを、変更してしまうのである。つまりそれは、方法上の補助線によって「客観的真理」へ到達するのでは全くなく、わたしたちが「客観的真理」と呼んでいたものが、そもそもなんであったか、ということを明らかにするのである。  なぜ現象学は間断ない誤解にさらされていたか。  その理由は明らかである。〈還元〉の方法は、客観的現実の実在をまず棄てよと要求するが、それは「伝統的認識論」(『デカルト的省察』)の中でつねに敗退してきた。観念論、独我論と、一見同じ立場を意味していたからだ。  観念論や独我論は、優れた唯物論、実在論、実証主義を対立項として持つと、必然的に敗れることになる。これはじつは原理的な事情である。その理由は、観念論や独我論は、自分の立論を最終的には決して自己証明[#「自己証明」に傍点]できないからだ(まさしくそれが、客観的現実を暗黙のうちに[#「暗黙のうちに」に傍点]前提しているがゆえに)。これに対して、唯物論や実証主義は(これは客観的現実を明示的[#「明示的」に傍点]に前提し、それをはじめの論理的立場とする)、立論を自己証明することを放棄する代りに、とにかく人間にとって一般的な生の現実感をよく説明(=物語化)することができるからである。  こうして、観念論や独我論はいわば必敗の学説であった。現象学の立場は、方法上はっきりとこれに基礎を置く。まさしくこのために、現象学はさまざまな批判と誤解を呼び寄せたのである。  しかし、現象学は、繰り返し述べたように、この両者(観念論と実在論)がともに前提としている客観的現実の実在を疑うところから始める。そして、フッサールが考えたのは、この懐疑を徹底するための唯一の可能性は、観念論の立場にある、ということだった。  観念論や独我論の前提とその帰結は全く誤ったものである。しかし、観念論者や独我論者はなぜ、一見全くひとびとの常識的実感とかけ離れた場所(〈私〉の観念だけがある[#「ある」に傍点])から出発するのか。その理由はひとつしかない。観念論は、「あるがままの現実」、つまり誰にとっても客観的な同一物として存在する現実(自然)、という考え方がどうしてももたらす論理的矛盾を、なんとか回避し、世界を一元的に説明しようというモチーフから現われた。このモチーフは実在論には全く存在し得ないものである。観念論だけがこのモチーフをよく徹底化し得る。フッサールはこう考えた。  わたしの見る限り、フッサールの現象学の考え方だけが、はじめに見たような言語(認識)と現実に横たわる奇怪な難問(アポリア)を、完全な形で解きほぐしている。むろんフッサールは、ヘーゲルのように、それを迂回路を通って〈一致〉させよう(=絶対知)としたのではない。この〈一致〉が背理[#「背理」に傍点]であること、またなぜこの背理が生じたかということを、現象学は理を尽して言い切っている。言い換えると、「自己言及性」や「決定不可能性」の問題を、はっきりと解き明かしているのである。  しかし、フッサールの示した�解答�は、なぜか全く違ったふうに受けとられてきた。そしてわたしたちが見てきたように、現在、近代哲学の通路がゆきついたあの袋小路では、懐疑論と、変奏されたカント主義が、現代思想の認識論上の極限のパラダイムとして存在しているという状態なのである。  このパラダイムは現在、思想や科学論の最前線をなしており、いわゆるポスト・モダニズムとして流通している。このパラダイムをもう一度現象学によって解きほぐすことは、それが極めて多くの、歴史的に重ねられた誤解にまつわりつかれているために、容易なことでないかも知れない。しかし、このことは必須であり、かつ不可避のことがらである。わたしたちは、ここからはじめの一歩を踏み出してみなくてはならない。 2 〈真理〉の形而上学[#「2 〈真理〉の形而上学」はゴシック体] 「形式化」の諸問題が、現在、思想上のひとつの明らかないき止まりに突き当っていることを指摘した柄谷行人は、「探究」(『群像』連載)の中で、「他者」という興味深い概念を提示している。 [#ここから1字下げ]  2+2=4の確実性に反撥し、「ユークリッド的知性」に反撥したドストエフスキーは、「意識」や「神の世界」をもち出した。しかし、ほかならぬ数学の領域で、算術そのものの公理主義的基礎づけが要求される危機的事態が、ほぼ同時代に進行していたのである。たとえば、フレーゲやラッセルは、算術の公理主義的基礎づけが可能であると信じ、数学は論理学の一部であると信じた。しかし、周知のように、ゲーデルの証明は、そのような論理が自己言及的なパラドックスに陥いることを示した。それは、ドストエフスキーのいう「意識」に似ている。だが、『地下生活者の手記』がドストエフスキーの小説のすべてではないように、「意識」のパラドックスがすべてではない。ここで、一つの転回が生じなければならない。  �他者�の導入こそこの転回である。その結論が逆であっても、ラッセルも直観主義者もゲーデルも、結局「独我論」において考えている。確実性を追求することと、その不在を証明することとが、同じ土俵で行われているのだ。すでに示唆したように、ヴィトゲンシュタインは、この土俵そのものを疑う立場に立ったのである。 [#ここで字下げ終わり]  柄谷はここで、ヴィトゲンシュタインのパラドックスは、デリダやゲーデルの示した�懐疑論的パラドックス�とは、はっきりと違った意味合いを持っていると言っている。それは「他者」という観点を導くものであると。しかし、これはどういうことだろうか。  柄谷行人が言おうとしているのは、一方に〈現実〉を置き他方に〈認識〉を置く近代の認識論のパラダイムは、一見そう見えないとしても、結局本質的には「独我論」に属していた、ということにほかならない。 「独我論」の出発点は、まず認識主観にとっての物(対象)が存在するという地点である。近代の認識論のパラダイムは、この〈主観〉としての〈物〉(感覚)から発して、客観としての〈物〉に達しようとする。実在論は、この順序をあらかじめ逆転しておく。しかし、じつは、〈物〉がある[#「ある」に傍点]ということがらは、どうしても〈他者〉という項をまず必要としている。  たとえば、ここにひとつのカップがあるとしよう。わたしがいま、「ここにカップがある」と言ってみる。ところが、もし�他者�が「そんなものはない」とあくまで言い張れば、この二人の間では、単にこの言葉の〈意味〉が成立しないだけでなく、カップの存在[#「存在」に傍点](=客観存在)ということ自体が成立しないことが判る。つまり「ここにカップがある」という言葉は、�他者�がそれを認定するか否かという、「命がけの飛躍」(柄谷行人)を通ってはじめて成り立つものにほかならない。  これをもうすこし違ったふうに言い換えることができる。つまり、〈私〉にとって〈世界〉が現われることは、端的に対象存在(事物)の「あること」、とは結びつかない。事物が「あること」は、それが、〈私〉にとっても〈他者〉にとっても同じものとしてある[#「ある」に傍点]という、いわば対象の交換式[#「交換式」に傍点]の成立にかかっている。この問題を、伝統的な認識論のパラダイムは蔽い隠している。そう柄谷は言うのである。  これはさしあたっていうと、〈存在〉や〈意味〉は、本質的に間=主観的構造としてしか捉え得ない、ということを示唆している。しかしこの問題に関してはあとにまわそう。わたしたちにとってひとまず重要なのは、柄谷行人がここで「独我論」と言うとき、おそらくそれによって思い描かれているのが、主として現象学的な内省(還元)の方法にほかならないということだ。  彼は、「言語・数・貨幣」という文章で、フッサールの方法についてつっこんだ考察を行なっている。 [#ここから1字下げ] ……フッサールにとっての�危機�は、自然科学と文化科学、諸学問(科学)と哲学といった区別を無効にするような形式数学(集合論)を前提していたがゆえに生じたのだ。彼の言葉でいえば、「哲学に残されている」のは、そのような形式的なものの基礎、あるいはその存在性格を明らかにすること以外にはない。フッサールは、現象学的=形相的還元によって、そのような形式的なものをとり出す。形式数学は�客観的�に在るわけでもないし、�心理学的�に在るわけでもない。それはイデア的なものであるほかない。(略)  それなら、イデア的・形式的なものはどこに存し、いかに形成されるのか。フッサールによれば、それは「生活世界」においてであり「超越論的主観性」によってである。(「第一章 形式化と現象学的還元」) [#ここで字下げ終わり]  柄谷が言わんとするのはこういうことだ。フッサールの現象学は、ふつう論理主義《ロジシズム》や構造主義からは、コギト哲学(主観主義)として批判される。しかしじつは、あらゆる論理主義や構造論は、「現象学的=形相的還元」の方法を暗々裡に含んでいる。フッサールは数学の基礎論から出発したために、この「形式化」の方法の前提を明らかに示し得た。現象学の方法はむしろ「形式化」の暗々裡の前提であるとともにその一極限でもある、と。  しかし柄谷は、結局現象学は、イデア的なもの(理念的な対象性—確実なもの)を、「生活世界」における「超越論的主観性」という根拠によって基礎づけようとすることによって、閉じられた形式体系(独我論)の内側にとどまっていると言う。ここから、デリダの現象学批判は、フッサールの�論理主義�(=ロゴス中心主義)に対する、認識論的パラダイムの内側からのぎりぎりの内在的[#「内在的」に傍点]批判だった、と見なされる。 [#1字下げ] たとえば、フッサールは、「顕在的ないまの統握は、過去把持の彗星の尾に向いあった核のようなものである」(「内的時間意識の現象学」)といっている。すなわち、このいま[#「いま」に傍点]が明証性そのものであり、特権的なものであって、この特権を近代哲学は疑うことができない。したがって現象学もそれに所属する、というのが、ジャック・デリダの批判である。(同前)  要するに、柄谷行人もデリダも、現象学を論理主義《ロジシズム》(=ロゴス中心主義)の極限と見ており、それは、ただ内側からそれを徹底することによってのみ打ち破ることができると考えられている。その最後のとりでとなっているのが、〈還元〉の方法から導かれたフッサールの「いま[#「いま」に傍点]という明証性」なのである。  だが、わたしの見る限り、フッサールの〈還元〉は、ロゴスの特権性(認識—対象の〈一致〉の根拠)を守っているのではない。「いま[#「いま」に傍点]の明証性」あるいは「根源的明証」と呼ばれる現象学のキータームは、ほとんどの思想家、学者たちが受けとっているような、〈真理〉の根拠ではなく、むしろ逆に、その不可能性の[#「不可能性の」に傍点]根拠を示しているのである。フッサールの「根源的明証」を、〈真理〉(イデア的なもの)の根拠と考える限り、現象学は限りなくヘーゲルの体系に近いものと見なされるだろう。事実柄谷行人はこう書いている。 [#1字下げ] フッサールは『幾何学の起源』において、幾何学が特定の時期に特定の人々(ギリシャ人)によって確立された事実をもカッコにいれる。さらに民族学的「相対性」をもカッコにいれる。かくして、彼はそこに「生活世界における普遍的アプリオリ」を見出し、それによって、歴史そのものに「理性の目的論」を見出す。(同前)  デリダはフッサールの『幾何学の起源』を仏訳してその序文を書いているが、そこで彼はもっと精密に、フッサールの〈歴史〉における「普遍的アプリオリ」を批判している(『幾何学の起源』J・デリダ序文)。ここでフッサールが提示した問いとは、なぜ純粋な理念的対象性としての「幾何学」が、歴史の中で成立しているのかということだった。この問いは、また、〈歴史〉とか〈文化〉というものを支えている�イデア的領域�の可能性の、つまりもっと簡単に言えば、ある意味での普遍的〈真理〉(幾何学などはその典型)の可能性の、基礎づけ[#「基礎づけ」に傍点]を意味している。彼はこう問いはじめる。 [#1字下げ]……いかにして心の内部で構成された形象が、まさしく心的に発生したものでありながら、まさに「幾何学的」対象性として毫も心的実在ではない理念的対象性としての、独自の相互主観的存在に達するのか。(『幾何学の起源』)  のちに詳しく見ることになるが、とりあえずわたしが注意を促したいのは、じつはここでフッサールは、「いかに幾何学的諸命題はその〈真理〉を確定されるか」と問うているのでない[#「ない」に傍点]、ということだ。ひとは誰でも客観世界(=自然)の実在を疑っていない。それと全く[#「全く」に傍点]同様に、理念的対象性(幾何学的諸命題)もいったん成立すると誰もこれを疑えないものとして所有する。これは不思議なことではないか。なぜそもそものはじめ誰かの「心の内部」で生じたある考え(正三角形は等辺であり等角でもある等々)が、誰にも疑えない〈真理〉として万人に適用するに至るのか(=「独自の相互主観的存在に達するのか」)。こう彼は問うているのである。  フッサールが示した�解答�の柱はふたつある。ひとつは、このイデア(理念)的対象(正三角形は……云々)の、主観の内での反復可能性の明証[#「明証」に傍点]ということ。もうひとつは、この明証性の遡行可能性ということだ。このふたつが幾何学的な�真理�性を支えているのである、と。  まず個人の中で、〈正三角形は……〉という理念的対象が反復され、「いま本源的に実現されたものは以前に明証的であったものと同一物だという同一性の明証が生じる[#「明証が生じる」に傍点]」。これは、いま思い浮かべた〈正三角形は……〉は、確かにどこそこで教えられ、たびたび確かめてきた〈正三角形は……〉と同じ[#「同じ」に傍点]内容のものだという確信が〈私〉のうちに生じる、ということだ。そしてこの明証は、また「別の主観によって能動的[#「能動的」に傍点]に追理解される」。こうして「反復されるこの理解の連鎖を通して、明証的なものが同じままで、他者の意識のなかへ入り込んでいく」。  これは言うまでもないが、ひとつの社会の中で理念的対象が共有化される(つまり対象的〈真理〉として一般に所有される)ことの前提条件[#「前提条件」に傍点]でもある。しかし、これだけでは十分でない。〈正三角形は……〉という�イデア性�が一般に〈真理〉と見なされるためには、この内実の確実性(明証性)が、必ず歴史的に遡行され得るという可能性が確信されていなければならない。その確信がなければ、そもそも学問は成立しないのであるから。  ところで、デリダはむろんこのフッサールの考えに反対する。フッサールの�真理の基礎づけ�は、イデア的諸観念は、その起源としての〈意味〉の明証性へ必ず還元できる、というところにあるが、それは不可能だ。こうしてむしろデリダはその「遡行不可能性」を証そうとする。 [#1字下げ] すでに恐るべき諸困難が重くのしかかっているこの型の分析のなかで、フッサールがモナド的主観の内部での意味の永続を潜在的現存にのみ執着し、この主観性のうえに言表と文書によってかち得られるような絶対に理念的な意味の客観性を気にしていないことは明らかである。ところでまさにこの客観性が世界のなかで真理としておびやかされているのだ。(「序文」)  理念的なものは、フッサールによれば言表と文書によって伝えられる。しかしそのことはすでに彼の言う〈真理〉、つまり起源的明証性の「消失[#「消失」に傍点]の可能性」にほかならない。はじめの明証性が記号に置き換えられた瞬間、記号は「物体的形式」として「相互主観性の地平のなかに」現われる。そしてそういった意味での〈記号〉から、起源としての〈意味〉を遡行することは不可能だと言うほかない。これがデリダの批判の要点である。  この批判は、彼が言語の問題に関して、フッサールの『論理学研究』に対して示した批判(『声と現象』)と全く相似形をなしている。そして、わたしの考えでは、ともに現象学の核心を捉えそこなっているところから現われたものである。  ある理念的な対象性(たとえば幾何学の命題)は、必ずそのはじめの創始者を持っている。そしてこの命題が〈真理〉であり得るのは、そのはじめの事実が、文書などを通して必ず歴史的に遡行し得るからだ。デリダは、フッサールの主張をこう理解する。そして、この遡行可能性は、じつは権利上のものにすぎず、事実としてはあり得ない、と反論する。文書に示された記号は、創始者の心の事実にかかわりなくそれ自体としてその〈意味〉を表わす、と。  しかし、これはフッサールの主張をいわば裏返しにして捉えている。フッサールは、理念的なものは必ずその起源に辿れるから[#「辿れるから」に傍点]〈真理〉となる、と言うのではない。幾何学的諸命題がある領域で〈真理〉と見なされ、生きられているという事実のうちには、次々と〈命題〉が承け継がれることの中に、それが起源的発見につきあたりつつなされていることが必ず含まれている、と言うのである。 [#ここから1字下げ] ……新しいすべての獲得物が現実の幾何学的真理を表現しているということは、演繹的構築の根底が現実に根源的明証のなかで産出され、客観化され、したがってだれにとっても等しく接近可能な獲得物になっているということが前提されるのであれば、アプリオリに確実である。  幾何学のような諸科学が何百年にもわたって生き生きと発展し続けながら、それにも拘わらず、真正でないことがあり得るわけは[#「真正でないことがあり得るわけは」に傍点]、根源の真正さを失わずにそれらを伝える歴史的可能性の基礎にある本質的諸前提が示されてこそ、理解することができるようになる。(『幾何学の起源』) [#ここで字下げ終わり]  フッサールの言うのはそれほど難解なことでない。たとえば子供が九九の「|六×九《ろつく》=五四」を「六×九=四八」だと間違って憶え込んでしまい、それをまた別の子にそのまま教えてしまうという場面を考えよう。ここでは命題の承け継ぎが「真正でない」わけだ。さて、このとき生じているのは、はじめに「六×九=五四になる」という命題を生み出した〈起源〉の明証性(=根源の真正さ)が、ここでは失われているという事態であるはずだ。そして子供が自らの「能産的」明証でこれを訂正したとき、それは再び起源の〈明証性〉につきあたったと言える[#「言える」に傍点]はずである。もしそうでなければ、つまり、「六×九」が単なる記号としてアトランダムな解釈を持ち得るだけだと考えるなら、そもそも幾何学といわれる領域そのものがはじめから不可能だったろう。こうフッサールは言うのである。  フッサールの意を汲めば、この問題は次のように言い換えることができる。  諸科学や思想は現在底のない不確実性と相対主義に蔽われている。そこでは〈歴史〉という概念そのものが危うくなっている。哲学上のまた文化上の〈真理〉はただ解釈のうちに解消され、それは〈真理〉のみならず、思想や論理そのものの根拠を崩壊させてしまった。しかし、たとえば幾何学の領域のような場所に目を移せば、そこにイデア的な対象の厳密性がどういう根拠に基づいて存在[#「存在」に傍点]し得るかということの、ひとつの例証を見出すことができるはずだ。イデア的な対象性が、客観存在する[#「する」に傍点]とかしない[#「しない」に傍点]とか言われることそれ自体は、これをつきつめてみると、起源的〈明証性〉が蘇生しているかどうかということをいちばん底の根拠としていることがわかる。だからわたしたちが、イデアの文化的伝統(哲学、思想、学問)を問題にするとき、じつは〈歴史〉というものの実在[#「実在」に傍点]をすでに暗黙のうちに前提しているのである。こうフッサールは言っているのだ。  たとえば次のような言葉を見よう。 [#ここから1字下げ]  すなわち、幾何学という現に生き生きとしている文化形象が伝統であると同時に伝統化しつつあるというわれわれの知識は、(略)すでに、たとえ「暗黙の」ものであれ、その歴史性 Geschichtlichkeit を意識しているということなのである。  それゆえ幾何学の明証化とは、ひとがそのことを明確にしていようといまいと、その歴史的伝統を開示することである。(略)体系的に一貫して究明されるならば、これら分化した明証が明らかにするものは、歴史 Geschichte の最高に豊かな内容をもつ普遍的アプリオリにほかならず、けっしてそれ以下のものではない。(同前) [#ここで字下げ終わり]  フッサールは、〈歴史〉的な〈真理〉が必ず実在する、と言っているのではない。わたしたちが所有している〈真理〉の観念は、必然的に〈歴史〉の実在の確信[#「確信」に傍点]を前提としている、と言っているのである。だが、このことは、現象学の方法の核心をつかめなければ、やはり簡単には理解しにくいことである。事実デリダは、後者の言い方を前者の意味にとり、的の外れた批判を現象学に投げかけたのである。  わたしたちはここで、さらに具体的に現象学の方法の核心に踏み込んでみよう。すると今見たような問題は、もっと容易に解きほぐすことができるはずである。 3 〈妥当〉の認識論[#「3 〈妥当〉の認識論」はゴシック体]  現象学は、自然においても歴史においても存在する超越論的な〈真理〉の基礎づけに腐心した、などという言説がまことしやかに流通している(竹内芳郎をはじめ、ほとんどの�学者�はそういう見解にならっている)。むろんこれは全くの虚言にすぎない。  フッサールがしばしば使う〈真理〉や〈厳密学〉というタームが、そういった風潮のもとになっているのだろうが、彼の〈真理〉という概念は、形而上学の〈真理〉概念と全く土台を異にしている。つまりそれは、客観的、絶対的、超越的な意味での〈真理〉を毛頭意味していない。  現象学は、まずはじめに客観世界という項を排除し、それをのちに取り戻すのではなく、「厳密な意味で背理」(『イデーン』)であるとする。では現象学の〈真理〉概念はどこに定められているのか。このことの最も枢要な標識《メルクマール》をなすのは、現象学における〈妥当〉という概念にほかならない。  フッサールは、現象学的内省[#「内省」に傍点](還元)の本質について次のように語っている。 [#1字下げ]……純粋に内面的に経験されうるもの、つまり私に現象学的に「接近しうるもの」へと、徹底的にひたすらそれのみを目指して経験の方向を深めてゆけば、私は、一つの、それ自身において完結し、それ自身において連関し合っている、固有本質の場を、所有するようになる(略)。この固有本質の場には、およそ客観的世界というものが私にとって現にそこに存在するにいたるゆえんをなすような、あらゆる現実的かつ可能的経験が、属している。しかもその際そこには、あらゆる経験確証が伴っていて、この経験確証の中で、客観的世界は、私にとって、たとえ学的には決して熟考されてはいないとしてもしかし確証された存在妥当を持つにいたるのである[#「存在妥当を持つにいたるのである」に傍点]。(『イデーン』あとがき—傍点引用者) 「客観世界というもの」、これをどう考えるかがフッサール現象学の問いの要である。そして彼はここで、「純粋に内面的に経験される」超越論的主観という領域においてのみ、客観世界の「存在妥当」が現われる、と言う。  この「存在妥当」を、客観世界の同定《アイデンテイフイケーシヨン》ととってはならない。カントは客観世界が真に存在するか否か、それは論理的に解答不可能だと見なす。しかしフッサールは、カントのこういう問いそのものに、「客観世界」をあらかじめ括弧にくくり、それ自体を問えないものにする一種の詐術を見た。フッサールの問い方は、むしろ次のようなものだ。  わたしたちが「客観世界」と呼んでいるものは、一体どういった心の体験なのか。なぜ論理的には決して確証できない「客観世界」なるものを、人間は誰も疑えないものとして受けとっているのか。  まず、物[#「物」に傍点]が客観的に存在するとは、それが、〈私〉にとっても他の誰かにとっても、唯一同一のもの[#「唯一同一のもの」に傍点]として存在しているという、�内心の確信�(相互主観的信憑[#「相互主観的信憑」に傍点])を指している。またこの相互主観的信憑として現われ出た〈客観物〉という像は、現象学では決して�確実な同定�には達し得ず、ただどうしてもそれがある[#「ある」に傍点]ことを疑えないという内心の�確信の意識�(=明証性)でしかあり得ない。この場合、この�確信�は、意志的な信じ込み[#「信じ込み」に傍点]を意味するのではなく、自ずと意識に生じる不可疑性としての明証性、を意味する。そして、内心の�確信の意識�の契機を〈内在〉と呼び、現われ出た〈客観物〉の像を〈超越〉と呼び分ける(なぜならこの〈客観物〉は存在そのものの確証を超えた信憑でしかないから)。  これをすこし言い換えてみよう。ひとつのものごとの確実な存在をわたしたちは論理的にはいくらでも疑うことができる。しかし生の実践的な秩序の中ではひとは違う態度を取っている。ものごとをあいまいに考えたりしっかり考えたりするのは人間の理性のつねだが、ものごとのほうは、人間の理性などにおかまいなく、それ自体のさまざまな諸相で、つまりあるときはあいまいなかたちで、あるときはどうしても疑えないようなかたちで、人間に迫ってくる。恋人が〈私〉を愛しているかどうかよく判らない場合もあるし、またどうしても相手の思いが疑えないこともある。それは〈私〉の理性や意志にかかわりなくむこう側から[#「むこう側から」に傍点]やってくる。そしてこれらの一切は、ただ〈私〉の経験の内側で生じ、�あいまいさ�や�確実さ�の明証[#「明証」に傍点]をもたらすのであって、推論や思い込みによる確実さではあり得ない。  事象(のあいまいさや確実さ)がこのようなかたちとして、〈私〉の意識に明証としてもたらされる構造を、フッサールは「存在妥当[#「存在妥当」に傍点]」と呼ぶのである。  ここではっきりしたことは、現象学における「存在妥当」の概念は、客観存在の確証[#「確証」に傍点]を全く意味せず(むしろそれは背理なのだ)、ただ、存在(ものごとがある[#「ある」に傍点]こと)の確信(信仰ではない)を生じさせる、経験の内的構造を意味しているということにほかならない。  この「存在妥当」という概念の意味合いは、伝統的な形而上学のプロブレマティークに対して、極めて重要な射程を持っているにもかかわらず、現象学者からほとんど注意を払われていない。たとえば、エマニュエル・レヴィナスに、この「妥当」の方法についてと思える、次のような言葉が見える。「彼にとって問題なのは、諸々の命題の確実性を取りつけることよりも、むしろ、確実性と真理とが各々の存在領域にとっていかなる意味をもち得るかを規定することである。批判主義におけると同様、思考が真理を主張することが、どうして正当なこととされるのか、その諸条件と意味を確めることが必要である」(『フッサールとハイデガー』「1主題」)。  こういう言い方は、いかにも�あいまい�であり(確実性と真理の関係云々)、またこれだけなら、カントやヘーゲルでも言えることにすぎない。レヴィナスは〈本質〉や〈志向性〉や〈還元〉について詳しく解説しているが、むしろ、現象学のそれらの体系の�要素�は、現象学がまさしく「存在妥当」の�学�(考え方)であるという�根幹�からのみ、はじめて十分に理解されるのである。  たとえば、伝統的な論理主義《ロジシズム》(認識論)は、繰り返し述べたように〈主観〉と〈客観〉を対置させ、この〈一致〉を確かめようとする。しかし、論理主義を徹底すればするほど、〈客観〉の項はもともと確かめようのないことであることが判る。そこで、デカルトのようにこれを〈神〉に依託するか、カントのように〈物自体〉として括弧でくくるかするほかはない。  また〈客観〉という項を結局言葉[#「言葉」に傍点]に帰すると見なせば、言語の「自己言及性」の問題が現われるであろう。そして注意すべきは、こういう問題設定のつきつめの中でのみ、「懐疑論」も「相対主義」も「不可知論」も不可避のディスクールとなる、ということだ。そしてまた、柄谷行人の言い方を使えば、論理主義《ロジシズム》—懐疑論—相対主義等の円環は、本質的に、「独我論」(内省)の立場から〈一致〉を確かめようとする出発点に、その全体の基礎を置いている。  では、フッサールの「存在妥当」という概念は、問題の構成をどのように改変しただろうか。いまこれを、わたしなりに簡単に整理してみると次のようなことになる。 [#ここから1字下げ] 1、「存在妥当」……〈客観存在〉はそのものとしてはもともと存在しない。存在するか否かは言えない、という言い方も背理である。それはただ〈主観〉のうちの信憑(確信)の構成としてのみ捉え得る。〈客観〉は実在[#「実在」に傍点]するのでなく、ただ「存在妥当」を得るだけである。 2、〈超越〉……〈主観〉に生じた〈客観〉の存在妥当(確信)は、独我論的な絶対的確信ではなく、間=主観的構造としてのみ成立している。したがって[#「したがって」に傍点]、対象存在の客観性は、決して最終的な〈真理〉に達しない。これが現象学の〈超越〉概念である。 3、明証性……存在妥当は、いわゆる[#「いわゆる」に傍点]主観的確信を意味しない。存在妥当は〈意識〉(超越論的主観)の�主観的意識�を超えた内的構造として現われるが、その確信一般を基礎づけ得るものが〈明証性〉の概念である。 [#ここで字下げ終わり] 〈妥当〉、〈超越〉、〈明証性〉、この三つの概念が、現象学の体系全体を支える礎石である。もっと煎じつめて言うと、〈存在妥当〉はどのようにして生じるかという問いと、その最後の根拠は〈明証性〉であるという答え方が、現象学の体系の、最も枢要なエッセンスにほかならない。つまり、一般に流通している、現象学は超越論的〈真理〉を基礎づけようとする学であるという見解とは全く逆に、現象学の「存在妥当」という考えだけが、形而上学的な〈真理〉概念を根本的に転倒し得ているのである。たとえばわたしたちは、後にデリダの形而上学批判を見るが、それが現象学のそれと比べていかに不十分なものであるかを理解するはずである。現象学の形而上学批判のこういった要諦は、なぜかほとんど理解されていない。  たとえば前記の書物で、レヴィナスは、現象学的還元について次のように述べている。 [#1字下げ] 現象学的還元とは、人間(略)が、純粋思考としての自分を再発見するために、みずから行う暴力行為というべきものである。そのような純粋ささながらにおける自分を再発見するためには、人間にとっては、自己について反省熟慮するだけでは充分でないであろう。(略)そこで、≪オブジェの存在の定立≫を暗黙のうちに含んでいる真理はことごとく、一時的に無効にされなければならない。(略)そうするとき彼が発見するものは、哲学者としての自己そのものである。事象に意味を附与しはするが、しかし、事象のうえに《のしかから》ない意識としての、哲学者の意識である。(略)それゆえ、存在を創り出した、そしてそれ自身、もはや世界の一部分ではなくて、世界以前に在る思考として、その意味を研究するために、精神が存在の自然的定立の有効性を暫定的に無効にする作業が、現象学的還元である。  レヴィナスの解説は、総じて、現象学を実存主義[#「主義」に傍点]的な「自由の哲学」と捉えるところに力点がかかっている。つまり、レヴィナスからは、現象学は、まさしくコギト主義的、独我論的な観念論のように見えている。こういった彼の現象学理解は、フランスにおける現象学理解(批判)の一定型になっているように思える。またここでは、〈還元〉は、一種実存的な自己発見のようである。しかし、レヴィナスは、フッサールが全く疑う余地のない明瞭さで語っていることを、文学的なレトリシズムによってわざわざあいまい化していると言うほかない。  なぜフッサールは、現象学的還元によって超越論的主観なる視座をとり出さなくてはならなかったのだろうか。その答えははっきりしている。  フッサールによれば、客観世界とは、ものごとが、〈私〉にとっても他の誰にとっても、唯一同一のもの[#「唯一同一のもの」に傍点]として存在することがどうしても疑えない、という相で現われるような、〈私〉にとっての対象世界を指している。客観世界の存在妥当(=不可疑性)は、だから、〈主観〉‐〈客観〉の〈一致〉として成立するのでなく、ただ〈主観〉の内側の、ある経験の構造としてのみ成立する。まさしくそのために、妥当の構造は、〈主観〉の内側だけで検証されるべき問題としてもたらされるのである。  したがってまた、この〈主観〉の内部(超越論的主観)の経験的構造は、〈客観〉が存在するという常識的前提を、あらかじめ取り払っておかなくては(=エポケー)検証されようがない。現象学的還元や超越論的主観という現象学の概念は、そういったフッサールの考え方の順序[#「順序」に傍点]を意味するだけで、それ以外にどんな神秘的な意味も含まない。それは全く明瞭な論理的な概念なのである。  さて、フッサールのこの超越論的主観の立場は、一見独我論的観念論のように見える。  たとえば柄谷行人は、ニーチェの言うような、「意識そのものへ問うこと」=内省の立場が持つ「遠近法的倒錯」の危険について、繰り返し語っている。しかし、この問題は次のようなことだ。  独我論(内省の立場)は、〈主観〉‐〈客観〉という対立項を前にして、もし認識の確実性を証そうとするなら〈主観〉から出発するほかないという立場から出発する。その理由は簡単であって、〈客観〉から出発するなら、いわば答をはじめに前提することとなり、認識の確実性を証すこと[#「証すこと」に傍点]は不可能となるからである。内省の方法は、わたしたちの〈主観〉が〈客観〉に一致することを証そうとするのであって、決してその逆ではない。また〈客観〉の仮説から出発して〈主観〉の確実性を証すこと[#「証すこと」に傍点]ができるはずがない。だから、認識そのものを問う内省の方法は、必ず〈主観〉から出発するのである。  さて、ここから出発した〈主観〉の立場は、ひとつは、デカルト、カント、ヘーゲルのように、〈神〉、現象界における経験則、諸主観の弁証法的普遍化などという形で〈客観〉を見出す。この場合、〈客観〉は必ず、ひとつひとつの〈主観〉のありようを規定する絶対的普遍的な存在そのもの[#「存在そのもの」に傍点]として括り出される。むろん、マルクス主義や構造主義も、関係の客観性をひそかに経験則(主観)から演繹しているのである。もうひとつは、〈主観〉から〈客観〉に達することは論理的に不可能であると考えて、いわば〈客観〉世界の不可疑性そのものを否認する方向があるが、これはいわゆる懐疑論や不可知論に帰結する。  近代の形而上学の難問《アポリア》は、総じてこの〈主観〉の立場の陥る袋小路によく示されている。認識論(その確実性)を問うためには、どうしても〈主観〉から出発しなければならない(フッサールが認識論の一貫性を徹底するには、観念論[#「観念論」に傍点]だけが唯一の可能性なのだと『論理学研究』で述べたのはそのためだ)。しかし、〈主観〉からもまた決して〈客観〉に達することはできないし、それを強行すれば、ニーチェの言うような「遠近法的倒錯」を避けることができないのである。  現象学は、こういった伝統的形而上学の問題構成を、「存在妥当」という概念によって根本的に改変する。それが告げるのは、〈客観〉存在それ自体は存在せず、それは、ただ相互主観的構造としてのひとつの信憑[#「信憑」に傍点]なのだ、ということにほかならない。  わたしたちは、観念論や独我論が批判されるのは〈客観〉の立場[#「立場」に傍点]によってでなく(それは批判の論拠にならない)、じつはわたしたちのうちに成立している〈客観〉世界の不可疑性の実感[#「実感」に傍点]によってであることに注意する必要がある。フッサールの方法は、むしろ、この伝統的形而上学の難問そのものを洗い出す、かつて現われた唯一の本質的方法なのである。 4 根源的明証性㈵[#「4 根源的明証性㈵」はゴシック体] 〈客観〉存在というものはじつはあり得ない。この言い方はわたしたちの常識を驚かすに足りる。しかし、よく考えてみれば、これは決して不可思議なことではないのだ。もともと、〈客観〉存在の確実性を確証しようとする形而上学の根本的なモチーフは、人間の日常世界で、つねに�あいまい�なものと確実なものが入り混って存在し、ときにどうしても見方(意見)が対立するという事態から生じたものにほかならない。  意見の正しさといったものは、必ず対立し、抗争する。形而上学の〈主観〉‐〈客観〉という�素朴�な問題設定が底に潜めているのは、じつはこの問題である。〈主観〉‐〈客観〉の〈一致〉(真理)を見出すとは、したがって、「ほんとうは唯一無二の正しい意見(世界観)があるはずだ」という考え方を証明[#「証明」に傍点]することを意味する。  わたしたちは現在、こういう考え方に対して即座に否を言うことができる。しかし、一方では、〈客観〉が存在するはずだという日常的な実感を動かすこともできない(独我論からくる懐疑主義は、論理上の帰結によってこの実感そのものを否認しようとするのだ)。フッサールの「存在妥当」という概念は、まさしくこういった生活世界の問題のかたちに、よく対応するものなのである。  誰も客観的真理というものに達し得たためしがない。しかしそれにもかかわらず、ひとは必ず日常世界の中で、これは「ほんとう」であり、これは「疑わしい」「あいまいである」という確信を持って生きている。いったいなぜそういったことが生じているのか。  わたしの見る限り、現象学だけがこのことがらに対して、全く疑問の余地ない、誰も納得できるような仕方で答えているのである。  まず、わたしたちは一体どういったことを客観存在と呼んでいるのか、と問うてみよう。たとえば誰でも、ひとそれぞれがひどく異なった世界を生きていることをよく知っている。芸術家の世界[#「世界」に傍点]と、サラリーマンの世界[#「世界」に傍点]は、全く違った[#「全く違った」に傍点]世界であるし、また芸術家から見られた世界と、サラリーマンから見られた世界とは、これもひどく違ったふうに現われているはずだ。つまり、世界は、〈主観〉にとっては決して同じ物、同一物、としては現われない。しかし、それにもかかわらず、わたしたちは、世界がたったひとつしかないものであり、この唯一同一物としての世界の中に[#「中に」に傍点]、自分たちが生きて存在している、ということを疑ったりはしない。 「世界はたったひとつしかない」ということのこの不可疑性を、わたしたちは世界の客観存在と呼んでいるのであり、そのこと自体にはどんな不都合もない。だが認識論上のアポリアは、その次にやってくる推論によって避け難いものとなる。つまりそれは、この世界の客観存在は、それ自体独立した絶対的な秩序や法則を内在的に持っている[#「それ自体独立した絶対的な秩序や法則を内在的に持っている」に傍点]はずだ、という推論である。この推論は、次のような考えを意味している。〈主観〉にとって〈客観〉がさまざまな異なった現われ方[#「現われ方」に傍点]を示すのは、ただ〈主観〉の視線[#「視線」に傍点]の位置が同一でないからである。一切の〈主観〉の視線の位置を全く同一点に置くことはむろん不可能だ。すると、問題は、客観存在が持っている絶対的な秩序や法則をまず[#「まず」に傍点]掴み当てることによって、諸〈主観〉に現われる〈客観〉の相の諸差異を説明することである。〈主観〉に現われる世界像の諸差異は、いわば、客観的構造[#「構造」に傍点]の概念によって、全く誤つことのない交換式を得るであろう……。  こうして、「世界はたったひとつしかない」という不可疑性は、「世界はそれ自体で絶対的な秩序や法則を持ち、したがってそれは理性によって捉えられるはずだ」、という�客観的真理�の理念へ転化されるのである。  ところで、ここで肝要なのは、「それ自体で絶対的な秩序や法則を持つような客観存在」とは、決してあり得ないものだ、という事情をよく了解することなのである。  わたしはさしあたり次のように言おう。もの[#「もの」に傍点]の存在はその内在的な秩序や法則のかたちとしてのみ規定される[#「規定される」に傍点]。しかし、それが内在的な秩序や法則として規定されるのは、もの[#「もの」に傍点]が、〈主観[#「主観」に傍点]〉にとって[#「にとって」に傍点]、諸性質、形状等々として[#「として」に傍点]現われるからである。このとき〈主観〉とは、単なる意識の座ではなく、〈欲望〉や〈身体〉として世界に向き合っているいわば存在要請の座である。〈主観〉が、〈欲望〉や〈身体〉として存在していることによって、事物は、諸性質や形状等々として[#「として」に傍点]〈主観〉に現われ出るし[#「現われ出るし」に傍点]、そのことがなければ、この現われ[#「現われ」に傍点]の共通項としての秩序や法則といったものもそもそも成立しない。  このことは次のようなことを意味しているはずだ。世界の存在[#「存在」に傍点](あること[#「あること」に傍点])は、〈主観〉にとってのみ現われ出るような事実性[#「事実性」に傍点]である。だから、客観世界の秩序や法則とは、それ自体として存在するものではなく、諸〈主観〉に現われ出る〈世界〉の、現われ方[#「現われ方」に傍点]の共通項にほかならない。つまり、客観世界とは、本質的に、相互主観的関係の網の目の中に浮かぶ、唯一同一の世界、という信憑の像なのである。しかしまた、この相互主観性それ自身も、結局〈意識〉のうちの信憑の構造なのである。  伝統的な認識論は、客観世界の絶対的秩序や法則が、それぞれの〈主観〉に現われ出る[#「現われ出る」に傍点]と考えたために、この現われから客観世界の絶対性に達し得るはずだ、と推論した。しかし、これは背理である。〈世界〉の存在[#「存在」に傍点]とは、それが〈主観〉にとって現われ出ているその仕方[#「その仕方」に傍点]のことだから、もともと〈主観〉にかかわりなくそれ自体として存在する世界とは、ロジカルには無意味なのだ。このことをもうすこし考えてみよう。  たとえば、ここにひとつのカップがあるとする。このカップというもの[#「もの」に傍点]の存在は、なるほどわたしたちにとっては、それでコーヒーや水を飲むための器[#「器」に傍点]といった共通のありよう[#「ありよう」に傍点]を示している。しかし、たとえばもしも〈私〉が一匹の虫のようなもの(=身体性)ならば、〈私〉はそれで水を飲むことはできず、むしろひとつのカップは、〈私〉がその中で溺れ死ぬかも知れない危険な領域である。このように、事物の存在のありようは、〈主観〉の〈身体〉や〈欲望〉によってかたちを変える。だが、このことは、世界とは全くアトランダムなわけのわからないものだ、ということを意味するわけではない。そうではなくて、世界の秩序や法則といったものは、原理的に、諸〈主観〉に現われ出ている世界の相から�帰納�されつつあるものであって、決してその逆ではない、ということなのである。  だから、客観世界の秩序や法則という場所から考えはじめないで、〈主観〉に現われ出る世界の相から、それがいかに客観世界という信憑を括り出すかという道すじで考えたほうがいい、とフッサールは主張するのである。  ここにひとつのカップがある。この事態はふつうは〈客観〉的事実のように見える。しかし、現象学の方法では、この確信[#「確信」に傍点]は、〈主観〉のうちのいくつもの経験的条件の積み重なりによって生じている。  まず、ひとつのカップの確信は、それ自体が、客観的な世界(=地平)のうちにあり、その他のさまざまなもの[#「もの」に傍点](テーブル、部屋、街、世界)と自然物としての因果関連を保って存在しているという確信[#「確信」に傍点]を、土台にしている。この世界地平[#「世界地平」に傍点](ハイデガーでは世界‐内‐存在)の確信[#「の確信」に傍点]は、じつはそのつど〈意識〉に生じているのでなく、いわば個人の歴史の中で「沈澱」(=身体化)された構造である。  また、この「地平」の沈澱[#「沈澱」に傍点]は、決して独我論的な〈世界〉と〈私〉の向き合いの中では生じない。客観的世界があるという暗黙の信憑は、本質的には、むしろ〈私〉と〈他者〉(たち)との間の、「心的存在」の相互信憑の構造としてのみ成立する。フッサールの言う間[#「間」に傍点]=主観[#「主観」に傍点]性とは、まさしくそういう意味以外のものではないのだが、それはまた次のようなことでもある。  独我論は、〈私〉と向き合う〈世界〉に客観[#「客観」に傍点]を見出そうとする。だが、たとえばデカルトやカントにおけるような、主観のうちに現われた〈世界〉は、じつはただ純粋な〈意識〉にとっての対象世界であって、決して客観[#「客観」に傍点]の構成を説明し得ない。その理由はひとつである。〈客観〉とは、〈私〉の主観のうちに現われ出ている当の対象世界が、〈他人〉にとっても同じ形で現われており、したがって[#「したがって」に傍点]それは唯一同一のものとして、つまり〈私〉と〈他人〉の主観の、共通の原因として存在するものに違いない、という確信の構造[#「確信の構造」に傍点]を意味するのだが、彼らの〈世界〉は、あるいは〈神〉によって、あるいは〈物自体〉によってあらかじめ〈客観〉に結びつけられてしまっているからである。  つまり、〈客観〉それ自体は、つねにすでに間=主観的な存在妥当の構造なのである。しかし、ここで注意すべきなのは、今ある〈主観〉にとって、このことはべつに意識されているわけではないという点だ。独我論的〈主観〉は、現にある〈私〉と〈世界〉の向き合いの中だけで〈客観〉の根拠を探ろうとし、そのために一方では�超越的�普遍性を想定することになるか、また一方で、懐疑論や不可知論に陥ることになるのである。  おそらく柄谷行人が、内省の方法は「他者」の問題を回避しており、そのことによって独我論でしかないと言うのは、このような事態を指しているように思える。  さて、では、人間の〈意識〉にそのつど[#「そのつど」に傍点]生じるような、〈客観〉の確信(これは確かにひとつのカップだ)は、どういう条件を必要とするだろうか。  たとえば、暗い部屋の中でものを見るとき、それが確かにひとつのカップであるかどうか�あいまい�な場合がある。ひとはこのときことさらにそれをカップだと思い込もうとしたり、否認しようとしたりしない。それ(存在妥当)は必ず〈主観〉のむこう側(外部)から、確かなもの、あいまいなもの、そうではないものといった相で〈主観〉にやってくる[#「やってくる」に傍点]のだ。ではそれをもたらすものは一体何か。  フッサールの「明証性」という概念は、この場面で〈主観〉に妥当(ものがあるという確信)をもたらすものとして導かれている。 [#1字下げ] 次にわれわれが明らかにせねばならないことは、基礎づけられた判断を求める努力、ないし基礎づけの作用である。というのは、基礎づけの作用において、判断の正当性、すなわちそれの真理性[#「真理性」に傍点]——逆に基礎づけの不成功のばあいには、判断の非正当性、すなわち虚偽性——が証明されるはずだからである。(略)そして、基礎づけないし認識の意味を、いっそう厳密に解釈するなら、われわれはまもなく、明証という理念に到達する。(『デカルト的省察』)  幾度でも繰り返さなければならないが、フッサールの言う「真理性」とは、客観存在[#「客観存在」に傍点]の確証の基礎づけではなく、存在妥当[#「存在妥当」に傍点]の基礎づけを意味する。ものごとが真に客観存在するか否か、そういう問いはじつは倒錯している。そうではなく、ひとが、これは確かに「ほんとう」だとか、これは違うとかいう判断を行なうこと、それ自身の基礎づけだけが、問い得るのである、と。 「明証性」とは、簡単に言えば、反省作用の中で確かめられる対象存在の動かし難さ、である。それは、ただ、何度繰り返しても同じ対象性として意識に生じるという「反復」の事実性によってのみ支えられる。  たとえば、夜、うす暗い部屋で目を醒まし、テーブルの上にある白くぼんやりしたものを目にして、カップがある[#「ある」に傍点]と思うとしよう。この〈妥当〉は、昨日〈私〉が寝るまえにコーヒーを飲んだという記憶が、何度繰り返しても確実なものとして「反復」されるとき、いくぶん間違いないものとして生じる。この記憶があいまいなときは、別の仕方で〈妥当〉が求められる。たとえば〈私〉は、もっと近づいて形を確かめたり、それを手にしてみたり、また灯りを点けてみたりするだろう。  これらの行為は、それぞれの「明証性」を形造る。明証性が動かし難いものとして現われるほど、〈私〉は判断の確信を強くする。ところで、ここで注意すべきは、存在妥当がこのような明証性に支えられている限り、それが対象存在の最終的な[#「最終的な」に傍点]客観存在に到達することは論理的にあり得ないということだ。これは現象学において事物存在の〈超越〉といわれる概念であり、〈還元〉の方法がもたらす全く論理的な一帰結である。 [#1字下げ]……われわれの知っているように、事物世界の本質には次のことが属している。すなわち、この事物世界の圏域においてはいかに完全な知覚といえども、或る絶対的なものを与えることはない[#「絶対的なものを与えることはない」に傍点]というのが、それである。(『イデーン』第四六節)  これは、さしあたって[#「さしあたって」に傍点]は次のようなことだ。〈私〉は、昨夜の記憶をたよりに、あの白いものは形や位置から見て、確かに昨夜〈私〉の使ったコーヒーカップだと「確信」する。しかし、この「確信」は、どれほど「完全」なものに近づこうと、ひょっとすると当のコーヒーカップでないという可能性、つまり存在妥当の可疑性[#「可疑性」に傍点]と変更可能性[#「変更可能性」に傍点]を決して最終的には排除できない。このカップは夜中に誰かが似たものと取り換えたのかも知れず、また〈私〉のほうに記憶違いが全然ないとは、「絶対的」には言えないからだ。  明証性の中で現われ出た〈事物存在〉は、こうして、最終的に「絶対的なもの」を与えることは決してない。これが外界的な事象の〈超越〉性である。  しかし、このことが意味するのは、〈主観〉は、決して〈客観〉存在に達し得ない[#「達し得ない」に傍点]といったことではない点に、わたしたちは十分注意すべきである。 〈存在妥当〉、〈明証性〉、〈超越〉という概念が示唆しているのは、全く違ったことだ。現象学における〈存在妥当〉は、繰り返し見たように、〈主観〉‐〈客観〉という項それ自身を廃棄する。その代りに、わたしたちは、〈意味志向〉‐〈意味充実〉という、〈主観〉の内的構造を得ることになる。〈存在妥当〉はこの構造の中でのみ成立する。これをもうすこし詳しく見よう。 〈私〉に〈カップがある〉といった存在妥当が生じるとき、そこに何が起っているのか。  まず肝心なのは、この存在妥当は、必ず大なり小なり反省的(サルトルでは措定的)意識の中で呼び寄せられるということだ。このことは、〈妥当〉とは、ひとが自分を〈世界〉との関係項としてそのつど[#「そのつど」に傍点]つかもうとする、いわば主体的な(必ずしも意識的な[#「意識的な」に傍点]ではない)行為として存在するということを、本質的に意味している。  フッサールは、そのつど〈妥当〉が成立するこの〈主観〉の内的構造を、「ノエシス的体験」と呼ぶ。 [#ここから1字下げ]  どんな志向的体験もみな、そのノエシス的契機のおかげで、まさにノエシス的体験である。ということはすなわち、或る一つの「意味」といったようなもの、時には多面性を孕んだ意味といったようなものを、おのれのうちに内蔵するということ、そしてこの意味付与にもとづきまたそれと結び付いて、その意味付与のゆえにまさに「意味にあふれた」ものとなるところのさらに細かい働きを遂行するということ、これが、志向的体験の本質にほかならないということである。(略)  どんな場合でも、一方に、実的なノエシス的な内実の多様な与件があるとすれば、必ずそれに対応して他方に、それと相関的な「ノエマ的な内実[#「ノエマ的な内実」に傍点]」もしくは簡単に「ノエマ[#「ノエマ」に傍点]」のうちに、真に純粋な直観において明示しうる与件の多様が、あるのである。——右の「ノエマ的な内実」とか「ノエマ」とかいった術語は、今後われわれが絶えず使用するであろう術語である。(『イデーン』第八八節) [#ここで字下げ終わり]  ひとつのカップ(の現われ)に向き合っているとき、人間は、〈主観〉として〈客観〉に向き合っている、そう伝統的認識は考える。しかしそうではない。説明のために幾分図式的になるのを恐れずに言うと、この場合、ひとはまずこれはカップだろうかどうかというたぐいの「意味志向」として、〈知覚〉に向き合っている。そしてこの「意味志向」に対応して、これは確かに昨夜〈私〉が使ったそのカップだ、という「意味充実」が生じる。フッサールは前者を、志向的体験の「ノエシス的」契機と呼び、後者を「ノエマ的内実」と呼ぶ。  つまり存在妥当につきまとうのは、〈主観〉‐〈客観〉ではなく、〈ノエシス〉‐〈ノエマ〉という、主観内部[#「内部」に傍点]の志向体験の構造にほかならない。このことはまた、次のような意味を持っている。  存在妥当が本質的に〈超越〉としての事象にしか達しないということは、〈主観〉の認識は不完全なものであり、したがって普遍的、絶対的なものに届かない[#「届かない」に傍点]といったことを、全く意味しない。むしろ、〈私〉にとっておよそ事象の現われ(現象)とは、〈私〉が生きているという事態の中で絶えず発している意味志向にかなったり[#「かなったり」に傍点]、かなわなかったり[#「かなわなかったり」に傍点]といったかたちでのみ、本質的に存在する、ということを意味するのである。  なぜカップの妥当[#「妥当」に傍点]が問題になるかと言うと、それは「時には多面性を孕んだ意味といったようなものを」、あらかじめ〈主観〉が持つからだ。つまり、それで水を飲みたいとか、単に闇に浮かんだ白さが気になってそれを確かめておきたいとかいった、〈主観〉の意味志向によって、はじめて妥当が問題となる。そして、実際にそれで水を飲むなり、また白いものはカップだったと認めて落着くなりということが成り立ちさえすれば、それが本当に[#「本当に」に傍点]昨夜のあのカップか否かといったことは問題ではない。  事物の存在[#「存在」に傍点]とは、本質的にそういったものであって、それ以外の存在の仕方を決して持っていない。この〈ノエシス‐ノエマ〉という構造の内部でのみ、事物や現実の存在[#「存在」に傍点]は生じ、またどうしても疑えないという〈妥当〉が生じる。ひとつのカップが真に[#「真に」に傍点]昨夜のそのカップであるか否か、あるいは〈主観〉のうちのカップは真に客観としてのカップか否かといった問いは、じつは、間=主観的構造の中で、事物世界の客観存在という信憑のレベルがすでに成立しているために、そこからの折り返しとして現われたレトリカルな問いなのである。  現象学はこのようにして、〈客観〉、〈存在〉、〈現実〉という概念の根そのものを編み変える。こう見てくると、フッサールの言う「根源的明証性」という言葉は、全く論理的なものとしてつかまれるはずだ。  よく知られている現象学における「諸原理の原理」なるものを見てみよう。 [#1字下げ]……さて、一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理[#「一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理」に傍点]というものがある。それはすなわち、こういうものである。すべての原的に与える働きをする直観こそは[#「すべての原的に与える働きをする直観こそは」に傍点]、認識の正当性の源泉[#「認識の正当性の源泉」に傍点]であるということ、つまり、われわれに対し「直観[#「直観」に傍点]」のうちで原的に[#「のうちで原的に」に傍点]、(いわばその生身のありありとした現実性において)、呈示されてくるすべてのものは[#「呈示されてくるすべてのものは」に傍点]、それが自分を与えてくるとおりのままに[#「それが自分を与えてくるとおりのままに」に傍点]、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ[#「それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ」に傍点]、端的に受け取られねばならない[#「端的に受け取られねばならない」に傍点]ということ、これである。(同前第二四節)  事物が、どうしても疑えないものとしてわたしたちの周りに客観存在するという確信(存在妥当)は、その源泉をどこに持っているか。  まずそれは、すでに見たような意識の志向的体験として生じる。だが、この妥当を確実なものとするために、わたしたちは体験を再確認し、この再確認の中でまた確信を反復する。つまり、意味志向とその充実、反省、確認、反復、これらの心的な志向的諸体験の中でのみ、存在の確信[#「確信」に傍点]や非確信[#「非確信」に傍点](真偽の判断)が現われるのである。  これは確かにカップだといった、それ以上疑うことに意味のないような、「生活世界」のうちのさまざまな明証性は、ただ、こういった構造としてだけ生じる。そしてこれらの心的な志向体験の諸契機は、全て「原的に与える働きをする直観」、つまり現に生きられている生き生きした意識として生起しているのであって、明証性を確かめるためにこれ以外のどんな材料も人間はもっていない。こうフッサールは言うのである。  根源的明証性、これだけが〈存在妥当〉の現実的な根拠である。だがはじめに見たように、フッサールのこの言い方が、現象学を「超越的真理の基礎づけ」の学と見なす根強い誤解を生んでいる。根源的明証性とは何を意味するのか。わたしたちは、もう一歩踏み込んで考えてみよう。 5 根源的明証性㈼[#「5 根源的明証性㈼」はゴシック体]  フッサールは「本質観取」(原的に理念を観て取る働き)の概念について、極めて誤解を呼びやすいが、しかし大変興味深い言い方をしている。  もろもろの事物は、知覚や想起の原的な明証性の中で、「現実的」だと意識されたり、「空しい(幻覚的)もの」と意識されたりする。これは先ほど見たような〈存在妥当〉の諸様態を指している。ところで彼は「本質」もじつは同じ原理で存在する[#「存在する」に傍点]と言うのである。 [#1字下げ]……本質に関しても、事情は全くよく似ているのである。そしてそれと連関することだが、本質もまた、ほかの対象と同様に、或る時は正しく、また或る時は間違った仕方で、思向されることができるのであって、後者の例が、間違った幾何学的思考の場合である。本質把握や本質直観というものは、ところで、多様の形態を持つ作用なのであり、とりわけ本質観取は[#「本質観取は」に傍点]、一つの原的に与える働きをする作用であって[#「一つの原的に与える働きをする作用であって」に傍点]、またそのようなものであるからには、感性的知覚作用の類比物であって[#「感性的知覚作用の類比物であって」に傍点]、空想作用の[#「空想作用の」に傍点]類比物ではないのである[#「ではないのである」に傍点]。(同前第二三節)  フッサールの言わんとするのは、こういうことだ。事物存在と言葉の意味(=本質)はふつう全く異なった存在原理を持つとされる。事物存在は実在[#「実在」に傍点]するが、言葉の意味はいわば観念のうちに生起するだけである、といった具合に。しかし、事物存在を〈妥当〉という観点から見るなら、じつは「本質」もその〈妥当〉を持っており、それが成立する構造は、ほぼ同じなのである。 〈意味〉は〈物〉と同じように現実存在する。これはわたしたちの常識にとっては驚くべき考え方だ。しかし、現象学のこういう一貫性だけが、言葉と物に関して解き難くからみ合った認識論上の難問をよくほぐし得るのである。  たとえば柄谷行人は〈意味〉というパラドックスを、次のような仕方で示している。 [#1字下げ] われわれは、ある言葉(記号)で何かを了解するとき、つまりその「意味がわかる」とき、「意味」をどこかに想定したくなる。「意味がわかる」以上、「意味」は在るはずだ。それはどこに在るのか。この問いこそわな[#「わな」に傍点]であり、答えるべきではないのだが、「受けとる」側から出発するかぎり、この問いは不可避的にあらわれる。この問いがある以上、われわれは、意味を、対象物や心像に求めるか、さもなければ、概念やイデアとしてとり出すことになる。(「探究」1)  注意深い読者ならば、ここでの「意味は在るはずだ」という問いが、「客観存在はあるはずだ、それはいかにあるか」という問いと、全く同じ構造で呼び寄せられていることに気付くだろう。そして、〈客観存在〉が、事物の反転した超越的理念であるように、〈イデア〉(プラトン的な)は、〈意味〉の超越的理念なのである。 〈意味〉の問題をフッサールはどう考えただろうか。  よく知られているように、彼は『論理学研究』において、言葉を「表現」と「指標」とのふたつの契機に分け、言葉の本質を最終的に「表現」へと�還元�する(『論研』では「還元」という概念はまだ現われていない)。  ここでの「表現」とは、簡単に言うと、発話者の言わんとすること[#「言わんとすること」に傍点]、を意味する(=有意味的記号)。そしてフッサールによれば言語の〈意味〉の源泉は、この〈表現〉‐〈記号〉という回路で示される。これはいわば、発話者の〈言わんとすること〉(=意味賦活)と、それが言われた(=意味充実)というふたつの契機の内的構造である。もはや言うまでもないが、このフッサールの「意味論」は、存在妥当の構造と全く同形である。存在妥当は〈意味志向〉と〈意味充実〉の内的な構造として生じるが、いわば〈意味妥当〉は、〈意味賦活〉と〈意味充実〉の内的な構造として成立する。  ジャック・デリダは、『声と現象』で、フッサールのこの考えに詳細な反論を試みている。その要点は次のようなことである。  フッサールの〈表現〉‐〈記号〉という〈意味〉の源泉は、要するに〈根源的意味〉‐〈記号表現〉という回路を示している。これは言い換えると〈現前〉‐〈再現前〉という構図だが、言語においてこういった区別は可能だろうか。ここでは、はじめに�根源�としての直観、〈このカップは白い〉という内的な意味賦活(=現実そのもの)があり、次に、「このカップは白い」という言表(あるいは内語)がある。かくして、現前と再現前が〈一致〉する。これは、記号(言葉)はその真の〈意味〉に還元可能だと言うことだ。しかし、じつは、〈このカップは白い〉という直観それ自体が、まず記号(言葉)の反復可能性によって成立しているのではないか。 [#1字下げ]……表現の場合であれ指標的伝達の場合であれ、現実とルプレザンタシオンとの、真なるものと想像的なものとの、端的な現前と反復との区別は、つねにすでに抹消され始めていたのである。この区別が維持されていること——形而上学の歴史において、そしてフッサールにおいてなお——は、現前を救い記号を還元もしくは導来しようという根強い願望に呼応してはいないであろうか。  ここでデリダが見ているのは、現象学においては〈意味〉と〈記号〉の〈一致〉の根拠が示されているが、それはあの〈客観〉‐〈主観〉の〈一致〉を図ろうとする「形而上学の歴史」と重なり合っている、ということだ。〈意味〉、〈現前〉、〈現実〉は、〈記号〉、〈再現《ルプレザンタシオン》〉、〈認識〉と〈一致〉する。それは、伝統的な認識論の問題設定に立ち戻り、これを根拠づけることになる。だが、〈現実〉そのものとは、すでに〈言葉〉でなかったか。デリダはこういったパラドックスを現象学に向けて投げかける。  しかし、わたしたちが詳しく見てきたように、フッサールの現象学は、むしろ〈現実〉と〈言葉〉という対立項が生むパラドックスを、解きほぐすものなのである。現象学において存在客観は〈存在妥当〉の問題に移された。これと同様、意味客観は、いわば〈意味妥当〉という地平に移される。  フッサールはたとえば、「三角形の三つの垂線は一点で交わる」といった言葉を�反復の可能性�としてどれほどつきつめようと、〈意味〉が底に隠しているものは決してつきとめられないと言う。 [#1字下げ] なんどその言表を反復しても、常にわれわれが同一のものとして明証的に意識しうる、このような意味のうちには、判断作用や判断者については、全く何も発見されない。(『論理学研究』第二巻第一一節)  フッサールが言うのはこういうことである。ある言表が、真であるか偽であるか、つまり現実それ自体[#「現実それ自体」に傍点]につきあたっているか否か、といったことがら(判断の真偽)には、〈意味〉の本質はない。〈意味〉の本質はただ、発話者の〈言わんとすること〉(意味賦活)と、ある言表によって確かにそのこと[#「そのこと」に傍点]が言われたという〈意味充実〉の、内的な相関構造としてしか現われない、と。 「このコーヒーはおいしい」と誰かが言う。もし記号が、差異の体系による�反復の可能性�(フッサール)なのだとすれば、この言葉の正確な〈意味〉は、〈この コーヒー は おいしい〉といった語の連なりの、シンタグムとパラディグムのシステム的な価値として反復されるということになる。  これはおかしい、とデリダは考えた。そこで彼は、「このコーヒーはおいしい」という言表は、それ自体としてはじつは〈主体〉を確定できないものだ、と言うのである。記号が反復の可能性によって支えられているとすれば、「このコーヒーはおいしい」は、誰がいつしゃべっても、同じ〈意味〉を再現《ルプレザンタシオン》できるというのでなくてはならないから。しかしまさしくそのことは、フッサールの言う、〈言わんとする〉〈意味〉とその再現(言葉)の根源的な繋がりを断ち切るものとなる、と。  だがフッサールの言っていることはこれと違っている。それをよく考えてみよう。  いま〈私〉が「このコーヒーはおいしい」と言ったとする。このときこの言葉の〈意味〉は、当のコーヒーがほんとうにおいしいものか否かという事実客観[#「事実客観」に傍点]にはかかわらない。この発語された言葉が、自分の内的な経験から生じ(意味賦活)、確かにその経験につきあたっている(意味充実)という、その�明証�によって、はじめてこの言葉に〈意味〉があるとかないとかいったことが生じるのである。 〈私〉といっしょにコーヒーを飲んだ友人がいるとしよう。彼がコーヒーをまずいと思ったとすれば、彼は〈私〉の言葉を嘘ととるかも知れないし、〈私〉がこんなまずいコーヒーをおいしいと思っているのか、ととるかも知れない。つまり、「聞き手」からは、言表の客観的な真偽[#「客観的な真偽」に傍点]ははじめから問題になっていない。彼は、〈私〉に経験(意味賦活)があり、それに対応して言表(意味充実)がなされたことを知っている。そのために彼は、彼の内部で、この言葉から〈意味〉を汲もうとするのである。  ここでは、およそ〈意味〉があるとか、それがどういう〈意味〉かといった問題は、〈この コーヒーは おいしい〉という語の体系的な価値としてでなく、ただ〈言わんとすること〉(意味賦活)とその[#「その」に傍点]言表(意味充実)がある[#「ある」に傍点]という信憑の関係として生じているのである。そうでなければ、「このコーヒーはおいしい」という言葉は、誰がいつしゃべっても、またたとえ主体を欠いていても、必ず同一の〈意味〉を反復するということになるだろう。  デリダが問題にするエクリチュール(書かれた言葉)においても、事態は全く変らない。エクリチュールにあっては、デリダが言うように、〈主体〉はいわば象徴的に死んでいる。聞き手、あるいは読み手にとって現われる〈意味〉は、まず言表が〈言わんとすること〉に対する〈意味賦活〉、つまりこういうことだろう(か)という意味志向が生じ、そしてそれに対する〈意味充実〉、つまり確かにかく言っている、とか、よく�意味�が判らない、とかいったことが現われる。ここでも、およそ〈意味〉があるとか、〈意味〉が判らないとかいったことが生じるのは、言表が客観的現実に〈一致〉するか否かということではなく、ただ〈意味賦活〉‐〈意味充実〉という相関構造においてなのである。  つまり、フッサールが言っているのは、デリダの主張とは違って、言葉の〈意味〉は、その根源的な現前[#「現前」に傍点]に〈一致〉する、ということでは決してない。およそ〈意味〉が生じるということの根拠は、人間が生のさまざまな事態に意味志向を投げかけており、この意味志向との対応として記号を用いるということのうちにある、こう彼は言っているのである。この考え方は、わたしたちのテーマにとって極めて大きな意味を持っているが、それについてはのちに見ることになるだろう。  ともあれ、さしあたってわたしたちは次のようなことに気付くはずだ。事物の存在にせよ意味の存在にせよ、それが客観的[#「客観的」に傍点]にあるということは決して言えない。つまりある[#「ある」に傍点](存在する)という問題の機制は、客観や普遍や一般者からの規定として考えることができない。それらは相互主観の中で「自然的見方」が信憑として成立したのち、その折り返し(顛倒)として現われた観点である。事物も意味もただ〈妥当〉としてのみ現実存在する。そしてそれが疑えない確信として人間にとって現われ出る根拠は、経験の内的構造としての、意味志向と明証性の機制である。それらはいずれもただ、原的に与えられた直観としてだけ生じ、それ以外のどんな理念にも支えられない。  これがフッサール現象学の考え方のエッセンスにほかならない。現象学はさまざまな誤解にさらされてきたが、わたしたちは、〈世界〉と〈私〉の生に関する問いを、まず次のような土台からもう一度踏み直してみなくてはならない。 [#1字下げ] 世界は私にとって存在しかつ世界は内容的にもそれが私にとって存在する姿においてあるものなのだが、ただしそうであるというのも、ひとえにただ、世界は、私自身の純粋な生のうちから、意味および確証されうる妥当を、獲得してくるからこそであり、またその私自身の純粋な生のうちで開示されてゆく他人たちの生のうちから[#「私自身の純粋な生のうちで開示されてゆく他人たちの生のうちから」に傍点]、意味および確証されうる妥当を[#「意味および確証されうる妥当を」に傍点]、獲得してくる[#「獲得してくる」に傍点]からこそである。(『イデーン』あとがき—傍点引用者) 6 認識の限界点[#「6 認識の限界点」はゴシック体]  ソシュールの思想的営みが明らかにしたように、言葉とは、もしそのあるがまま[#「あるがまま」に傍点]のすがたをつきとめようとすると謎に満ちたものとして自らを現わす。しかし、ひとつはっきりしているのは、言葉のつきとめ難さは、結局〈社会関係〉のつきとめ難さと同じ性質のものだということである。それは歴史的に積み重ねられ、かつ現実社会の関係の網の目の中で微妙に変化してゆく。ニーチェに「歴史的なものは定義できない」という言葉があるが、同様に「社会的なものも定義(規定)」し尽せない。これは原理的なことなのである。  しかし、現象学は、いわば人間にとって言い得ない[#「言い得ない」に傍点]ことが存在し、なぜそれが言い得ないのかを、〈還元〉という方法によって、潜在的には全く明らかにしている。そしてもっと重要なのは、この「言い得ない」ことが、人間の生にとってどういう意味を持っているのか[#「人間の生にとってどういう意味を持っているのか」に傍点]ということも、まさしくこの場所ではじめて示されるという点である。 〈意味〉は、〈意味志向〉と〈意味充実〉(ノエシス‐ノエマ)という相関構造の中でのみ生じる(フッサールはこの概念を決してあいまいな仮説として使っていない。『イデーン』にあたれば、彼がその相関構造を極めて明らかなかたちで言い尽していることがわかるはずだ)。ではこの〈意味志向〉とか〈意味充実〉とは何なのか。わたしたちは、フッサールが〈還元〉によってゆきついた地点をさらに徹底してみよう。  フッサールは〈意味〉についてこう述べている。 [#1字下げ] ≪意味≫とは何かということは、色や音とは何かということがわれわれに与えられているのと同様、直接的にわれわれに与えられているであろう。それはもうそれ以上定義されず、記述的に最後のものである。われわれがある表現をしたり、それを理解したりするたびに、その表現はわれわれに対して何かを意味し、われわれはその表現の意味《ジン》を顕在的に意識するのである。この理解したり、意味したり、意味《ジン》を成就したりすることは、音声を聞いたり、なんらかの同時的ファンタスマを体験したりすることではない。したがって現出する各音声の現象学的相違と同様、それぞれの意味の相違もわれわれに明証的に与えられている。(『論理学研究』第二巻第三一節)  たとえば友人が〈私〉に向かって、「お前はバカだ」と言ったとしよう。このとき〈私〉は、友人の言表を言語体系《システム》として理解してその〈意味〉を了解しているというわけでない。ただ腹が立ったりとか、親愛感の表明などとして、〈私〉はこれを受けとる。このとき、そういうものとして友人の言葉を受けとったという〈意識〉において、〈私〉はこの言葉の〈意味〉を了解したと感じる。  こういう場合、〈意味〉は一体どういうものとして捉えられるだろうか。  フッサールがここで言っているのは次のようなことだ。友人の言葉は、〈私〉になにか[#「なにか」に傍点]をもたらすわけだが、このなにかは「色や音」、つまり知覚が〈私〉にもたらす明証的な直観と全く同じ構造で現われる。あえて言えば、ある色や音のありありとした〈知覚〉は、〈私〉にある感じ[#「感じ」に傍点]を与えるのだが(この感じを、フッサールは明証的な直観とか根源的な明証と呼んでいる)、重要なのは、この感じ[#「感じ」に傍点]は、意識の水面に浮かんでいる現[#「現」に傍点]事実というべきもので、それ自体は決してそれ以上分析され得ないものだ、という点である。  なぜある色や音が、ある特定の感じを与えるか、なぜある言葉が、ある特定の感じをもたらすのか、なぜそういうことが起るのかは、誰もそれ以上を辿れない「記述的に最後のもの」である。そういった事実は、直接に、そして顕在的に人間に与えられている根源的な所与性というほかない。  そうであるからこそ、言葉の〈意味〉の根拠は、この根源的所与性(原的な明証性)にあると言われるのである。なぜなら、ある言葉に〈意味〉があるとか〈意味〉が違っているとかということは、それを聞いて腹が立ったとか、親しみを感じたという、経験の直接的な所与性に相関することによってしか生じようがないからだ。  何度も繰り返すが、フッサールはここで、言葉(記号)は、この原的な所与性をそのまま再現する、などと言っているのではない。そういう考えは、現象学の一貫した方法からは全くの「背理」である。彼はただ、この原的な所与性が存在するというそのことが、〈意味〉がある、〈意味〉がない、〈意味〉が違っている、といった問題一般を生じさせる源泉になっている[#「源泉になっている」に傍点]、と言うのである。  フッサールの「根源的明証」という概念をもうすこし違ったふうに言い換えることができる。  ひとは誰も、つねに世の中の客観構造といったものを〈意識〉して生きているわけではない。生は必ず「経験」のかたちで人間に現われ、そこからわたしたちは日常的な喜怒哀楽(生きているという感覚)を受けとって生きている。ところで、この喜怒哀楽がどのように構成されているかと分析することはいわば客観的な見方を手に入れることだが、しかしそこから得られるような認識は、そういった生の本質をべつに変えはしない。この喜怒哀楽こそが生の根源的な理由[#「理由」に傍点]であって、むしろその場所から現われる要請から、人間は、〈客観構造〉や諸々の意味連関を因果の系として捉えようとするのである。システムや法則が呼び寄せられるのは、人間の生が経験の所与性をもち、それが生きるうえでの諸要請を紡いでいるからであって、決してその逆ではない。実際、フッサールの「生活世界」という概念は、こういうかたちで、諸学や諸理念の根拠を求めたものにほかならない。  おそらく、ここでわたしたちが注意すべきなのは次のようなことだ。フッサールが〈還元〉の果てに示したのは、内省の方法を徹底すれば、必ず認識や意味一般が成立することの最終的な(最も前提となる)根拠につきあたるはずだということである。それがいま見たような「根源的明証性」にほかならない。しかし、この認識一般の最終的な根拠は、同時に、一切の内省的方法(〈主観〉からはじめる方法)の、認識の限界点[#「認識の限界点」に傍点]をも意味する。そして〈客観〉からはじめる方法は、はじめから認識論に近づけない(それは世界構造を、ただ仮説—物語《フイクシヨン》として提示し得るだけだ)から、この限界点は、認識論一般の分析上の限界点をも意味しているのである。  柄谷行人は、これを、「たとえば、フッサールは『合理性』を、もはや合理的に基礎づけることができない事実性(超越性)にぶつかるまで掘り下げた」というふうに言っている。「彼の合理主義批判は、むしろ合理主義の�不徹底性�への批判にほかならないのであって、彼は窮極のところで『理性』を選びとる[#「選びとる」に傍点]。だが、これはいわば『信仰』なのだ」、と。しかし、フッサールの〈超越〉という概念は、「信仰」では全くあり得ないし、むしろ合理性をはじめて基礎づけるような事実性だと言うべきである。  なぜ内省の方法は、言葉のうえでの(記述上の)限界点につきあたるのか。それをフッサールは理を尽して言い切っている。わたしの言葉でそれを言うと、その理由は、人間存在(〈意識〉存在)とは、本質的に偶然性としてのみ開示されるものであるからだ。  ともあれ、わたしたちはここで、フッサールの〈意味志向〉‐〈意味充実〉という概念を次のように呼び開いてゆくことができる。  まず〈意味充実〉は、意識のノエマ的契機だが、これは、たとえば誰かの言った「お前はバカだ」という言葉が、腹立ちなり、親愛感というかたちで過不足なく〈私〉におさまることである。このことは明証として生じ、なぜその言葉がある感じを生じさせたのかは、もはや記述できない。これは現[#「現」に傍点]事実というほかないわけだが、この〈事実〉は、明証的な反復としてのみ規定できる。  すこし視角を変えてみよう。たとえば〈私〉が昨夜コーヒーを一杯飲んだとする。ところで、この〈事実〉を確証するのは、ただ明証的な反復だけである。つまり、〈私〉がそのことを幾度反復しても、確かに昨夜コーヒーを飲んだという記憶が繰り返し現われる、という明証だけがこの〈事実〉を〈私〉に確証する。記憶があやふやならば〈事実〉の妥当は構成されない。このように、経験的な〈事実〉一般(バカと言われて腹が立った等)の妥当は、現象学的な明証の反復にのみかかっている。  さて、わたしたちは次のようなことに気付くだろう。この記憶が、ほんとうに〈真〉であるかどうかは、誰にも決して確かめられない。他人の証言は、〈臆見《ドクサ》〉に基づく推論をもたらすだけで〈明証性〉を構成しない。したがって、この明証性の場面が「記述的に」は、つきあたりになるのである。 〈私〉が想起し、記憶が反復される。どうしても昨夜コーヒーを飲んだということが反復される。このときだけ〈意識〉にとって〈事実〉の明証が構成される。〈意味充実〉(事物においても〈意味〉においても)は、したがって、経験の直接的所与性という形でのみ規定される。  さて、では〈意味志向〉とは何だろうか。〈意味志向〉は、すでに見たように、事物や言葉が、〈私〉の生の要請の連関の中で、問題として立ち現われるという事態を指している。事物や言葉は、現象学においてそれ以上遡行できない現事実的な〈意味〉として、直接に与えられるが、それを〈意味〉として呼び寄せるものが〈意味志向〉とされる。  フッサールによれば、「志向性の根本要素をなしている」のは、次のようなことだ。 [#1字下げ]……すなわち、意味《ジン》を持つということ、もしくは或るものを「念頭《ジン》におき・そのもののことを忘れずに思い続け・それを意図する」ということが、あらゆる意識の根本性格であって、それゆえに意識は、ただ単に一般に体験であるだけではなくて、むしろ、意味を持つところの体験、「ノエシス的な」体験であるということ、これである。(『イデーン』第九〇節) 〈意識〉は、「ただ単に一般に体験であるだけではなく」、〈意味〉を持つ「ノエシス的な」体験である。そしてこのことが、あらゆる意識の「根本性格」である。フッサールのこの規定こそ、現象学のむこう側[#「むこう側」に傍点]に開かれているひとつのテーマの出発点となるものだ。〈意味充実〉は、内省の方法で辿られた〈存在妥当〉、〈意味妥当〉(事物や言葉とは何か)の認識論上の限界点を指し示す。同様に、〈意味志向〉は、〈意識〉そのものの存在の存在論的な限界点(あるいは始発点)を意味する。わたしはこの「意識の根本性格」を〈欲望〉という言葉で呼びたいが、その理由はのちにはっきりするだろう。 〈意味志向〉は、意識の「念頭におき」「思い続け」「意図する」といった性格だが、こういうあり方が前提されなければ、カップが確かに昨夜のカップであり、「バカ」が親愛の情をもたらすという明証的な〈意味〉(充実)は決して生じない。この「志向性」の概念は、事実[#「事実」に傍点]のノエマ的構成(妥当)を可能にするものだが、もっと平たく言えば、心的なものの存在論を指し示すのである。  これをわたしは、〈欲望〉論という形で考えたい。〈意識〉は単なる〈意味〉として事象を映しとるのでなく、また、単なる〈身体〉の代理者ではない。フッサールの現象学は、〈妥当〉という概念の徹底化によって、認識論の限界点を明らかにし、そのことは同時に心的なもの(〈意識〉)の存在論を開くことになるのである。 [#改ページ] ———————————————————————————— ※[#小文字のローマ数字2、unicode2171] 欲望論の現象学 ———————————————————————————— 1 存在の問い[#「1 存在の問い」はゴシック体]  フッサールが示した認識論上の限界点という現象学のモチーフを、最も深いところで受けとったのは、メルロ=ポンティでもサルトルでもなく、マルチン・ハイデガーである。ハイデガーが『存在と時間』で試みたのは、フッサールにおいて「志向性」という概念で示された〈意識〉存在としての人間のありようを、どのように呼び開けばいいかということだった。彼はそれを実存論的存在論と呼んだが、たとえば次のような言葉は、よくそのモチーフを表わしている。 [#1字下げ]……現存在というこの存在者にはおのれの存在において存在へとかかわり[#「へとかかわり」に傍点]ゆくことが問題であるのだが、そうした存在は、そのつど私のものである。だから現存在は、事物的に存在するものとしての存在者の一つの類の事例や範例だと解されることは、存在論的にはけっしてできない。(『存在と時間』第一篇第九節)  人間の存在(現存在)は、事物の存在(存在者)と同じ仕方で捉えることができない。これは直観的には誰も判ることだろうが、その意味合いをはっきりさせるのはそれほど容易なことでない。  事物存在は、いつも必ずそれが人間にとって[#「人間にとって」に傍点]持つ〈意味〉の連関として、つまり「道具連関」としてのみ捉え(規定され)得る。それが必ず〈意味〉連関としてしか捉え得ない理由はのちに明らかになるだろう。ところで人間存在は、むろん〈意味〉連関として捉えることも可能だが、むしろ本質的にこの〈意味〉連関を生み出し、秩序づける原因[#「原因」に傍点]である。この事態をどう言い表わせばいいか。ハイデガーはそれを〈実存〉と呼ぶ。  そのつど「おのれの存在において存在へとかかわりゆく」ような存在、これが〈実存〉のはじめの定義である。「現存在の『本質』はその実存のうちにひそんでいる」(『存在と時間』)。  ハイデガーのこういった問題構成が、「心的存在が何で『ある』かということは、物的なものについていわれるのと同じ意味において経験することはできない」(『厳密な学としての哲学』)、というフッサールのモチーフから引き継がれていることは明らかである。実証科学は、〈心〉あるいは〈意識〉を、つねに、存在者的なひとつの機制《メカニズム》として扱う。たとえばフロイトは、〈心〉をリビドー経済のメカニズムとして捉えようとし、ユングによれば、〈意識〉とは、脳の生理学的過程の「模写」である。  だが、すでにベルグソンは、『物質と記憶』で、物理的決定論や心理的決定論(機械論)の原理的な不可能性について明らかにしている。ベルグソンの論拠の要点はさほど面倒でない。  どんな複雑で高度な脳を模したコンピューターのようなものを想定しても、そこに人間が置き入れているのは、物理、科学的な変化、反応、連鎖の系だ。この系は、必ずすでに人間が〈自然〉から見出し、作り上げた、〈因果〉の系の組み合わせにほかならない。つまりどんな高度な頭脳コンピューターも、人間が作り上げた〈意味〉連関の「模写」であり「結果」にすぎない。だが〈意識〉とはむしろその「原因」となっているもののことである。  これは現象学的に言うこともできる。〈心〉を機械として作り出そうとすれば、経験則を集めて〈因果〉系列に置き換えるほかない。すると、先に見たような認識(因果系列)の限界点がどうしても現われるのである。  だからほんとうは、たとえば〈痛み〉(=意識表象)といったものがなぜ存在するのかを、決して言うことができない。神経の連鎖によって〈痛み〉を規定することは、それを現存在にとっての〈因果系列〉として捉えることにすぎない。事物の存在は〈意識〉という原因[#「原因」に傍点]にとってのみはじめて意味連関(因果系列)として捉え得るからだ。言い換えれば、もの[#「もの」に傍点]が存在として規定されるのは、心的なものの内側[#「内側」に傍点]においてのみであるからだ。したがって、じつは、もしわたしたちが、「なぜものが存在するのか」と問うとすれば、それ自体としては決して答えられないのである。  こうして、〈心的なもの〉は、存在という地平一般の、それ以上遡行できない基底であることが明らかになる。認識論の遂行が〈主観〉(内省)から出発されねばならないという、観念論の権利的先験性はこの事態に根拠を持つのである。  ハイデガーはまさしくこの場所から、存在の問いを踏み出している。 [#1字下げ] 仕上げられるべきこの問いにおいて問われているもの[#「問われているもの」に傍点]は存在である、つまり、存在者を存在者として規定する当のもの、たとえ存在者がどのように論究されようとも、存在者がそれを基盤としてそのつどすでに了解されている当のものである。存在者の存在はそれ自身一つの存在者で「ある」のではない。存在問題を了解するときの哲学的な第一歩は、「イカナルオトギ話ヲモ述ベナイ」という点にある。言いかえれば、あたかも存在が何らかの存在者でもありうるという性格をもっているかのように、存在者の由来をたどって他の存在者へと還元することによって、存在者を存在者として規定しないという点にある。(同前第二節)  人間は自然《ピユシス》の秩序からの逸脱、ズレ、過剰であるとか、意識とは関係の疎外態であるといった措定は、ここでハイデガーの言う「オトギ話」、つまり、仮説であり、物語《フイクシヨン》である。フッサールは、カントの先験的悟性概念(カテゴリー)の構成を、決して「検証できない」仮説にすぎないと批判しているが、これは、カントが先験的〈主観〉の立場から出発しながら、その方法を徹底し得ていないということだ。  では、いったいどういった方法が「存在問題の了解」において必要とされるのだろうか。 2 欲望[#「2 欲望」はゴシック体] 〈意識〉を、それが〈私〉にとって自らを現わすままに捉えること。この「実存論的存在論」の方法はふたつの重要な意味を持っている。ひとつは、ここでは、必ず〈意識〉されているものが分析のつきあたりであり、したがって〈意識に現われたもの〉の由来を、仮説として立ててはならないということだ。このことはすぐにもうひとつの意味をひき出す。  それは、人間の生にとって、〈意識〉に現われないものは決して生きるということの本質に関与できない、ということにほかならない。いわゆる無意識の領域も、じつはそれが意識される限りにおいて人間の生に関与することができるのである。そしてまさしくこのことが、「存在論」が本質的に「実存論」としてしか成立し得ないことを示唆している。 〈意識〉の「根本性格」を、すでに見たようにフッサールは、「志向性」として示した。〈意識〉は本質的に〈志向体験〉としてのみ捉え得る。この構造は、〈意味志向‐意味充実〉(ノエシス‐ノエマ)という相関構造である。これはまた、〈意識〉の内部でのみ、〈私〉(主観)と〈世界〉(事物)という項が成立することをよく示している。  ハイデガーは、この〈私〉と〈世界〉の本質的相関を、「気遣い」という概念で言いあてようとする。 [#1字下げ]……現存在の存在は、〔世界内部的に出会われる存在者〕のもとでの存在として、おのれに先んじて〔世界〕の内ですでに存している、ということを意味する、と。こうした存在が気遣い[#「気遣い」に傍点]という名称の意義を満たす……(同前第四一節) 「気遣い」とは、さしあたって言えば、人間が「つねにすでに[#「つねにすでに」に傍点]」〈世界〉(対象世界)に対して、さまざまなレベルでの関心、心配、希望、欲求、意志、感情等を向けて生きているというあり方を指している。ところでハイデガーが強調したいのは、こういった「気遣い」のあり方は、いわば〈意識〉(あるいは〈私〉)に「先んじて」すでにある、という点だ。「気遣い」は、「本質上の『何かへとかかわりゆく』という」「存在構造」だが、これは「おのれに先んじている」。  この言い方は一見神秘的だが、そうとる必要は全くない。〈意識〉そのものを内省してみると、それはつねにすでに[#「つねにすでに」に傍点]「何かへとかかわり」続けていること(=志向性をもつ)が判るが、それ自体の由来は、もはやそれ以上問えない。あえて問うなら仮説を立てるしかない。だからそれを、本質的に偶然的な〈意識〉の原[#「原」に傍点]事実と見なせばよい。こうハイデガーは言うのである。  さて、フッサールが「志向性」という言葉によって、ハイデガーが「気遣い」という言葉で示そうとした実存的な〈意識〉存在のありようを、わたしはここで〈欲望〉と呼び換えてみたいのだが、それは以下の理由によっている。 [#ここから1字下げ] 1、まず現存在のありようは、必ず〈意識〉内部の構造としてのみ捉えられるが、その場合、「根本性格」としての「意識の志向性」という言い方は、コギト的な明晰判明な〈意識〉、を意味しない。〈志向性〉は明晰な思念、判断、意志だけでなく、感情、情動といったノエシス作用をも蔽っている。〈欲望〉という言葉はそのニュアンスにかなうからである。 2、メルロ=ポンティは、デカルト的〈意識〉の図[#「図」に傍点]を支えるものとして、現存在が「おのれに先んじて」〈世界〉に内属しているという地[#「地」に傍点]を〈身体〉と呼んだ。しかし、〈身体〉はふつう〈意識〉と対項をなす概念である。〈志向性〉、〈気遣い〉という現存在の性格を〈身体〉と呼ぶと、それはあたかも、〈意識〉を外側から規定するもののように捉えられる。メルロ=ポンティの〈身体〉は、現存在の根本的な存在要請を意味するが、それはむしろ〈欲望〉というかたちでイメージされたほうがいい。 3、「気遣い」という概念は、現存在の〈実存〉性を本質的に含む。〈意識〉や〈身体〉は、すでに構成されたものというニュアンスを身にまとっているが、〈欲望〉は、個体における固有の対〈世界〉的契機である。現存在の〈実存〉的契機は〈欲望〉という言葉でいっそうはっきりする。 4、ここでの〈欲望〉は存在論的概念だが、この言葉は、わたしたちが現存在のありようを見ようとするとき、日常的に用いている〈欲望〉という概念を考えてゆくことがそのまま現存在の規定に繋がる、という特質を持っている。 5、〈欲望〉は、すでに見たように、明晰な思念だけでなく、むしろ感情、情動にいっそう深くかかわる言葉である。このことによって、〈欲望〉は、審級論(快—苦、よい—わるい、美—醜)一般の可能性を指し示すものとなる。 [#ここで字下げ終わり] 〈欲望〉という概念の最も中心の狙いは、それが、個別的な〈意識〉、〈意味〉、〈身体〉の現象学的考察にとどまらず、それらの領域を底で支えている諸価値(審級性)の問題を明らかにする点にある。ここでわたしは、この審級性の問題そのものを展開するわけにいかないが、その予備的な地ならしとして、問題の全体的な構成を示してみるということを試みておきたい。  A 〈実存と自由〉[#「A 〈実存と自由〉」はゴシック体]  サルトルは、「自由」とは人間が自らのうちに「無」(否定)を引き入れる能力であると言っている。「自由」は彼にとって、いわばデカルト的な〈意識〉の絶対的自発性にまで〈還元〉される(「自我の超越」という彼の哲学論文はこのことをよく示している)。 『存在と無』で彼はこう書いている。 [#1字下げ] ハイデッガーにあっては、人間存在の在りかたは≪世界‐内‐存在≫として定義づけられる。しかもその世界は、道具存在の綜合的複合である。というのも道具存在はたがいに指示しあって次第に円環をひろげていくからであり、この複合から出発して、人間は自分が何であるかを知らされる。このことは、一方では、≪人間存在≫は、彼が存在によってとりかこまれているかぎりにおいて出現するということ、人間存在は存在のなかに≪自己を見いだす≫ということを、意味すると同時に——他方では、人間存在を包囲しているこの存在が、世界という形で彼のまわりに配置されるようにさせるのは、ほかならぬ人間存在であるということを、意味する。けれども人間存在が、存在を、世界という形に構成された全体として、あらわれさせることができるのは、ただ彼が存在を超出することによって[#「彼が存在を超出することによって」に傍点]でしかない。(傍点引用者)  ここで「自由」は、〈意識〉の「自己超出」という契機に求められている。「自由」とは、平たく言えば、自由な選択と決断の可能性であり、「不安」はこの可能性の淵をのぞき見ることにつきまとう「めまい」である。  しかし、ハイデガーの〈世界‐内‐存在〉や〈道具連関〉という概念は、サルトル的な〈意識〉の自由を底で支えるような現存在の構造を、むしろ意味しているのである。  世界が潜在的な道具連関として現われ出る理由は、現存在が、本質的に〈気遣い〉として存在するからである。たとえば〈私〉は、〈私〉のまわりに、部屋やテーブルや、カップ、ノート、書物、時計、タバコ等々を見出す。これらの存在の〈妥当〉を根拠づけているのは、〈私〉が、歩き回ったり、読んだり、書いたり、飲んだりしようとする、〈欲望〉する存在であるということだ。サルトルの、「自己超出」が世界を構成するとはほぼこのことである。さまざまなことを〈意欲〉し、〈配意〉し、〈行為〉するという源泉が、テーブル、カップ、本等々を「道具存在」として〈妥当〉させるからである。だがこの〈欲望〉という源泉は、じつはサルトルが考えるような〈意識〉の絶対的な「自己超出」というかたちでは、決して捉え得ない。  たとえば次のような場面を考えてみよう。  いま〈私〉が本を読みながら、ふとポケットを空しく手さぐりしていることに気付いたとしよう。〈私〉はこのとき自分がタバコを喫《の》みたかったことを合点し、テーブルの上を探してタバコを見出し、そして火をつけ、一服する。  タバコがある[#「ある」に傍点]という〈妥当〉は、原理的には[#「原理的には」に傍点]こういった構造の中で成立している。ひとつひとつのもの[#「もの」に傍点]の存在(妥当)は、むろん客観世界が〈私〉を取り囲んで存在するという存在妥当の地[#「地」に傍点]のうえに、いわば図[#「図」に傍点]として現われ出るが、この図は、そのつど〈私〉に生じる〈欲望〉のかたちに応じてのみ〈妥当〉をうける。むろん、フッサールの〈意味志向‐意味充実〉という存在妥当の内的構成とは、このような事態を指している。  もうすこしこれを押し進めてみよう。〈私〉が本に熱中しながらタバコを喫み終えるという行為を、全く明証的な〈意識〉なしに行なったとしたらどういうことになるだろうか。  たとえば、〈私〉がタバコをもみ消したあとでそのことに気付いたとする。このとき〈私〉はすこし前を想起してみる。すると、確かに自分はタバコを吸っていたという記憶が訪れる。何度繰り返してもこの記憶が疑えないものとして反復されるとき、〈私〉は、タバコをさっき吸ったという〈事実〉の、明証的な〈妥当〉を、否応なしにもたらされる。  逆に記憶がもし決して一度も〈意識〉にもたらされないとき(そういうことも必ずある)、この〈事実〉は〈私〉にとって永遠に存在しないことになる。〈事実〉一般(ことがらがあったなかった[#「あったなかった」に傍点])ということの妥当もまた、したがってただ、この反復される〈意識〉の明証性という地平にのみ、かかっている。  ところで、こういう場面において、〈欲望〉(意味志向)という項と、もの[#「もの」に傍点]の存在(意味充実による妥当)という項は、いずれもこの〈意識〉の明証性という地平(経験の直接的所与性)においてはじめて析出される、ということが明らかだろう。〈意識〉の中で〈私〉は自分がタバコを求めてポケットを探っていたという明証が生ずる。このこと[#「このこと」に傍点]が、〈私〉に自分の〈欲望〉の所在を告げ知らせる。また同時に同じことが、タバコというもの[#「もの」に傍点]の〈妥当〉を生じさせている。  このとき重要なのは、〈欲望〉は、決して〈意識〉の自由な「自己超出」として存在するわけではないということだ。〈欲望〉は自由な意志ではないし、その選択の可能性でもない。  まずはっきりしているのはこういう場面で、〈欲望〉は、〈意識〉にとって必ず、その由来を明らかにせず、突然現われるということだ。〈水を飲みたい〉とか、〈あのひとに会いたい〉といった〈欲望〉は、決して自由な「自己超出」として現われない。むしろそれは、〈外部〉からの「自己開示」としてのみ現われるのだ。なぜならわたしたちはむしろそれを、〈意識〉の明証性の中で�告げ知らされる�だけだからである。理性はその由来を、身体の水分が不足しているからとか、あのひとに恋しているからという形で�説明�することができる。しかし、この�説明�は、ただひとつの解釈にすぎず、明証的な妥当を構成するわけではない。 〈欲望〉は、必ず、〈私〉にとってそれが�告げ知らされる�というかたちで、「むこう」からやってくる。つまり、〈欲望〉は、〈意識〉にとって、本質的に〈外部〉のものとして訪れる。〈意識〉は決して自らを自らによって開示するのではない。この構造は〈意識〉のありようにとって本質的なものである。 〈意識〉は明証的な〈意味充実〉においてのみ事実や世界の存在を〈妥当〉する。しかしこのことが可能になっているのは、〈意識〉が、〈欲望〉という自分自身にとっての〈外部〉(=彼岸性)に孕まれているからだ。つまり〈意識〉がその明証性の地平で、「存在を、世界という形に構成された全体として、あらわれさせることができるのは」、〈意識〉が自発的に「自己超出」を行なうからではなく、むしろそれが、いわば〈非知〉的なものに孕まれているからなのである。〈私〉は〈私〉の何であるか[#「何であるか」に傍点]について、決して明証的に知っているわけではない。〈私〉はむしろ〈意識〉という地平の中で、〈私〉が何であったか、現に何であるかということを、つねにそのつど告げ知らされるだけである。〈私〉がなんらかの〈欲望〉として存在することと、〈私〉が意識の対象を確かに存在するものとして妥当することは、同時に、そういった〈知〉と〈非知〉の相互に向き合った構造としてのみ生じるのだ。 〈意識〉という〈知〉のうちのこういった〈非知〉性を、わたしはさしあたって、〈意識〉の彼岸性[#「彼岸性」に傍点]と呼んでおく。そしてのちに、この〈意識〉の彼岸性のみが、人間にとっての〈現実〉ということがら一般をはじめて構成するような原理であることを示してみたい。  ともあれ、サルトルの「自由」とは、こういった〈私〉にとっての〈現実〉の構成のあと[#「あと」に傍点]に、意志や態度として、いわば「実践理性」としてつけ加えられるものにすぎない。むしろ、人間の意識の「自由」とは、〈私〉の欲望が〈私〉にとって〈彼岸〉のものとして告げ知らされる(「おのれに先んじている」)という構造の中で、はじめて指し示される事態なのである。 「存在は無に先行する」という言葉を、たとえば「欲望とは存在欠如の換喩である」(ラカン)といった発想に繋げるべきではない。サルトルはほぼ同じことを、自由は全体に向かおうとする欠如である、と言うだろう。だがこれは、概念上のひとつのメタファーであり、ハイデガーの言う「オトギ話」にすぎない。たとえばハイデガーが現存在の本質を「実存」と見るのは、決して単に〈意識〉が自己自身を「超出」する契機を持つためではない。むしろ、〈気遣い〉(=欲望)が、「現存在のあらゆる現事実的な『態度』や『状態』に」、「アプリオリに『先立って』いる」ということが、彼の実存概念の規定である。  つまり、これは、〈意識〉は必ずその彼岸としての限界性につきまとわれている、ということにほかならない。ハイデガーは、この彼岸性(外部)の極限として、〈死〉を想定した。キルケゴールにおける「絶望」という根拠も、ほぼ同じ構造をもっている。キルケゴールの「信仰」が実存的な自由にほかならないのは、まさしくそれが、〈彼岸〉に向かっての一か八かの存在の投げかけを意味していたからである。  ハイデガーによれば、〈実存〉は、「了解しつつ存在し得ること」と定義される(第四六節)。むろん彼が『存在と時間』で提示したことを想い起こせばすぐに判るように、これは、人間はつねにすでに〈彼岸〉(=死)であるものによって存在の可能性を極限されているが、しかしまたまさしくそのことの「了解」によって、ひとは、「本来的な[#「本来的な」に傍点]存在し得ること」へむかって自己を投げかけるといった、いわば超越論的な存在可能性を得る、ということを意味している。 〈意識〉は自己原因でもなければ自己開示でもない。〈意識〉の明証性が絶えず告げ知らせるのは、むしろ〈意識〉が〈彼岸〉(外部、届き得ないもの)を持つということだからである。〈意識〉は絶えず〈私〉を超え出ている|なにものか《エト・ヴアス》を、自己自身のうちに、自己自身として、認定せざるを得ない。それが〈欲望〉というものの現われ方である。「自由」とは、まさしくこの〈意識〉の彼岸であるものを了解し(対象化し解釈するのではない)、そのことにおいて「おのれの存在自身へとかかわりゆくことが問題[#「問題」に傍点]」となる[#「となる」に傍点]という事態を指している。そしてこのことこそ、キルケゴールやハイデガーによってつかまれたような、人間存在の〈実存〉的な契機の核心をなすものにほかならない。  B 意味と経験[#「B 意味と経験」はゴシック体] 『イデーン』において、フッサールの超越論的還元は、〈純粋自我〉を、そこで一切の生きられている世界が現われ出る磁場として導いた。だが、周知のように、この超越論的エゴという概念は、現象学が、観念論、独我論、コギト主義であるという諸批判の、恰好の的となった。  しかし、わたしたちの文脈から言えば、超越論的な自我とは、一方で〈世界〉と〈私〉の妥当がそのつど根拠づけられる明証性の地平だが、もう一方で〈欲望〉である。それは「経験の直接的な所与性」としての明証的意識が、自己のうちに、自己自身を、自分にとっての彼岸性として開示する(告げ知らせる)、という超越論的[#「超越論的」に傍点]構造として示される。  超越論的なエゴは、単に明証的な〈意識〉なのではなく、自分自身の〈外部〉の〈意識〉、として存在する。〈意識〉は、この〈外部〉が、つねにすでに「おのれに先んじて」存在しているということを告げ知らされ、また、自らがこの〈外部〉としての自身の存在にかかわりゆくものである、ということを告げ知らされる。これが〈欲望〉の、実存論的規定にほかならない。  ところで、ではこの〈外部〉をわたしたちはどう呼びとどめられるだろうか。 〈外部〉はそれが〈意識〉に告げ知らされる仕方の質[#「質」に傍点]の違いによって、ふたつの地平に分節される。ひとつは、事物としての〈世界〉(=超越)であり、もうひとつは〈欲望〉としての〈私〉(=内在)である。 〈欲望〉としての〈私〉とは、むろん、〈私〉にとって〈外部〉として現われ出てくるような〈私〉のことであり、これをさしあたって〈身体〉と〈情動〉と呼んでおく。このことの意味合いはのちにはっきりするはずだが、とりあえず言っておくと、〈身体〉と〈情動〉というかたちで示される〈私〉ということが示唆するのは、〈世界〉の単なる存在妥当ではなく,諸価値の秩序としての〈世界〉という問題である。つまり、諸審級の妥当という問題にほかならない。  さて、〈身体〉と〈情動〉は、〈意識〉がその明証性の中で、一切の事物や、〈現実〉、〈事実〉の妥当を構成する根拠だが、この妥当は、単に存在[#「存在」に傍点]妥当のみを意味しない。もの[#「もの」に傍点]の妥当は、現象学的には必ず〈意味妥当〉としてのみとり出し得る。このことはわたしたちの主題にとって重要な意味を持っている。  現象学においては、ひとが〈事実〉とか〈現実〉とか呼んでいるものは、客観的実在や関係、を意味しない。それらは、まず世界が「経験」として人間に現われるということを土台にしている。そして「経験」とは、〈意味〉として、あるいは〈意味〉の連鎖として現われ出た、人間の、生の自己把握である。それは以下のような理由による。  これは事実だとか、現実だとかいった言い方は、もともと、人間の、自己のありようの再把握(自己了解)という行為を前提にしている。直接的な体験そのもの、たとえば特定の知覚体験そのものにおいては、事実とか現実といった言葉は現われる余地を持たないからだ。  頭の一部が「痛む」という知覚は、じつはそれが知覚の事実[#「事実」に傍点]としてとり出されるためには、たとえば、〈父親に叱られて頭をぶたれた〉というような意味連関の中で捉えられるのでなければならない。つまりわたしたちが「知覚」というレベルを抽象し得るためには、それが「経験」(意味連鎖の一環)の中で生きられているという再把握の行為を前提としているのである。  フッサールは、『イデーン』において設定した「純粋自我」の概念を、『危機』で変更するが、その理由は、〈還元〉の考えをつきつめてゆくほど、〈知覚〉そのもの(純粋な知覚)から出発できないことが明らかになっていったからである。たとえば彼は、『危機』で、この〈知覚〉と〈意味連関〉の関係についてこう述べている。 [#1字下げ]……形体ならびにその色彩の展望はさまざまであるが、そのいずれもがこの形体の[#「の」に傍点]、この色彩の[#「の」に傍点]というように、新しい仕方での何かの呈示[#「何かの呈示」に傍点]なのである。似たようなことが、同じ物の[#「の」に傍点](触れるとか、聞くとかの)感性的知覚のあらゆる様相においても研究されうるはずである。この変移の中で、これらの知覚の様相はすべて、あるいは消えたりあるいは現われてきたりしながら、しかも同じものの呈示として、その役割を演じている。それらは、さまざまなかたちの多様な呈示や現われを提供するのだが、そのいずれもがまさに、何ものかの[#「何ものかの」に傍点]呈示としての機能をはたしている。それらは、その経過につれて、同一化——むしろさらに適切な言い方をすれば、合一化[#「合一化」に傍点]というべきであるが——の、あるときは連続的な、あるときはきれぎれな総合を形成するというふうにしてはたらいている。これは、外的な融合として生ずるのではなく、それぞれの局面において「意味」をうちに担っているもの、何かを思念しているものとして、それらの知覚の様相が相互に結びついてますます意味を豊かにし[#「ますます意味を豊かにし」に傍点]、意味を形成しつづけてゆく[#「意味を形成しつづけてゆく」に傍点]、ということである。(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』第四五節)  フッサールが言うのはこういうことだ。わたしたちは、純粋な「赤い色」などというものを見ていない。この赤[#「赤」に傍点]は紙の赤い色であり、この紙の赤は、一冊の本の表紙の赤である。それはなになにという本の表紙であり、この本はいついつ誰それにもらったものだ。赤[#「赤」に傍点]い色とか本の形状とか手ざわり等々は、こういうかたちでつねにすでに「何ものかの呈示」である。一冊の本の〈妥当〉、つまり「合一化」「総合」は、諸知覚の「外的な融合」、言い換えると組み合わせではなく、人間の生の意味連鎖へと繋がっている。 〈意識〉に現象する諸事象は、まさしくこのために、内省の方法においては、〈意味〉としてしか捉えることができない、とされるのである。  しかし、わたしたちはここで、なぜ生の「経験」は、〈私〉にとって〈意味〉の連鎖としてのみ[#「のみ」に傍点]現われ出るのか、と問うてみよう。フッサールが、晩年の『危機』において直面していたのは、この問題にほかならない。  彼はよく知られているように、『危機』において「生活世界」という概念を提出している。これは一般には、ほぼ次のように受けとられている。  フッサールは『イデーン』において、「自然的態度」(人間のごくふつうの世界の見方)をエポケーし、それを「純粋自我」へと還元した。すでに見たように、ここでは、〈ノエシス‐ノエマ〉という意識内部の構造の中で、〈世界〉像の構成のありようが全て極められるはずだ、と考えられた。しかし『危機』で彼は、この方法を修正して、「自然主義的態度」、つまり客観主義的論理主義や科学主義だけをエポケーし、「自然的態度」の世界、つまりむしろ、具体的な生活世界を〈世界〉の構成の基底として残した。  ところで、この「生活世界」の概念は、また誤解につぐ誤解を積み重ねている。あるところで「生活世界」は、観念や理念の対立項のように受けとられ、観念—肉体、抽象—具体という二項図式を補強するものとして論じられている。また、逆に、「生活世界のアプリオリ」という言葉は、思想一般の根拠をなすヘーゲル的な「理念性」のように(つまりヘーゲルの「絶対理念」のヴァリエーションとして)捉えられている。  だが、わたしたちが見てきた文脈からは、「生活世界」という概念が現象学の中で持っている意味合いは、極めて明瞭である。 『イデーン』における「純粋自我」の概念が明らかにしたことは、存在妥当は〈意味志向‐意味充実〉という構造の中で成立するが、それは同時に、意識事象は〈意味〉という認識上のつきあたり(限界点)を持つ、ということだった。だがこのとき、ひとつひとつの事象の〈意味〉がどのように構成されるのかと考えるならば、「純粋意識」の内側からはそのことについて何ひとつ導き出すことができない。ひとつの〈意味〉は、ひとりの人間が具体的に生きて(生活して)いることの意味連関からしか現われ得ないからである。  だからフッサールはこう言っている。 [#1字下げ] ここでついでに注意しておこう。わたしの『純粋現象学および現象学的哲学の構想』(『イデーン』・注)で述べた超越論的判断中止への、ここで述べたよりもはるかに手短な道(略)は、次のような大きな欠陥をもっている。すなわち、その道はなるほど一躍にしてすぐ超越論的われ(「純粋自我」—引用者注)へ達しはするが、それに先だつ説明がすべて欠けているために、この超越論的われを、一見したところ無内容なままに明るみに出すことになる。そこで、さしあたってそれによっていったい何が得られることになるのか皆目見当がつかないし、それだけでなく、そこからどうして哲学にとって決定的な意味をもつ、完全に新たな種類の基礎学が得られることになるのか、まったく途方に暮れるのである。わたしの『構想』の受けとられ方が示したように、人びとが容易に、しかもそもそもの最初から、そうでなくてさえきわめておちいりやすい素朴で自然的な態度への逆転に屈することになったのも、そのゆえである。(『危機』第四四節) 『イデーン』でフッサールは自然な生活世界を還元した。そこで現われたのは「超越論的われ」である。そこから世界の構成を説明しようとするとき、出発点として、いわば「純粋知覚」のようなものを想定するほかない。だが、内省を徹底すれば、わたしたちは、純粋な「赤」を知覚し、ついでその意味[#「意味」に傍点]を、その他の知覚要素から構成している、というわけでないことに気付く。〈私〉は、ある特定の「赤」を、ある本の表紙の赤[#「赤」に傍点]とか、カーテンの赤[#「赤」に傍点]という意味連関の中でのみ〈知覚〉しているからだ。この意味連関は、もし人間の自然な生活世界を取り外してしまえば、決して説明のつかないものだ。  まさしくこの理由で、フッサールは後期の『危機』において、「生活世界」という概念を導き入れるのである。  わたしの文脈からは、この「生活世界」とは、知覚し、認識する〈純粋な意識〉にとっての〈外部〉の発見、ということを意味している。  一切の事物は人間にとってつねにすでに[#「つねにすでに」に傍点]〈意味〉として現われ出る。内省を徹底すればそのことは明らかである。フッサールがはじめに考えたのは、この〈意味〉の現われは、〈純粋な意識〉のうちの諸表象へ還元し尽せるはずだ、ということだった。しかし、あるひとつの事物が特定の〈意味〉として現われ出ているという事態は、現に〈意識〉に表象されているもの[#「もの」に傍点]から決してその全体を説明(=構成)し尽せない。すでに見てきたように、この〈意味〉はいわばアプリオリに現出するのであり、そのことによってただ、〈私〉の〈欲望〉を告げ知らせるという構造を持っているからである。 〈意識〉の還元を徹底すると、事物は特定の〈意味〉として「経験」されていることが明らかになる(決してそれはベルグソンの言うような「純粋知覚」を導かない)。ではこの〈意味〉はいかにして構成されるかと問うてみると、そこに還元のつきあたり(限界点)が存在していることが判る。つまり、そこに〈意識〉にとっての〈外部〉が現われる。このそれ以上還元し得ず、しかも確かに〈意識〉の内実を形造っているなにものかを、フッサールは「生活世界」と呼んだのである。  これは一見奇妙な解釈に聞こえるかも知れないが、決してそうではない。『危機』においてフッサールは、この「生活世界」という概念を基礎づけようとして苦闘しているが、彼の試みは、どこをとり出しても、あの〈欲望〉という概念に向かっていることが如実に見てとれる。たとえばそれは、次のような具合である。 [#ここから1字下げ] ……その主題設定というのは、世界をその与えられ方のいかん[#「いかん」に傍点]に関して、すなわちその公然たる、ないしは含蓄的な「志向性」のいかん[#「いかん」に傍点]に関して、一貫してそれだけを問おうというものである。その志向性については、われわれはそれを呈示するにあたって、次のようにいわねばならない。すなわち、その志向性なしには[#「その志向性なしには」に傍点]、対象と世界は[#「対象と世界は」に傍点]、われわれにとって現存しない[#「われわれにとって現存しない」に傍点]ことになるであろうし、むしろ対象と世界とは、それがたえずこの主観的な能作[#「能作」に傍点]から生じ、また生じてきたような意味と存在様相をもってのみわれわれにとって存在する、ということである。(同前第四六節) ……われわれはどこから手をつけてみても、次のように言わねばならない。わたしにとっても、またおよそ考えられうるいかなる主観にとっても、現実に存在するものとして妥当しているすべての存在者は[#「すべての存在者は」に傍点]、主観と相関的[#「主観と相関的」に傍点]であり、本質必然性において主観の体系的多様性の指標なのである。(同前第四八節) ……自然的、客観的な世界生活は、たえず世界を構成しつつある生、すなわち超越論的生のある特別な仕方にすぎないということこそ、判断中止における(略)研究成果なのである。というのも、超越論的主観性は、そのような仕方でのめりこんで生きているかぎり、構成しつつある地平を意識することはないし、およそ自覚することはできないのである。超越論的主観性は[#「超越論的主観性は」に傍点]、本質的に相属し合っている構成的多様を自覚することなしに[#「構成的多様を自覚することなしに」に傍点]——(略)——統一極にいわば「ほれこんで[#「ほれこんで」に傍点]」生きている[#「生きている」に傍点]のである。(同前第五二節—傍点はいずれも引用者) [#ここで字下げ終わり]  フッサールの使っている「志向性」や「超越論的主観性」という言葉が、ここでははっきりと、〈欲望〉という概念に重なり合うものであることが見てとれるはずだ。  しかし、『危機』においてフッサールは、この〈欲望〉としての超越論的主観性(志向性)を、あくまで、意味連関の〈構成〉として考えようとする視線を、捨て得なかった。むろん〈欲望〉は、ハイデガーが示したように、どうしても存在論的な観点を要請するのである。フッサールはこう書いている。 [#1字下げ]……これらの志向性の固有の存在とは、意味形成と意味形成とが共同して能作しつつ、その総合の中で新しい意味を「構成しつつある」ということにほかならない。そして意味とは、妥当様式における意味にほかならず、したがって志向するものとしての、妥当を遂行しつつあるものとしての自我主観に関係しているのである。(同前第四九節)  事物(たとえばひとつのカップ)は、主観の能作(志向性)にとって[#「とって」に傍点]、その相関性として現われる。これは次のようなことだ。カップは、たとえば〈私〉が恐ろしくのどがかわいていたり、のんびりコーヒーを飲みたいという状態に対して、固有の〈意味〉合いで存在を示す。また飲むために見出すカップと、翫賞するために見るカップとでは、違った相貌を示すはずだ。またそのとき、〈私〉が美術家であるのとないのとでも、大きな違いが現われる。事物の〈意味〉が、志向性(主観)の「意味形成」の構成によって現われ出るとはそういうことだ。  だが、このとき〈私〉は、〈私〉の中に織り込まれているそのような「意味形成」のゆえんを(「構成的多様を」)「意識することはない」。だからこそ、〈私〉に現われ出る〈意味〉は、内省のつきあたりになるのである。  フッサールが内省の徹底によって到達したのは、この場所である。 [#1字下げ] したがってわれわれは、自我《エゴ》、およびこの超越論的根拠にもとづいて獲得されたすべての超越論的認識の、必当然性という要請の意味を理解することになる。自我《エゴ》に到達すれば、われわれは、おのれが明証性の領域に立っており、その背後に遡って問おうとすることが無意味である、ということを悟るであろう。(略)すべての自然的明証性、すなわちあらゆる客観的科学の明証性(形式論理学と数学のもつ明証性もその例外ではない)は、実はその背景に理解できないものをもっているいわゆる「自明性」の領域に属する。(同前第五五節)  さて、わたしたちはここで、フッサールが『危機』で示したことをもう一度ふり返ってみよう。  事物はつねに、主観の意味形成の網の目に相関して、固有の〈意味〉として現象[#「現象」に傍点]する。それが「経験」ということの、いちばん底の�意味�である。したがって〈純粋意識〉ではなく、「生活世界」こそ「根源的な明証性の領域である」ということになる。なぜならおよそ「経験」とは、「生活世界」の内側においてしか生じ得ないものだからだ。  すでに繰り返し見てきたように、フッサールの内省の方法は、ここで限界点を見出す。「生活世界は根源的な明証性の領域である」とは、同時にそれが内省の限界点でもあるということだからである。だが、わたしたちは、ここからもう一度フッサールの出発点に立ち戻り、「生活世界」という地平の〈還元〉の可能性について確かめてみよう。  C 生活世界の〈還元〉[#「C 生活世界の〈還元〉」はゴシック体]  フッサールが出発したのは、まず客観世界の〈妥当〉をいかに了解するか、という問いのかたちだった。「必要なのは、客観性をたしかめる[#「たしかめる」に傍点](同定する—引用者注)ことではなく、それを理解することなのである」と彼は言っている。このとき彼がとったのは(すでによく了解されているだろうが)、〈存在妥当〉の動かし難さをどう理解するか、という道すじである。これは、彼が、伝統的な認識論の難問(〈主観〉‐〈客観〉は一致するか)から出発したことの必然的帰結にほかならなかった。  しかし、わたしの見る限り、この出発点にはすでにひとつの重要な欠落が存在していた。  現象学の〈還元〉の方法は、ただひとつの意味を持っている。それは、わたしたちのこの世界[#「この世界」に傍点]から出発し、それを超越論的主観へ〈還元〉(客観世界はあるという前提の排除)して、ふたたびこの世界[#「この世界」に傍点]へ立ち戻ってくる。そしてこの作業の間に、なぜ客観世界の〈妥当〉(動かし難さ)が生じているかを「理解」しようとするのである。ところでフッサールはこの道すじを、もっぱら[#「もっぱら」に傍点]〈存在妥当〉、つまりものが客観的に存在するという人間の確信の構造の解明として思い描いたのである。  ところが、わたしたちのこの世界[#「この世界」に傍点]は、決して単に、ものが客観的に存在するという相で現われているわけではない。たとえば、フッサール自身、「自然的態度の世界」を次のように描いている。 [#1字下げ]……この世界は、私にとって、一つの単なる事象世界[#「事象世界」に傍点]として現にそこに存在しているのではなく、同じ直接性において、価値世界[#「価値世界」に傍点]、財貨世界[#「財貨世界」に傍点]、実践的世界[#「実践的世界」に傍点]として、現にそこに存在している。私の眼前の諸事物が、事象としての諸性状を具えているのと同様に、価値の諸性格をも具え、つまり、美しいとか醜いとか、気に入るとか気に入らないとか、快適なとか不快なとか等々といった価値の諸性格をも具えていることを私が見出すのは、造作ないことである。直接的には諸事物は、実用品として現にそこにある。例えば、「書物」を載せた「机」とか、「コップ」とか、「花瓶」とか、「ピアノ」とか等といったようにである。こうした価値の諸性格や実践的諸性格もまた、「手の届く向こうに存在して[#「手の届く向こうに存在して」に傍点]」いる諸客観そのものにそれらを構成するものとして[#「いる諸客観そのものにそれらを構成するものとして」に傍点]属しているのであって、私がそれらの諸性格やそれらの客観に総じておよそ身を向けようが向けまいが、それにお構いなしに、である。(同前第二七節)  わたしたちのこの世界は、単なる「事象世界」ではなく、すでに〈私〉の〈欲望〉の諸相によって色づけられ(価値を与えられ)て存在している。〈還元〉が理解すべきなのは、まさしくこのような、色づけられた事象の世界でなくてはならないのである。  フッサールの〈還元〉は、しかし、もっぱら事物客観の〈妥当〉にそっておし進められたことが判る。だが、事物客観とは、彼自身『危機』において詳しく考察したように、近代的な合理主義的世界観(ガリレイ、デカルト、ニュートンなどがそれを学的にあとづけた)によって確立されたものであり、近代以前の社会では、日常の狭い領域でしか妥当しないような確信にすぎなかった。そこでは、空間や時間のあり方は均質なものではなく異質性を孕んでいた。事物客観とは、そもそも生活世界に内属するものではなく、近代以後の自然主義、実証主義によってもたらされた、ひとつの歴史的な起源を持つ視線なのである。  したがって、フッサールの〈還元〉の方法を、その本来的な意図に置き直そうとすれば、わたしたちは、事物の〈ある—ない〉という存在妥当とともに、〈快—苦〉、〈美—醜〉、〈よい—わるい〉といった事象の価値妥当を、一貫して理解し得るような道すじを見出さなくてはならないはずなのである。  注意すべきなのは、『イデーン』においてフッサールが「純粋自我」を導いたとき、それは、〈主観〉が事物の存在妥当をどう構成するかという問題を意味していた、ということである。しかし、どんな〈知覚〉や〈認識〉も「経験の意味」としてしか〈主観〉にとって現われない、ということが示唆していたのは、じつは、事象はつねにすでに、同時に価値を孕んで現われてくる、ということにほかならない。フッサールが、明証性の源泉を〈超越論的自我〉から〈生活世界〉へと向け換えねばならなかったのは、まさしくこの理由によるのである。  だが、フッサールの問題の構成は、決してこのことを十全な形で示せなかった。この限界の要点は、論理的にははっきりしている。〈意識事象〉の実的[#「実的」に傍点]な要素として、フッサールはまず〈知覚〉から出発したからである。あるいは同じことだが、まず「自然的世界」(事物世界)から出発したからである。このことが、彼の〈還元〉の本質を、存在=意味という場面に極限して、決して価値審級の領域に踏み込まないままに終始させたことの核心的な理由である。  しかしそれにもかかわらず、わたしたちが見てきたようにフッサールはそこで、全く彼によってはじめて見出された重要な洞察を成し遂げている。さしあたりそれをまとめてみると、次のようなことになるだろう。 [#ここから1字下げ] 1、客観世界とは決して存在せず、その概念自体が本質的に背理[#「背理」に傍点]であること。 2、事物や存在の妥当[#「妥当」に傍点]は、ただ〈意識〉の内部の相関構造としてのみ成立し、〈主観〉‐〈客観〉の一致という問題は成立し得ないこと。 3、存在の妥当は、必ず相互主観性の妥当を同時に含んでいること。これはつまり、〈私〉、〈他者〉、〈世界〉(自然[#「自然」に傍点])の妥当は、必ず同時的に成立するから、独我論の中では、決して物[#「物」に傍点]の妥当は成立し得ないということをも意味する。 4、したがって、一切の事象は、本質的に〈超越〉である。つまり最終的真理を確定できない構造として現われるということ。 [#ここで字下げ終わり]  フッサールが成し遂げたこういう成果(形而上学批判)は、全く疑う余地のないものであり、わたしたちは、現象学のこの成果そのものを排除する必要は決してない。だが、このうえに、いま見てきたような、事象の存在と価値の〈妥当〉を、どのように一貫したパースペクティヴの中で〈還元〉できるかという問いを立ててみるべきである。  フッサールは『イデーン』の第三章「純粋意識の領域」で、「自然的世界」(事物の世界)から始めている。しかし、わたしたちのこの世界は、そもそも事物の妥当であるとともに価値の妥当として現われている。世界の現われのこういった側面を捉えるために、わたしはここで、意識領野の現象学という補助線を引いてみたい。それは、〈主観〉にとって、いったいどういう〈意識〉の経験が、〈事物〉、〈価値〉、〈現実〉、〈幻想〉といった分節を、われわれにもたらしているのか、を考察するためのものである。また、ここでわたしたちは、時間、空間という秩序の客観性が、なぜ人間にとって動かし難い現実として現われるか、なぜ一切の「経験」は、必ず〈意味〉としてしかとり出せ得ないかということなどを、検討することになるだろう。 3 意識領野の現象学[#「3 意識領野の現象学」はゴシック体]  わたしはまず、ごくふつうの生活世界の中に立ち戻り、たとえばひとつのカップの妥当ということに、どういった性格がつきまとっているかを内省してみよう。  まずひとつのカップは、単なるカップの存在として妥当されるだけでなく、同時に大なり小なり美しい、かわいいカップであったり、のみにくいカップ、汚ないカップであったりという性格をもって現われる。だがそれだけではない。それはまた、〈私〉が友人や恋人から貰ったカップであったり、昨日どこそこで買ってきたカップであったりする。  ひとつのカップは、その妥当のうちに、すでにこういった諸性格を潜ませているのであって、決して単なる事物存在として妥当をうけるわけでない。しかしもうひとつ注意しておくべきことがある。それは、たとえば〈私〉が考えごとをしながらぼんやり部屋を眺め、時計や電灯や本棚などの存在を、それと認めているという場合である。  ふつうこれらのもの[#「もの」に傍点]は、べつにまず〈私〉に何か時間を確かめようとか、本を調べようとかいう「志向性」が生じ、それに相関して固有の〈意味〉として現われるというわけではない。つまり、見にくい小さな時計とか、新しく買った立派な本棚であるとかいった相を、ことさらあらかじめ現わすわけではない。これらはいわば、ハイデガーの言う潜在的な道具連関として世界の中に沈澱しており、〈私〉の環境世界を形造っている。だが、〈私〉がひとつのはっきりした〈欲望〉(志向性)を持って振るまおうとするとき、そのつどその〈欲望〉のかたちに応じて固有の意味連関を浮かばせ、またその配置を換える。  たとえば、〈私〉は一冊の本を探そうとするとき、部屋のさまざまなもの[#「もの」に傍点]から本棚をそれとして認め、それが赤色の表紙であれば並んでいる本の中から赤色のものを急いで見渡していく、ということをする。つまり、赤い色は、そのとき、ある特定の本を探すという志向の中で〈意味〉を持って浮かんでくる。メルロ=ポンティが、経験としての〈知覚〉は必ず〈地〉と〈図〉という構造をすでに含んでいると言うのはそういうことだ(『知覚の現象学』)。  さて、こういった生活世界におけるもの[#「もの」に傍点]の妥当の場面から、さしあたってどういうことがとり出されるだろうか。おそらくここから、〈妥当〉一般についての三つの契機を想定することができるように思える。 [#ここから1字下げ] 1、事物の実在についての妥当。 2、事物の諸価値(審級)の妥当。 3、事物の〈意味連関〉の妥当。 [#ここで字下げ終わり]  自然的な生活世界において、事物は、〈実在性〉、〈価値性〉、〈意味性〉を必ず担って現われてくる。あるいはむしろ、事物は、そういった諸性格のないまぜられたかたちとして〈私〉に現われてくる。すくなくともわたしの内省は、そのような事物の現われの中にそういった諸要素を見る。さてここでわたしは、この妥当の三つの契機が、どのようにわたしの内側で分節されて示されたのか、と問うてみよう。  A 知覚—身体—空間[#「A 知覚—身体—空間」はゴシック体]  たとえば、わたしは、現にここにある事物の実在[#「実在」に傍点]とは、自分の〈知覚〉の動かし難さ[#「動かし難さ」に傍点]によって、わたしにその実在性を告げるものだと感じる。いま見ているこの机やノートは、もし目を閉じれば消失するが、目を開く限り、それらは同じような〈知覚〉として必ず〈私〉の前に浮かぶ。また手を触れれば手ざわりがあり、何度触れてもそれは同じである。もし、このいわば反復のうちに、あるときは、その〈知覚〉が現われ出、あるときは現われ出ないといったことが起こるならば、〈私〉は机やノートの実在を確信(妥当)することができないだろう。また、そういう意識表象を、わたしたちは〈知覚〉とは呼ばないはずである。  たとえば次のようなことを考えてみよう。〈私〉は超自然的現象を信じていないとする。ところがあるとき急に自分の身体が地上から三〇�ばかり浮き上るということが起こる。このとき〈私〉は自分の感覚を疑うかも知れない。しかし、まわりに友人(たち)がいて、君の身体は浮き上っていると口をそろえて言えば、〈私〉はこの感覚を現実〈知覚〉と見なし、事態を〈事実〉と呼ぶだろう。しかし、まわりの人間の全てが君は浮かんでなぞいないと言えば、〈私〉は自分の感覚を〈幻覚〉と見なさざるを得ない。またこの事態を〈幻想〉と呼ぶほかない。  ここでわたしは、自分にとっての〈世界の現われ〉において、いったいどういうものを〈知覚〉と呼んでいる[#「呼んでいる」に傍点]かを、記述してみることができる。〈知覚〉とは、まず、自分の〈志向〉(配意や注意)の中で、幾度確かめても同じそのもの(ノエマ)としてもの[#「もの」に傍点]を現出させるような意識体験(ノエシス的体験)のありようを指している。だがそれだけでない。〈知覚〉はその相関者として、〈実在物〉というノエマを指し示すわけだが、この〈実在物〉は、単に〈私[#「私」に傍点]〉にとっての[#「にとっての」に傍点]同一物としてではなく、必ず、〈私〉にとっても〈他人〉にとっても唯一同一のもの、として現われ出ているということが必要である。つまりこの〈実在物〉は、相互主観的[#「相互主観的」に傍点]なノエマとして〈私〉に示されるのでなくてはならない。反復的明証と相互主観的確信、それが〈私〉に、事実の〈実在性〉を動かし難いものとしてもたらす二つの中心的契機なのである。こうして、事物の〈実在性〉の妥当とは、ただ〈私〉が〈知覚〉と呼ぶ意識体験にかかっていることが明らかである。  さて、ここでわたしは、意識体験の諸相の全体的な〈還元〉を試みるわけにいかない。さしあたってわたしは、誰にも試みてみることのできる、意識領野の現象学的還元の方法を示唆しておきたかったのである。ところでこういった方法を押し進めてゆくと、〈実在性〉〈価値〉〈意味〉という妥当の契機について一体何が得られるだろうか。すこしこれを整理した形で示してみよう。  いまたとえば人間の意識体験の諸相を、それが具体的な像を結ぶか否かという特質によって分け隔ててみると、次のような表を得ることができる。 [#挿絵(img/fig1.jpg、横207×縦277)]  この表はさほど厳密に考えられたものでないし(たとえば触覚や嗅覚の有像性[#「有像性」に傍点]についてはもっと詳しい検討が必要となろう)、また別の配置も可能だろうが、さしあたり重要なのは次のようなことだ。まず、有像的表象の配列は、上に向かうほど意識の志向をさしむける力(志向力と呼んでおくが、フッサールの〈志向性〉とぴたりとは重ならない)にとって、自由にならない性格を持っていることが判る。つまり、想像や観念(これは非像的だと思えるかも知れないが決してそうではない。全く像を伴わない観念を、思考することはできない)は、志向力によって自由に呼び寄せたり消去することが一般的にはできる。しかし知覚は、たとえば見つめている限りその像を自由に変更できない。  逆に言うとこうなる。〈意識〉に現われる像のうち、志向力にとって彼岸[#「彼岸」に傍点]であるようなもの(自由にならないもの)を〈私〉は知覚(像)と呼び、これに対し、自由に呼び寄せたり変更し得るものを心像と呼んでいる。心像はまたそれぞれの性格によって呼び分けられるだろう。同様に、非像的表象の配列においては、情動(不安・気分)や感情などが、〈意識〉にとって自由にならないという性格を持っていることが判る。つまり、〈知覚〉および〈情動〉、〈感情〉と呼ばれる意識体験は、〈意識〉に現われるものでありながら、〈意識〉自身にとって「彼岸」であるという特質を持っていると言える。  さて、わたしの考えでは、わたしたちに世界や現実の動かし難い妥当をもたらすものは、原理的には、この〈知覚〉、〈情動〉、〈感情〉というものの、〈意識〉の志向力(自由)にとっての彼岸性[#「彼岸性」に傍点]、ということに求めることができる。むろんこの彼岸性は、わたしたちがすでに見てきたような、〈意識〉にとっての〈欲望〉の彼岸性を意味しており、したがって、さしあたって〈欲望〉は、現存在の〈知覚〉(つまり〈身体〉的規定性)と〈情動性〉という、ふたつの規定の中で捉えられることになるだろう。  さて、〈知覚〉の彼岸性が〈意識〉に指し示すのは、事物存在の実在の妥当である。しかしこれは言うまでもなく、外的な事物存在一般の実在を妥当させるだけでなく、同時に〈身体〉という項をも括り出すことになる。フッサールはこういう事態についてとくに論じていないが、たとえばベルグソンは、明らかに現象学的な仕方で〈身体〉という概念をとり出している。 『物質と記憶』において、ベルグソンは、〈身体〉を「イマージュ」という概念から導き出そうとしてこう書いている。 [#1字下げ] さしあたり私たちは、物質にかんする諸理論や精神にかんする諸理論、外界の実在性あるいは観念性にかんする諸論争について、何もしらないことにしておこう。すると私はいま、できるだけ漠然とした意味に解されたイマージュ、すなわち私が感官をひらけば知覚され、とざせば認められない幾多のイマージュをまえにしているわけだ。これらのイマージュはみな、そのすべての要素的部分において、私が自然法則とよぶ一定不変の法則にしたがって、互いに作用し反作用し合っている。(略)ところが、私がたんに外から知覚によって知るばかりではなく、内から感情によってもまたそれを知るという点で、他のすべてのイマージュからはっきりと区別されるイマージュがひとつある。それは私の身体である。これらの感情が生じるさいの条件をしらべてみると、私はそれらが、いつでも、外から私のうけとる震動とやがて私の行なおうとする運動との間にあらわれてくることを見いだす。(第一章) 〈身体〉を、「外から私のうけとる震動とやがて私の行なおうとする運動との間にあらわれてくる」感情の中で成立するもの、とする考えはいくぶん�あいまい�に聞こえるが、彼の考え方の原理ははっきりしている。ベルグソンの言い方は、わたしたちが〈身体〉と呼んでいるものは、ただわたしたちのうちの内発的な〈志向性〉と、〈知覚〉によって生じた表象との相関の中でのみ括り出されるものだということを、よく示している。〈私〉の〈身体〉は、〈私〉の〈知覚〉によって実在するものとして捉えられるが、それは他の一切の事物から次の点で区別される。  まず〈身体〉は、〈知覚〉の対象物なのだが、同時に〈知覚〉の原因でもある。しかしそのことが知られるのは、ただそれ(身体)が〈意識〉の志向性に絶えず対応した形で〈知覚〉の表象をもたらすということにおいてである。  メルロ=ポンティは、晩年の「幼児の対人関係」(『眼と精神』所収)という論文で、〈私〉や〈他者〉の相互主観性の構成が、〈身体〉知覚の括り出しという体験の中で積み重ねられていく経緯を、詳しく描いている。しかしここではそれについて深く論じるわけにいかない。  さしあたってわたしが示したいのは別のことだ。今簡単な形で粗描すると、わたしたちは〈身体〉という�イマージュ�を次のようなかたちで括り出している。まずひとつは、一切の自然物の世界から、〈知覚〉の対象であるとともに〈知覚〉の原因をなしているものを〈身体〉と見なしている。もうひとつは、一切の〈私〉の意識表象のうち、〈知覚〉表象の原因をなすと見なされたものを〈身体〉と呼び、それ以外の表象の原因となるものを〈心〉と呼んでいる。〈身体〉はこういう〈世界〉と〈私〉の表象から、二重の限定をうけて括り出されている。  さて、ここで注意したいのは次のようなことである。先に見たように〈私〉の観念や想像は、いわば恣意的に対象(像)をもたらしたり、消し去ったりすることができる。しかし、たとえば身体の痛みなどは、自由に去来させることができない。つまり、ここで、〈身体〉は、一方で確かに〈私[#「私」に傍点]〉でありながら、もう一方で、〈私〉にとって彼岸なもの(=外部)として自らを告げ知らせるような、超越論的な〈欲望〉の地平として措定される。  たとえば、メルロ=ポンティが、「地」と「図」という構成の中で捉えようとした〈身体〉とは、こういった、〈私〉(意識)の一部でありつつも同時にそこから脱け出ており、むしろ〈私〉に対する規定として現われ出るような〈身体〉のありようを意味している。 [#1字下げ]……知覚は世界についての科学ではなく、それは一つの行為、一つのきっぱりとした態度決定でさえもなくて、一切の諸行為がそのうえに〔図として〕浮き出してくるための地なのであり、したがって一切の諸行為によってあらかじめ前提されているものである。世界とは、その構成の法則を私が自分の手中に握ってしまっているような一対象なぞではなくて、私の一切の思惟と一切の顕在的知覚とのおこなわれる自然的環境であり領野なのである。(『知覚の現象学』序文)  ふつう〈知覚〉は、世界の客観的空間性(その内部の事物の配列)を受けとる座として考えられる。すると〈知覚〉の科学はなぜそれが、客観的世界を正しく受けとったり歪めて受けとったりするかという問題にぶつかる。しかし、じつはもともと客観的世界(空間性)が存在しているわけではない。むしろ空間性は、〈知覚=身体〉が、いわば〈欲望〉として存在要請を発し、そのことにおいてつぎつぎと「地」と「図」の配置を変えてゆくような「現象野」である。だからむしろ客観的空間という考えはひとつの理念なのである。こうメルロ=ポンティは言おうとしている。  わたしたちは空間的秩序の中に〈身体〉を置き入れているのではなく、むしろその逆である。〈知覚=身体〉は、生きられている実存的な中心であるために、自らの「現象野」から空間的秩序をいわば思い描いているのである。市川浩は、ほぼ同じことを次のように言っている。 [#1字下げ] そういう意味では、空間とか、時間というのは、きわめて人間的なものです。さらにいえば、ここ[#「ここ」に傍点]は身の原点であり、身は方向性をもっていますから、生きられる空間は、方向性を帯びたものとして〈身分け〉されます。つまり前空間—後ろ空間があり、右空間—左空間、上空間—下空間があります。これは、われわれの身の構造と密接に結びついています。(『〈身〉の構造』)  メルロ=ポンティが「地」と「図」というかたちで、あるいは市川浩が、〈身〉の中心化‐脱中心化という概念で捉えようとした、空間と〈身体〉の相関は、わたしたちにとってただひとつの意味を持っている。つまりそれは、〈身体〉とは、人間にとって〈欲望〉といういわば彼岸の中心であり、そのために客観化された空間の概念から絶えずズレてゆくような「生きられる空間」を、そのつど編み上げているということだ。  したがって、人間的秩序は自然の調和《ピユシス》的秩序からの過剰、ズレである、といった論理は、いわば理念化された〈秩序〉の観点からの「遠近法的倒錯」にすぎない。自然や客観の秩序などといったものはどこにも実在せず、それはもともとひとつの理念なのである。こういった「倒錯」を理解[#「理解」に傍点]するためには方法はただひとつしかない。客観主義や実証主義に対して、もうひとつの仮説[#「仮説」に傍点]を対置することではなく、なぜ、〈身体〉という分節化の中心から客観的空間という理念化が要請されたか[#「要請されたか」に傍点]と問うことである。客観的空間の信憑(妥当)は、決して誤った認識[#「誤った認識」に傍点]なのではない。それは生活世界が、その要請によって招き寄せた必然的な確信[#「確信」に傍点]なのである。フッサールにならって言うと、客観的空間を確証[#「確証」に傍点]することもそれを否定することもひとしく無意味であって、ただ、その由来を「理解すること」が重要なのである。また、なぜ個々の「生きられる空間」が、客観的空間と絶えずズレるような現われを呈するかを「理解すること」が重要なのである。  さて、しかしわたしはここで、この問題の中心点を指し示すだけにして先にすすもう。  すでに見てきたように、わたしは〈知覚〉という項に、事物存在の妥当、〈身体〉そして〈空間〉という妥当の根拠を見出した。だが、個々の事物存在の妥当は、じつはもっと詳細な相互主観性の構造を孕んでいる。ここでもそのことを詳しく検討することができないので、さしあたりその大枠だけを示しておくことにする。 [#ここから1字下げ] 1、個々の事物の存在妥当は、そのつどの〈知覚=身体〉という〈欲望〉の中心によって、「地」の中の「図」として浮かび上る。この妥当は、また、そのつどの現存在の自己了解(反省作用)という行為によって媒介される。 2、事物の存在妥当は、その背景として、単に「地」と「図」といったいわば共時論的配置を構造として持つだけでなく、客観的空間という世界像の信憑をすでに成立させていなければならない。これは、いわば通時論的背景である。 3、客観的空間の妥当は、独我論的構成ではなく、必ず相互主観的構成として成立する。〈身体〉、〈私〉、〈他者〉、〈世界〉という項(信憑)は、時間的前後関係をほとんど持たず、必ず並行関係として括り出される。 4、客観的空間の信憑は、つねに相互主観的構成のいわば惰性態として成立しているが、「生きられる空間」は、現に絶えず編み変えられつつある相互主観性である。そのことによって、このふたつの空間のズレが理解される。 [#ここで字下げ終わり]  超越論的な観点からは、現在〈身体〉論が持っている現実的な課題は、ほぼ右のような問題に尽きる。超越論(現象学的)の観点は、〈身体〉の一切の秘密を明らかにするといった実証的、科学的態度を無効と見なす。〈知〉は、生活世界がその現実的要請を見出したときにだけ、その〈観点〉を編み変える真の理由を持つ。これは現象学的な認識批判の、重要なエッセンスにほかならない。  B 情動性—価値—エロス[#「B 情動性—価値—エロス」はゴシック体]  サルトルは『存在と無』の中で、一切の〈像〉は「感情的反作用」を伴う、と言っている。わたしたちは、〈意識〉表象として、〈情動〉や〈感情〉を持っているが、それらは明らかに像を持っていない。悲しみや喜びという観念[#「観念」に傍点](概念)は、それが具体的に思念されるときには、必ずなんらかの〈像的変容〉を伴うが、〈情動〉や〈感情〉自体は、有像的でない。しかし、この〈情動性〉は、じつは〈知覚〉や〈認識〉一般にとって、すでにひとつの欠かせない要素となっていることが判る。  たとえば、〈痛み〉の〈知覚〉は、生理的に決定されているわけではない。ひとつの刺戟は、それが〈私〉にとって〈苦〉であるという情動性を伴うことによって、はじめて〈痛み〉という〈意味〉をもたらすのであって、決して〈痛み〉という実在が〈苦〉を生じさせるのではない。  たとえば、同じような刺戟は、〈私〉の状況の中で〈痛み〉であったり、〈快〉であったりすることがあり得る。マゾヒスティックな性戯は、その典型を示しているがそういった例はいくらでもある。メルロ=ポンティはこの事情を「生きられてある」〈知覚〉、〈身体〉という言葉で示そうとしているが、彼の言い方はまだ不十分である。この問題を理解するためには、どうしても〈情動性〉に対する超越論的な考察を必要とするのである。  まず、すでにわたしは、事物存在や空間の妥当は、〈知覚〉という意識体験の質[#「質」に傍点]によって動かし難いものとして現われ出るということを示した。しかし、ひとつのカップの妥当は、美しいカップとか汚ないカップとかいう価値性にすでにつきまとわれている。この価値性は、〈私〉がその側面に配意を向けるとき、明瞭なかたちで浮かぶのだが、単に用在としてそれに対するときは、いわば「地」として沈澱しており、顕在的に〈意識〉に現われているわけではない。だがそれでも、〈私〉にとっての事象一般は、絶えずなんらかの価値関係を帯びており、そういう世界として生活世界一般を示している。おそらく世界のこういった現われを妥当させる根拠が、〈情動性〉という意識表象にほかならない。 〈情動性〉は、〈知覚〉と同じように、〈意識〉の自由な志向力にとって彼岸である、ということにわたしたちは注意する必要がある。ひとつの事象を受けとるとき、〈私〉は必ずそこに、〈快—苦〉、〈美—醜〉、〈よい—わるい〉(これは判断としての善—悪と区別されるべきだ)といった〈情動性〉を受けとっている。そして、この情動は、〈私〉にとって決して自由に動かすことのできないものだ。〈情動性〉はまた〈知覚〉と同じように、〈私〉にとって彼岸のものでありながら(つまりその由来を[#「由来を」に傍点]意識できない)、それが〈私〉自身にほかならぬことを意識に告げ知らせる、というかたちで現われる。〈情動性〉はこうして、もうひとつの超越論的〈欲望〉の中心として措定されることになる。  この〈情動性〉を根拠とするような、事象の〈私〉に対する現われ(妥当)のありようを、わたしは広義の意味でエロス的領域と呼んでおきたいが、その理由は次のようなものだ。  わたしがエロス性という言葉で示したいのは、〈世界〉が、〈私〉にとって単なる実在やその関係としてではなく、快苦、美醜、倫理性の価値関係として、つまり、つねにすでに色づけられて[#「色づけられて」に傍点]現われてくるようなそういった〈私〉と〈世界〉の関係上の原理にほかならない。この原理は、人間の「経験」が必ず〈意味〉として現われ出ることの根本的な基礎をなしているとともに、〈実存〉という概念のいちばん重要な土台でもある。  たとえばハイデガーは、「気遣い」という概念こそが、〈実存〉ということの意義を十全に満たすものだと言っている。 [#ここから1字下げ]  気遣いは、根源的な構造全体性として、現存在のあらゆる現事実的な「態度」や「状態」に実存論的に、またア・プリオリに「先立って」いる。言いかえれば、あらゆるそれらのうちに[#「うちに」に傍点]つねにひそんでいる。  世界内存在が本質上気遣いであるがゆえにこそ、これまでの分析において、道具的存在者のもとでの存在が、配慮的な気遣い[#「配慮的な気遣い」に傍点]として、世界内部的に出会われる他者の共現存在と共なる存在が、顧慮的な気遣い[#「顧慮的な気遣い」に傍点]として、とらえられたのである。何かのもとでの存在は配慮的な気遣いである。というのは、何かのもとでの存在は、内存在の在り方として、この内存在の根本構造である気遣いによって規定されているからである。気遣いは、現事実性と頽落とから分離された実存性だけを性格づけているのではけっしてなく、これら三つの存在規定の統一を包括しているのである。(『存在と時間』第四一節) [#ここで字下げ終わり]  ハイデガーの言葉をわたしたちは次のように読み換えることができる。 〈欲望〉は人間のあらゆる「意識」や「態度」に、アプリオリに「先立って」いる。世界内存在が〈欲望〉であるからこそ、〈世界〉は一方で道具的存在連関として自らを現わし(配置し)、またそうであるからこそ、〈世界〉は、配慮的、顧慮的な相、つまり価値関係として自らを編み上げる、と。ところで、フッサール‐ハイデガーという系譜が果したこのような伝統的認識論の実存論的組み換えは、一体形而上学の歴史においてどういった意味を持っていたのだろうか。  たとえばヘーゲルは、『精神現象学』の起点を次のような発想に置いている。  まず、彼によれば、意識はふたつの契機を持っている。ひとつは、意識にとって[#「にとって」に傍点]現われた対象(物)であって、これは〈知〉と呼ばれる。もうひとつは、そのときに必ず生じる、意識にとってではなく[#「にとってではなく」に傍点]、対象そのものとして存在する自体性の観念であって、これを〈真〉と呼ぶ。そして意識が「吟味」するとは、〈知〉が〈真〉と呼ばれるものに一致するかどうかを見ることを意味する。ここで注意すべきは、このふたつの契機は、ともに〈意識〉の内側に生じた二項であるという点である。したがって、意識の運動のありようを見るために、「いろんな尺度を我々が持ちこんだり、探究にさいして我々のいろんな思いつきや我々の思想を適用する必要はない」。つまり、一切は、意識の内側の自己観察の中だけで遂げられるはずである。こうヘーゲルは言うのである。  ヘーゲルのこの主張は、カントの〈物自体〉という考えに対する、また、その後のドイツ観念論に対する根底的な批判になっている。また基本的に、フッサールの現象学的内省の方法(〈主観‐客観〉という対項をたてず、観念の先験的装置、つまりオトギ話を仮構しない)を先取りしていると見なすことができる。  しかし、わたしが注意を促したいのは次のような点だ。 [#ここから1字下げ] ……即ち最初に対象として現われてきたものが意識にとってそれについての知になりさがり、自体が自体の意識に[#「自体が自体の意識に」に傍点]対する存在[#「存在」に傍点]と成るとき、この〔第二の〕自体が新しい対象であり、そうしてこの新しい対象と共に意識の新しい形態もまた登場してくるのであるが、この新しい形態にとっては先立つ形態にとってとはちがった別のものが実在であるというようにである。この事態こそは意識の諸形態の継起全体をその必然性において導いて行くものであるが、ただこの必然性そのものだけは、言いかえると、意識にはどうして「出来」するのか分らないうちに現われてくる新しい対象が前のものから発生してくること[#「発生してくること」に傍点]だけは「我々」から見れば言わば意識の背後に隠れて行われることである。(略)  かかる必然性によって学に至るこの道程がそれ自身すでに学[#「学」に傍点]であり、そのうえ内容からいえば、この道程は意識の経験[#「意識の経験」に傍点]の学である。(『精神現象学』緒論) [#ここで字下げ終わり]  ヘーゲルはこう言っている。およそ意識にとって〈世界〉が現われる仕方は、意識の内部で分節される〈知〉と〈真〉という二項の弁証法的運動にすべて�還元�される。それ以外に〈世界〉は、決してわれわれにとって現われない。ただ、その現われ方の必然性はふつう「意識の背後に隠されている」。隠されているのが「必然性」であるからこそ、この運動を考察することは「学[#「学」に傍点]」になるのである、と。  まず、ここでの「必然性」という言葉は、ヘーゲルの弁証法が、いわば論理的終局(テロス)からの演繹として辿られていることをよく示している。フッサールやハイデガーの内省は、むろんいわば帰納的内省であって、決してこうした終局は持っていない。  しかしもうひとつ重要なことがある。ヘーゲルにあっては、〈意識〉とは徹頭徹尾対象的な〈知〉として捉えられている。これは、彼が近代認識論を土台にして出発したことの帰結であり、同じことは〈知覚〉から構成[#「構成」に傍点]をはじめようとしたフッサールにも大なり小なり言えるのである。  わたしの考えでは、こういった〈世界〉の現われ[#「現われ」に傍点]の伝統的な見方を、本質的に異なった視線へ移し変えようとしたのは、むしろニーチェとバタイユである。  ニーチェは、よく知られているように、形而上学における〈真理〉追求という問題設定のうちに、反転した、あるいは挫折した権力意志を見た。そのとき彼において、美やエロスや芸術が、〈真理〉の対立項として現われた。ここで、美やエロスや芸術は、いわば反転しない、積極的な権力意志を象徴するものとしてつかまれている。 [#ここから1字下げ]  芸術の本質はあくまで、それが生存を完成せしめ、それが完全性と充全を産みだすことにある。芸術は本質的に、生存の肯定、祝福、神化である……ペシミズム的芸術とは何を意味するのか? それは一つの矛盾ではなかろうか?  芸術と美への憧憬は性欲の恍惚への間接的憧憬であり、この恍惚を性欲は脳髄に伝えるのである。 「善と美とは一つである」と主張するのは、哲学者の品位にふさわしからざることである。さらにそのうえ「真もまた」とつけくわえるなら、その哲学者を殴《なぐ》りとばすべきである。真理は醜い。  私たちが芸術[#「芸術」に傍点]をもっているのは、私たちが真理で台なしにならない[#「真理で台なしにならない」に傍点]ためである。(『権力への意志』) [#ここで字下げ終わり]  ニーチェが、形而上学的〈真理〉に対する対立項として、美やエロスを置いたことは深い意味を持っている。むろんそれは、一部の「テクスト論」者たちが持ち回っているような、〈真理〉への�哄笑�といったことではない。そういったことがらは、ニーチェの�心理学的�な一面にすぎないのである。 〈意識〉(生)は〈知〉として〈世界〉を受けとっている。これこそ伝統的形而上学の大前提であった。ニーチェの直観はむしろ、生とは〈世界〉をエロス的対象として関与することであり、形而上学はこれを認識上(知的)の、あるいは倫理上の〈真理〉として解釈していた、という点にあった。  バタイユは、もっと意識的なかたちでこの問題を展開している。「一般に哲学の誤りは生から遠ざかることである」(『エロチシズム』)。そして彼において「エロティシズム」は、はっきりと〈実存的〉な規定として示されている。 [#1字下げ] エロチシズムとは人間の内面生活の一面であるが、欲望の対象をたえず外部に求めているため、われわれはとかく思いちがいをしている。しかし欲望の対象は欲望の内在性[#「内在性」に傍点]に呼応するものであって、対象をえらぶのはつねに当事者の個人的な趣味にかかっている。(同前)  人間は、〈欲望〉の対象を「外部」に見出すため、たとえば「美しいもの」が自分を引きつける原因[#「原因」に傍点]だと考える。だがじつは、対象はただ、わたしたちの実存的基底としての〈欲望〉のかたちを告げ知らせる[#「告げ知らせる」に傍点]ものなのである。人間はつねにすでに[#「つねにすでに」に傍点]〈欲望〉として存在する。エロティシズムこそは、このかたちを最も端的に示すものだ。こうバタイユは言うのである。では、それはどういった〈欲望〉か。 [#ここから1字下げ] ……われわれ人間は不連続の存在であり、不可解な偶発事のなかで孤独に死んでゆく個体であるが、失われた連続性への郷愁をもっている。そして、偶然の個体に釘づけにされ、死ぬべき個体に縛りつけられているわれわれの置かれている状況が堪えがたい。この死すべきものの存続に不安な望みをいだくと同時に、全的にわれわれを存在に再び結びつける原初の連続性に対する執着をもっている。 ……人間存在はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。ある人間存在と他の人間存在との間には、深淵があり、非連続性がある。(略)ただわれわれに共通していえることは、この深淵に眩暉をおぼえることである。また魅惑さえ覚えるものである。そしてこの深淵はある意味では死そのものである。それ故に深淵と同じく、死は眩暉をおこさせ、魅惑するのである。(同前) [#ここで字下げ終わり]  バタイユにおいて〈死〉は両義性をもつ。一方で〈死〉は、ハイデガーの言うような「現存在できないという可能性」として、人間存在の非連続性(孤独)を規定するものだ。しかしもう一方で〈死〉は、ある場合に連続性の喩《メタフアー》となり得る。〈死〉の深淵が、魅惑を伴った眩暈として現われるのは、そういうときである。そして彼によれば、エロティシズムとは、生の非連続性(孤独)を打ち消し、それを連続性へ繋ごうとする、人間の〈欲望〉の原型として捉えられる。  バタイユの考えは、現象学や存在論の観点からはひとつの「オトギ話」(仮説)であるという性格を持っている。しかし、むろんそういったことはここでは問題でない。肝要なのは、この仮説が、〈私〉と〈世界〉の根本的な相関性としてエロス性を措定した、という点にほかならない。  このことは、わたしたちの文脈にとって大きな意味を持っている。形而上学はつねにまず、認識と〈知〉を問題にしたが、バタイユがヘーゲルに対して持っている意味は、〈世界〉は認識=知として人間に現われる以前に、それに「先立って」エロス性として存在を開示するということにほかならない。  さて、〈知覚〉=〈身体〉が、事物存在や空間の存在妥当をもたらす根拠だったように、〈情動性〉は、事象の諸価値、美、ロマン、エロス、という審級性をもたらす根拠である。おそらく直観的に判るように、快苦、美醜、よいわるい、ロマン性、エロス性、倫理という概念は、人間の世界に対する価値的な態度、あるいはむしろ逆に、世界の人間に対する価値的な開かれ方として深い連関を持っている。それらはいずれ、美論やエロス論として超越論的な展望の中で位置づけられなければならないが、ここではさしあたってその基本的な枠組を整理しておくに止める。 [#ここから1字下げ] 1、美、ロマン、エロスをバタイユのように、人間の本質的な〈欲望〉の原型の仮説から括り出せない。それはむしろ〈情動〉一般の現象学として、なぜそういう価値審級の妥当が成立するかという道すじをとる。 2、美、ロマン、エロスは、実存論的な〈欲望〉の領域である。人間の〈欲望〉は、現象学的には〈意味〉への〈欲望〉であり、つまり必ず超越的なものに対する〈欲望〉である。したがって、美論やエロス論は、超越的な〈欲望〉に関する論となる。 3、超越論的な〈欲望〉は、あたかも事物存在の妥当が人間にとって動かし難く現実存在するように、現実存在する。美論やエロス論は、この〈欲望〉の不可避性を理解[#「理解」に傍点]するという主要な眼目を持つ。 4、超越論的な 〈欲望〉 は、生活世界から �超越的� に存在するのではない。それはたとえばハイデガーの頽落という概念がよく示しているように、生活世界内存在である。超越論的な〈欲望〉はしかし、客観世界という理念が括り出されるのと同じように、客観化され、絶対化される。美論、エロス論は、その転倒の構造を明らかにするものである。 [#ここで字下げ終わり] 4 時間と意味[#「4 時間と意味」はゴシック体]  A 時間意識の構成[#「A 時間意識の構成」はゴシック体]  カントによれば、人間の感性は、時間と空間というふたつの形式によって規定されている。時間性と空間性が、「いま・ここ」にあるという自我の統覚を支えるふたつの軸であるという考え方は、以来ほとんどの哲学者によって踏襲されている。しかし、わたしたちが辿ってきた道すじからは、この問題を多少ちがった形に言い換えることができる。  事象は、〈私〉にとって、〈知覚=身体〉という意識体験の相から、存在(空間)妥当をもたらされるとともに、〈情動性〉から、諸審級の妥当を生じている。これはいわば、事象の共時論的契機である。ところで事象のこの共時論的配置(「地」と「図」)を支えているのが、時間意識という契機にほかならない。時間意識の構成はまた、〈意味〉一般を理解するための根本的な基礎でもある。たとえば、フッサールは、「経験の意味」なるものの意味を、「意識総合」と呼んでいる。「総合は、あらゆる個々の意識体験のうちにのみあって、ただときおり個々の体験を互いに結びつけるだけではなく、(略)むしろ意識生命全体が総合的に統一されているのである」。つまり「総合」は、カントの言う自我統覚にほぼ等しいが、この「総合」を可能にするものが時間意識にほかならない。 [#1字下げ] 他のあらゆる意識総合を可能にするこの普遍的総合の根本形式は、いっさいを包括する内部時間意識である。それと相関するものは、内在的時間性そのものであり、反省によってそのつど見出されうる自我のあらゆる体験は、その内在的時間性に従って、時間的に秩序づけられたものとして、時間的に始まり終わるものとして、同時的または継起的なものとして、内在的時間のつねに無限な地平の内部において、現われねばならない。(『デカルト的省察』)  ロジカルな順序で言うと次のようになる。そのつどの[#「そのつどの」に傍点]「ある」という妥当(図)が生じるためには、〈私〉が、確かに同一の〈私〉として世界内存在している、という意識上の確信が、すでに地として成り立っているのでなくてはならない。むろん先に見たように、〈私〉、〈他者〉、〈世界〉という項は、相互主観的構成として相関的に成立したものだが、それでも〈私〉がいま現在時間意識による「総合」を失えば、この妥当はたちまち崩れてしまう。たとえば、ある種の精神疾患は、時間意識の失調による〈世界〉像の変容という事態を如実に示している。  フッサールは、『内的時間意識の現象学』で、この問題を精密に展開しているが、ここでは、もっと簡明にわたしなりの形で、その構成を粗描してみよう。  まず、時間の秩序の中に自分が存在しているという意識[#「意識」に傍点]をそのつどもたらすものは、端的に言って、反省的な自己了解の行為である。つまり、〈私〉が自分自身のありようを措定的に捉え直そうとする〈意識〉志向だけが、時間表象の可能性をなしている。たとえば、次のような場合を考えてみよう。いま〈私〉は、昨日友人と何時にどこで待ち合わせたかを想い起こそうとする。そして、確かに、六時に新宿、と約束したことを思い出す。この記憶の真偽は、論理的な確証としては決してもたらされない。ただその〈事実〉は、何度想起しても、確かに六時に新宿だったという記憶の、明証的な反復の事実性によってのみ妥当される。  もし〈私〉が昨日友人と交した約束をどうしても思い出せなければ、その約束の〈事実〉の真偽は、他人の証言やその他の傍証によるほかない。また極端な場合、〈私〉が過去の記憶の反復能力を全く失えば、〈私〉は自分の自己同一性そのものを保持できない。記憶喪失のような場合は、ある一定の記憶が消えているだけだから、過去の〈事実〉が隠されている[#「隠されている」に傍点]と考えることができるが、老いによる「もうろく」のような現象は、総体的な自己同一性の喪失を意味する。  つまり、人間の自己了解の可能性は、ただ想起と記憶の明証的な反復ということのみにかかっているのである。〈時間表象〉はしたがってこの自己了解の可能性に基礎を置いている。しかし、自己了解の可能性は、それ自体では、人間の持つ〈時間表象〉を構成するとは言えない。たとえば高等な動物は、言葉を媒介としない自己了解を持っているはずである。  ライオンのような野獣を想定してみよう。野獣は、なわばりといった領域を、いわば〈身分け〉(市川浩)として識知しているが、これは、空間的表象(空間の概念ではない)をそれが持っていることを意味する。また野獣にとっても、エモノ、障害物、敵といった具合に、世界は価値的な色あいを帯びている。さらに、彼らが共同してエモノを獲るといった場面、いまなしていることと、それが成し遂げるであろうことの継起的繋がりを了解しているのでなくてはならず、そういった場合には最小限の〈時間表象〉(時間の概念ではない)が成立しているはずである。  だが、これに対して、たとえばクモが巣を張ったりアリが巣を作ったりする行為は、おそらく自己了解に基づくものではなく、いわゆる本能的な行動様式に従っているだけであり、時間表象は生じていないと思える。  人間的な時間表象は、言語によって媒介された客観的時間表象の構成を、いわば「地」として前提している。客観的時間表象は、客観世界の表象と同様に、相互主観的な構成として成立する妥当である。そしてこの「地」を背景として持つことによって、「さっき」、「今」、「これから」といった、そのつど自己了解につきまとう時間表象の「図」が可能になっているのである。  ところで、フッサールの『内的時間意識の現象学』は、そのモチーフとして、なぜ時間的な「瞬間」が「生き生きとした現在」を可能にするか、という形而上学上の難問を持ち込んでいるために、恐ろしく煩瑣なものになっている。しかし、もともとこの問いは、〈時間表象〉の客観化から折り返された転倒した[#「転倒した」に傍点]問いにすぎない。デリダは、フッサールが解こうとしたこの反転を、わざわざもとに戻して形式論理の中でこれを扱っている。  よく知られているように、彼はこの問題を、時間的同一性(今)と差異性(非今)のパラドックスとして示した挙句、最後に、〈差延〉という概念によってこの難問を閉じている。〈差延〉とは、「今」とはじつは必ず「非今」をすでに孕んでいるということを示す記号[#「記号」に傍点]であり、これによってデリダは、フッサールの「特権的な今」を批判したと考える。だが、繰り返し見てきたように、デリダの解[#「解」に傍点]は形而上学な前提を動かさず、むしろそれを認めることにおいて成立しているのである。この前提とは、〈今〉とは時間の[#「時間の」に傍点]無限小の切片にすぎない、ということだ。  なぜこの無限小の切片の中で、生き生きとした豊かな現在(生ける現在)が可能になっているか。それは〈今〉は一切の〈非今〉を排除した根源の一点ではなく、すでにそこに〈非今〉を繰り込んでいるような〈差延〉としての今だからである。こうデリダは主張する。 [#ここから1字下げ]  根源的印象と過去把持に共通な根源的地帯における、今と非‐今との、知覚と非‐知覚との、こうした連続性をひとたび認めるならば、ひとは Augenblick〔瞬間〕の自己同一性のなかに他のものを迎え入れることになる。すなわち、瞬間のまばたき[#「瞬間のまばたき」に傍点]のなかに非‐現前と非明証とを受け入れることになるわけである。まばたきには或る持続があって、その持続が眼を閉じさせるわけである。 ……われわれはアプリオリにつぎのように言うことができるはずである。すなわち、この両者の共通の根である、最も一般的な形における反‐復〔r・p師ition〕の可能性、つまり最も普遍的な意味での痕跡は、今の純粋な顕在性に宿るにちがいない可能性であるにとどまらず、その可能性が今の純粋な顕在性に導き入れる差延〔la diff屍ance〕の動きそのものによって、今の純粋な顕在性を構成するはずの可能性でもある、と。(ジャック・デリダ『声と現象』) [#ここで字下げ終わり]  この答え方は、その問い方自体が形而上学の論理形式の内側にあることによって全く意味をなさない。仮に〈差延〉の考え方が成立すると見なしても、そのことは同時に、その前提としての形而上学的同一性[#「同一性」に傍点]を暗黙のうちに認めることになるからである。わたしたちはむしろ、なぜ〈瞬間〉という概念が、つまり無限小の切片としての一瞬、という時間表象が成立したか、と問うべきなのである。 〈瞬間〉とは、ベルグソンが指摘するように、時間を空間表象(直線)として置き、それを縦に切った一点として表象されたものだ。厳密に言うなら、〈瞬間〉は時間的にはどんな「持続」も含まない無でしかない。なぜ無の中で〈私〉の生き生きした現在が可能かと問えば、瞬間は今でありながら非今を含む、といった背理的[#「背理的」に傍点]な答え方しかできないことは明らかである。  わたしたちの文脈から言うと、時間は決して実在する秩序ではない。人間の時間表象は、ただその自己了解の可能性によって成立する。この自己了解は、想起と記憶の反復の原[#「原」に傍点]事実によってのみ成立する。この全く〈意識〉内部の事実性だけが、時間表象の「地」を構成する。わたしたちが日常的に意識するような、「さっき」、「今」、「これから」、というそのつどの時間表象は、言葉の秩序を媒介とした〈客観的時間表象〉を土台としてのみ成り立つ。それは個々の事物の妥当が生じるために、あらかじめ、客観的な世界の中に〈私〉が存在する、という〈客観的世界表象〉が成立していなければならないのと同様である。  ここで注意すべきなのは、空間や価値の妥当が、〈知覚〉や〈情動〉の意識にとっての彼岸性(動かし難さ)に根拠づけられているように、時間表象は、記憶の反復の動かし難さにのみ依存している、ということだ。〈私〉が特定の内容(昨日、いつどこで会う約束をしたか)を想起するとき、そこに呼び寄せられる記憶は、〈私〉の意志にとって決して自由にならない。記憶はただ一定の内容として反復されるのであり、ただそのことによって〈私〉は過去の〈事実〉やその配列[#「配列」に傍点]を確信させられるだけだからである。 〈客観的時間表象〉は、この反復の可能性に依拠する。この〈客観的時間表象〉は、言語によって編み上げられる、この世界の関係の客観化の中で、内的な時間表象が、共同的な交換可能性[#「交換可能性」に傍点]を持つものとして位相変容されることによって成立する。内的な時間表象と客観的時間表象の関係は、ちょうど、そのつど〈私〉の状況の中で価値を持って現われる事物と、一般的価値形態としての貨幣の関係、とパラレルである、とさしあたって言っておくことができる。  こうして、客観的時間表象が成立したのちに、はじめて〈瞬間〉の概念が現われることになる。そこでは、〈負債〉がマイナスの価値という背理[#「背理」に傍点]を表現するように、〈瞬間〉は、時間的な無としての〈今〉、という背理[#「背理」に傍点]を表現する。時間的無[#「無」に傍点]がいかにして豊かな実在の感覚を可能にしているかというパラドックスは、まさしくこの場面で生じるのである。  このパラドックスは、言語の「自己言及性」や、科学的な客観空間と生きられてある空間(メルロ=ポンティはたとえばそれを錯視という形で示した)の間の説明のつかないズレなどと、全く同じ構造を持っている。つまりそれは、実存的な場面での世界の妥当から客観世界(関係)が括り出されたにもかかわらず、それが隠蔽(忘却)されて、客観世界(関係)から個々の実存の場面を規定しようとするときに生じる背理(ズレ)なのである。  B 〈意味〉の回折性[#「B 〈意味〉の回折性」はゴシック体]  わたしたちは、事象の存在や価値のそのつどの妥当が、時間意識という〈私〉の「総合」によって支えられるということを見てきた。ところでハイデガーによれば、「現存在の存在」(=気遣い)の意味[#「意味」に傍点]は、「時間性」である。このことは、さまざまな�意味合い�を含んでいるが、さしあたって重要なのは、人間の〈実存〉を規定するものは、時間意識の中での自己了解の内実とその可能性である、ということである。  幾度も見てきたように、フッサールは「ある[#「ある」に傍点]」という問題をつきつめた挙句、それを、生の明証性における経験の〈意味〉という場面に〈還元〉した。フッサールのこの〈還元〉の地平と、ハイデガーの実存論の地平は、ほとんど踵を接しているのである。人間にとっての〈生〉とは、つまりその生の意識とは、経験がそのつど〈意味〉の連関として現われ、また〈私〉自身が〈意味〉への〈欲望〉として自らに開示されるということである。つまり、それは、いわば対象と主体の単なる直接的な実践関係として現われ流れゆくものではなく、つねに、行為や実践とその意味がつかみ直され、そのことによって全く新しい質として現われ出た主体と世界との関係的な生きられ方なのである。こういった現存在のありようを支えているのが、ハイデガーの言う「時間性」にほかならない。  では、ここで言われているような、「時間性」という新しい質によって人間の生にもたらされている〈意味〉は、一体どういうことを�意味�しているのだろうか。わたしたちはここで、もう一度〈意味〉とは何かという問いを、新しい形で問い直してみよう。  ふつう、言葉につきまとっている意味[#「意味」に傍点]とは(たとえば「バカ」ということの)、別の言葉で言い換えたり、他の言葉との対比、対立(「かしこい」「りこう」)の中で規定されるものである。これに対して、存在(ある[#「ある」に傍点]ということ)の意味[#「意味」に傍点]は、それを客観的に見れば〈実在する〉ということである。だが、存在するということの意味を客観的に捉えるのでなく、実存論的な観点から捉えなおすとすれば、それは、「問題となる」という言葉で示すことができる。  たとえば丸山圭三郎は、この「問題となる」という実存論的な意味での意味性[#「意味性」に傍点]を、〈生《レーベン》への関与性〉というかたちで言い表わしている。 [#1字下げ]……動物たちにとっても、意味以前の裸のデータともいうべき客体が存在するわけではないのだ。ダニにはダニ固有の、イヌにはイヌ固有の〈意味=現象〉群が存在していて、それらがその種独自の世界を形成しているのであるが、いずれの世界がより客観的でも物理的でもなく、これまた彼らの〈生《レーベン》への関与性〉次第で存在もし、非在化もする。多くの動物は、何らかの音を聞いた際それを一定の視覚対象に帰属させる構成をもっているという、ユクスキュルが挙げた例を一つだけひこう。トカゲは枯葉の音ならどんなにかすかなものであれひどくびくつくのに、そばでピストルを発射されても全く反応しない。何故なら、そのような音響と結びついているような危険の要素は、トカゲ本来の環境には存在しない、つまりこの物音はトカゲにとって〈意味=現象〉ではなく、彼の刺激閾の向う側にしか存在しないからである。(『文化のフェティシズム』)  なにものかに〈意味〉があるとは、それが個体の〈生の関与性〉にとって[#「にとって」に傍点]現われるということだが、このことはわたしたちが辿ってきた文脈からは、〈欲望〉にとって現われ出る、というふうに言い換えることができる。なにかがある[#「ある」に傍点]とは、それが〈私〉(という〈欲望〉)にとってなんらかの〈意味〉として現われるということ、つまり、それが〈欲望〉にとって対象となるような仕方で現われるということであり、まさしくこのために、〈私〉にとって〈意味〉はそれ以上遡行できないものとして現われ出るのである。つまり、あるもの[#「もの」に傍点]は人間にとってまず客観物として現われ、人間がそこから自らの〈生の関与性〉に応じてそれを〈意味〉として受けとる、というのではない。それは逆転[#「逆転」に傍点]した考えである。そうではなく、人間はつねにすでに〈欲望〉として実存しているため、もの[#「もの」に傍点]はいきなり〈欲望〉の相関者として、つまり〈意味〉として現われ出る。そしてその後に客観世界という像が構成されてゆくのである。  しかし、ここで、たとえば次のような場面を想定してみよう。ライオンのような野獣は、なわばりという空間的対象世界や、食欲や性欲などの�本能的�欲求がもたらす諸価値的な対象世界を持っている。この場合、人間から言うと[#「人間から言うと」に傍点]、森やひらけた草地や渡りにくい川といった空間は、ライオンにとって異質な空間であり、それぞれの異質な〈意味〉を持つ、と言える。だがこのときの〈意味〉とは、自体的[#「自体的」に傍点]なものではない。それは、人間[#「人間」に傍点]が、「あるということ」を知的に把握しようとする観点の中でとり出された�意味づけ�にすぎない。ライオンにとっての分節された対象世界の秩序(異質空間)は、じつはライオンにとって〈意味〉として現われているとは言えない。それはたとえば市川浩や丸山圭三郎の言うような〈身分け〉のゲシュタルト、あるいはメルロ=ポンティの言う、前言述的な「生きられる空間」であって、決して〈意味〉分節されたものではない。  ところで人間もまたこういう前言述的な「生きられる空間」を「地」として持っているが、人間が内省の中で自己了解を行なうとき、ひとつひとつの事象は、必ず言語的〈意味〉分節の中でのみ把握されることになる。そのために、人間的自己了解の中では事象は必ず〈意味〉として現われ出るのである。だが一方でこういった見方は、〈意味〉そのものは、全て言語による秩序によって支えられているという見解を、容易に招き寄せるであろう。しかし、もうすこしていねいに考えてみよう。  わたしはサルの学習に関する次のような興味深い実験をテレビで見たことがある。  まず飼育係が、少し傾けた長い筒の入口Aにリンゴを置く。はじめサルは、リンゴはAにあると思ってそこを手探りする。しかしリンゴは筒を転がって出口Bに達している。サルはやがてそのリンゴを発見してBの方へ回りそれを食べる(図1)。この行程を繰り返すうち、サルは飼育係がAに置いたリンゴは、必ずBに現われることを知り、それを予測してすぐにBへ行くようになる。このとき、サルは、いわば〈身分け〉の直接的なゲシュタルトとは違った、�学習�によるゲシュタルトを身につけたと言えるだろう。 [#挿絵(img/fig2.jpg)]  飼育係はここでもうひとつの実験を行なう。  筒の中のリンゴを途中Cで止まるようにしておくと、Bに回ってリンゴを得ることを覚えたサルは、はじめこの事態に対応できない。しかし彼は、しばらく躊躇したのち、木の枝を探して、Cのリンゴを枝でつつき出す(図2)。このとき注意すべきは次のようなことだ。 [#挿絵(img/fig3.jpg)]  サルは、リンゴをとるために、木の枝を探しにゆくが、彼はかなり離れた場所までそれを求めるためにさまよう。サルは、まず[#「まず」に傍点]適当な木の枝を見つけるという行為を実現し、次[#「次」に傍点]に木の枝で、リンゴと自分との隔りを埋める、という行為を行なう。この場合、サルは、目前のリンゴを手でつかみ食べる、という直接的なゲシュタルトをいったん延期して、いわば�学習�されたゲシュタルトをその間[#「間」に傍点]にはさみ込んでいる。つまり注意すべきなのは、ここでは、リンゴを食べる(ため)という欲望連関の直接的対応性が、木の枝を探す—木の枝でリンゴを取る、というふたつの迂回路をとっているということだ。こういった�学習�の過程を通ってはじめて、サルの直接的(一次的)ゲシュタルトはひとたび延期され、〈エサ〉—〈木の枝で取る〉—〈木の枝を探す〉という回折的ゲシュタルトが形成されるのである。  さて、わたしの考えでは、人間的な〈意味〉分節は、こういった回折的ゲシュタルトの成立ということに、その可能性の基礎をおいている。なぜなら、この場面ではじめて、〈欲望〉の要請は、リンゴを食べるために[#「ために」に傍点]—木の枝で取るために[#「ために」に傍点]—木の枝を探すために[#「ために」に傍点]といった、いわば回折された連鎖として浮かび上るからである。つまりまさしくこういう事態の中で、木の枝(を探すこと)は、サルにとって、リンゴ(を食べること)を〈意味[#「意味」に傍点]〉する[#「する」に傍点]、と言えるようになるのである。  わたしたち(人間)が、〈意味する〉という言葉で言い表わしている事象には、必ず、こういった、〜のために[#「のために」に傍点]という欲望連関の回折された連鎖の関係が折りたたまれている。たとえば、ガンの宣告は死を意味するというのは端的な例だが、左腕投手の補強は大きな意味を持つというとき、そのチームが勝つこと、あるいは勝って欲しいという〈欲望〉からの回折された連鎖として、そのことの〈意味〉が生じているのである。  ところで、言葉の秩序は、こういう観点からは三つの核心を持つことが判る。  まずひとつは、言葉は、経験によって形成されたこの欲望連関の回折を集約するものだ、ということである。言葉は、単に経験を集約するのではなく、その〈意味連関〉を集約するのだ。もうひとつは、言葉は、その反復の可能性によって、集約された経験の〈意味連関〉をいつでもたぐり返すことのできるものとして保持する、という機能を果す。このことによって、人間の身体的ゲシュタルトは、動物の身体的ゲシュタルトと決定的に異質なものとなる。つまり動物は、ただ�本能的�欲求に対応するような対象世界の中で、その「地」と「図」の配置と統一をそのつど構成するだけだが、人間の場合は、まず〈欲望〉そのものが直接〈意味〉(連関)に向かい、いわば〈意味〉の網の目として現われ出る対象世界の中で、その「地」と「図」をそのつど構成するのである。ヘーゲルによれば、人間にとってもの[#「もの」に傍点]や世界は、本質的に概念の網の目なのだが、彼の破天荒な言い方は、決して根拠のないものではなかった。客観的実在があってそこから意味が取り出されるとわたしたちは考えてしまうが、じつは、それは事後的な�説明�にすぎないのである。  さてもうひとつ重要なのは、言葉は本性上、この〈意味〉連関を、〈他者〉との交換可能性として表示するという性格を持つ、ということである。そしてこのことは、言葉の秩序が、つねに個体にとっての固有の〈意味〉連関を客観化(共同化)してゆくような傾向を持っているということを、わたしたちに示唆する。客観的、客観世界といった像は、したがって本質的に、言葉が、実存の〈欲望〉のありようを共同的な交換可能性として表示してゆくという契機によって作り上げられるのである。わたしたちが、客観世界から出発せずに、まず〈欲望〉としての存在(実存)という場所から出発すれば、はじめに現われるのは〈欲望〉とそれに対応して現われる対象的意味性であり、次に、それが回折的ゲシュタルトを通って現われ出る人間的〈意味〉分節である。そして最後にそれが言葉[#「言葉」に傍点]に媒介されて、客観的実在という像へ構成されるのである。  こうして、言葉(〈意味〉)の存在は、本質的にあの回折された身体的ゲシュタルトの形成によって基礎づけられている。しかしそのことは、この回折されたゲシュタルトの反復と交換の必要性が言語を生んだ、ということをただちに、意味しないだろう。言語がなぜ発生したかということは、生命がなぜ発生したかとか、人間的生がなぜ生じたかという問いと同様、原理的には(物語=仮説として以外には)決して答えられない、という点にわたしたちは注意すべきである。ただ、言葉は〈意味〉の集約であり、わたしたちが〈意味〉と呼んでいるものは、必ず一次的ゲシュタルトから回折された欲望連関の連鎖を含んでいるということに、さしあたって留意しておかなくてはならない。  C 人間的〈意味〉の秩序[#「C 人間的〈意味〉の秩序」はゴシック体]  さて、わたしたちは、もうひとつの重要な問題に踏み込んでみよう。それは、言語の秩序によって構成された意味の網の目としての人間的な対象世界が、今度は人間の〈欲望〉をどのように規定してくるか、という問題である。すでに見たように、言語は、回折的ゲシュタルトの形成による〈意味〉分節を前提としてのみ成立する。しかし、そこから現われた言葉の秩序は、人間にとっての対象世界を、共同化しつついわば象徴秩序と化す。そして今度は、この言葉の網の目としての世界が、人間の〈欲望〉のありようを根本的に規定するものとなる。  たとえばライオンは食べ残したエモノを放棄する(それは腐って、食べるもの[#「食べるもの」に傍点]ではなくなる)が、人間はこれを保存し、�明日�のためにとっておく。ここには、人間が時間意識の中で対象世界を表象しているということがよく示されている。そもそも、昨日があり明日があるという表象が対象世界を秩序づけていなければ、肉を腐らせないように保存し、明日にとっておく、という回折された行為の連関は生じようがないからだ。ハイデガーは人間にとってのこの「時間性」の意味合いを、〈死〉の現存在分析からいわば演繹している。木村敏は、『時間と自己』という著書の中で、これを次のように簡明な形で言い表わしている。 [#ここから1字下げ] ……既知と未知[#「既知と未知」に傍点]としてのいままでといまから[#「いままでといまから」に傍点]、生の既存性と死の未来性、有限な人間の個別的生存に対してその有限性それ自身によって必然的に課せられているこの両方向性が、われわれの日常の時間に以前[#「以前」に傍点]と以後[#「以後」に傍点]、過去[#「過去」に傍点]と未来[#「未来」に傍点]の区別を与えているのであり、時間に絶対的に不可逆的[#「不可逆的」に傍点]な流れという外観を与えているのである。原理的には可逆的な等質性を有するはずの物理学的時間にすら、そこに人間による観測[#「人間による観測」に傍点]という操作が加わることによって不可逆性が与えられる。  未来が「まだ来ない」ものであり、過去が「過ぎ去って帰らない」ものであるのは、時間の本性に根ざしたことではなくて、むしろわれわれ人間が死すべきものであるという有限性の反映であるにすぎない。われわれが自己と呼んでいるものも、時間と呼んでいるものも、実はわれわれの死とのかかわりかたの様態にすぎない。そして分裂病者とは、一般の人とは違った仕方で、しかし死本来の意味から当然予想しうる特定の仕方で、死とかかわっている人のことにほかならないのであろう。 [#ここで字下げ終わり]  しかしわたしの考えでは、〈誕生〉と〈死〉の両方向から与えられる有限性は、人間の客観的時間意識の形式を規定するのであって、内的時間意識の表象は、むしろ先に見たような回折的な〈意味連関〉の反復の可能性にかかっている、とだけ言えるのである。もうすこし詳しく見てみよう。  サルが、直接にリンゴを食べられないとき、枝を探す—木の枝でリンゴを取る、という行為の遂行を支えているのはどういう事態だろうか。すぐに判るのは、サルはこの行為を�本能的�な身体様式に従ってなしているわけでないということだ。つまり、この行為を遂行するために、サルは、まず枝を探し、次にそれでリンゴを取る、という行為の順序(配列)を、〈意識〉の中で反復=表象しているはずだ、と考えられる。もしそうでなければ、サルは全く無意識に[#「無意識に」に傍点](なにも意識せずに)行為していることになるが、サルの試行錯誤の行為の観察からは、そういう見方は全く許容されない。サルはときに順序をまちがえそうになったり、次になにをするかためらったりしながら行為を実現する。このときサルはこの順序を幾度か反芻しながら行為しているように見える。つまりこの行為の実現は、〈意識〉の中での、次に[#「次に」に傍点]これをするとか、前に[#「前に」に傍点]これをしたといった明証性の反復がサルに訪れているか否かということにかかっているのである。この明証性の反復が生じているということは、つまり行為の〈意味連関〉が配列され、その表象がいくども明らかなものとして反復される、ということだ。そして、次にこれ(ある意味)をなしたとか、前にこれをした(別の意味)という意識の反復は、〈今〉という妥当の表象を相関的に形成することになる。  要するにこういうことだ。直接的ゲシュタルトから回折された〈意味連関〉の配列が、〈意識〉に絶えず表象されることのこの反復の可能性、これが、内的な時間意識の構成を支えているものなのである。また、そうであるからこそ、人間に時間意識をもたらすこの反復の可能性が、人間的な自己了解(反省作用、措定的意識、行為や考えの再把握)を支えていると言えるのである。ハイデガーが、現存在の意味は「時間性」である、と言うのは、そういうことにほかならない。  したがって〈死〉の有限性が、人間の過去・現在・未来という時間意識の根源であるとは決して言えない。それは、もっぱら人間社会の客観的時間性の形式を規定するのだが、それに関してはここでは詳述できない。ただ、〈私〉が〈さっき〉、〈今〉、〈これから〉、というそのつどの〈意味連関〉の配列を、去年、昨日、何時間前あるいは、来年、明日、何時間後といった秩序の中へより明確な形で配置することができるのは、この客観的時間表象がすでに成立しているからなのである。  ところで、メルロ=ポンティは『行動の構造』の中で、「物理的秩序、生命的秩序、人間的秩序」という三つのゲシュタルトのあり方を分類している。メルロ=ポンティがここで示そうとしたのは、人間の「行動」(=〈欲望〉)のありようは、決して、有機的、生理的な諸部分の構成として捉えることができない、ということである。ゲシュタルトとは、ここで、諸部分の要素的連関が全体を構成するのではなく、むしろ個体の状況的な全体の構成が諸部分の要素的連関を編み変えるといった概念(=ゲシュタルト学説)を意味している。しかし、むろん、部分、要素、全体、構成といった概念の中で、人間の「行動」を捉えることはできない。構造から〈欲望〉のありようは演繹することはできず、ただ〈欲望〉の現われが構造の概念を呼び寄せているだけだからである。人間の〈欲望〉はどういう現われをとっているだろうか。  ライオンはエモノを保存することを知らない。これに対して、人間は、エモノを食肉として保存するだけでなく、生にとって必要なさまざまなものを保存し、形を変え、利用する。現実社会の中でそれは、金を得るために仕事し、貯蓄し、そのために教育を受け、さまざまな社会習俗を身につける、という形をとって現われる。このとき人間の〈欲望〉は、ただ食べたり生殖したりという直接的な〈欲望〉からの意味連関として、一切の事象を時間的、空間的に配列しているわけではない。むしろ食べたり、セックスしたりということは、生活上の一要素として配列されており、それはそのつどの〈欲望〉の「図」とはなっても、決して一切の意味連関がそこに集約される最終のゴールではない。  ふつう人間の〈欲望〉は生活世界の中でさまざまな系を持っている。たとえばある人間は、芸術家になりたいと思ったり野球の選手になりたいと思ったりする。デッサンの修練を積んだり、バッティングの練習をしたりという個々の行為は、この〈欲望〉の中心に支えられ、意味連関の連鎖を編み上げる。むろんそれだけではない。彼(彼女)は、自分の周りの人間関係を豊かなものにしたり、経済的条件を整えようとして努力する。それらの〈欲望〉はまたそれぞれの意味連関を張りめぐらせる。こういった現われの中で、わたしたちは次のようなことを理解するはずだ。  ひとつは、人間の〈欲望〉は、有機的、生理的欲求の構成的な積み重ねから決して導き出されることができず、またそこへ還元することもできない。人間の〈欲望〉は徹頭徹尾、生活世界内的な存在であり、ただそこでの生の諸範形のうちにのみ、〈欲望〉の通路(形式性)を受けとる、ということである。もうひとつ重要なことがある。それは、こういった人間の〈欲望〉は、ただ〈意識〉のうちの自己了解においてのみ告げ知らされるということだ。そしてこのことが、人間の生の実存的な性格を明らかにするものとなる。  わたしたちの生の充実や魅惑は、決して生理的身体の快と結びついているわけではない。〈私〉はただ自己了解の中でのみ、〈私〉の行為や存在のありようを確認するが、それは実質的には、ただ意味連関としてだけ現われ出るものである。芸術家の〈欲望〉はよい作品を創りたいということに向けられる。自分の作品がひとを動かしたという充実は、満腹して飢えが癒されたという身体的な快とは異なって、まわりの〈他者〉たちの言葉や状況を、自己了解の中で〈意味〉として確かめることによってのみ味わう[#「味わう」に傍点]ことができる。このとき、彼の〈欲望〉は、この〈意味〉に伴う情動の動きによって告げ知らされるのだが、ただこの〈意味〉だけを相関者として持っているのである。  ハイデガーは、実存の概念をじつに簡単に定義づけている。「了解しつつ存在し得ること」(『存在と時間』)。これを、人間は誰でも自己意識を持っているというふうにとれば、誰でも知っているあたりまえのことにすぎない。しかし、人間はさまざまな生の目標や欲望の中で生きているが、その内実を支えているのは、ただ自分の存在を捉えなおし、その〈意味〉を確かめつつ〈意味〉によって充実を与えられ、さらにこの充実の可能性(存在の可能性)へ自らを投げかけるという仕方で生きている、ととってみればいい。人間の生の意味は、ここからどこにも還元されず、またどこからもここへ演繹され得ないということが判るはずである。  人間の生は、どんな超越的な目的や理想にも還元できない。ただその〈欲望〉を、生活世界内的な範形の中で育て、その〈意味〉をいわばエロス的対象性として見出すことによって、生の充実を生きることの可能性を絶えず編み上げる。これが、わたしたちが実存という言葉で呼んできたものの�意味�である。人間の〈欲望〉は、つねにすでに〈意味〉への〈欲望〉である。その限りで人間の〈欲望〉は幻想的なものであると言えよう。しかし重要なのは、この幻想的な〈欲望〉は、まさしくそれが生理的身体という�実質�に結びついていないからこそ、人間的なエロス性(エロティシズム)として成立するということだ。わたしたちはこの観点からのみ、〈欲望〉の超越論的本質を導くことができる。美論やエロス論は、死や不安という基底から出発できないのである(ハイデガーやバタイユはそうしようとしているのだが)。  D 幻想的身体[#「D 幻想的身体」はゴシック体]  素朴なエロス性は、生理的身体に孕まれている。常識的に考える限り、〈意味〉そのものはエロス性と対立するような概念である。しかし、先に見たように、人間の〈欲望〉は〈意味〉への欲望であり、しかもそれは〈快苦〉、〈美醜〉、〈よいわるい〉といった情動性をつきまとわせている。むろん、この情動性(感情的反作用)が、自己了解のうちに把握される意味連関に生じるのでなければ、〈意味〉が〈私〉にとって〈欲望〉の相関者であるといったことは決して言えないだろう。このことについてもうすこし考えてみよう。  たとえば、美しい異性や、美しい音楽に接したときに生ずる〈快〉(あるいは美の情動)は、〈意味〉に対する〈欲望〉とは言い難いように見える。しかし、美しいものに接したいという〈欲求〉は、生活世界の中では、必ず、それを所有したいとか、それを深く理解したいという形でのみ〈欲望〉を形成する。その可能性[#「可能性」に傍点]において〈欲望〉は自らを育て上げるのである。  よく知られているように、バタイユは、人間のエロティシズムを、美の侵犯[#「侵犯」に傍点]と定義している。エロティックな〈欲望〉とは、美しいもの(禁忌)を支配し侵犯しているという〈意識〉の中で告げ知らされる[#「告げ知らされる」に傍点]。これをもっと素朴に考えてみよう。たとえば革命を望む人間にとって、大きなストや、支配政党の選挙での敗北は、その事象(意味連関として存在する)それ自体に、一種の〈快〉を感じるであろう。彼はべつに、この事象の意味連関をたぐり、その〈意味〉がもたらす判断に基づいて、事象のよしあし[#「よしあし」に傍点]を決定しているわけではない。この場合明らかに、〈意味〉がただちに、〈快〉の情動を同時にもたらすのである。 〈快〉を身体に結びついたエロス的原理ととる限り、ここでは、奇妙な事態が生じているということになる。メルロ=ポンティは、こういった問題を、心身の相互浸透、や両義性という形で捉えようとした。だがわたしはむしろこれを、幻想的身体という形で考えてみたい。  カール・ポランニーは、人間の知のあり方には、言葉になし得ない深層の知と言うべきものがあるとして、それを次のような例で説明している。 [#1字下げ] 人間の知識についてあらためて考えなおして見よう。人間の知識について再考するときの私の出発点は、我々は語ることができるより多くのことを知ることができる[#「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」に傍点]、という事実である。この事実は十分に明白であると思われるかもしれない。しかし、この事実がなにを意味しているかを正確に述べることは簡単なことではない。一つの例をとりあげよう。我々はある人の顔を知っている。我々はその顔を千、あるいは一万もの顔と区別して認知することができる。しかし、それにもかかわらず、我々が知っているその顔をどのようにして認知するのかを、ふつう我々は語ることができないのである。そのため、この知識の大部分は言葉におきかえることができない。(『暗黙知の次元』)  この問題を次のように考えることができる。まず、人間は経験の中でさまざまなことを身につけるが(たとえば人間の場合、立って歩くことは、無意識のうちに�学習�されるもので、生来身体的に組み込まれているわけではない)、それが言葉(概念)を介せずに得られたものであるときには、明晰に語ることのできない[#「語ることのできない」に傍点]知として存在するということ。もうひとつは、顔の認知といった場合、この認知は、身体的な経験あるいは概念化の過程を経ないで、大部分を情緒の[#「情緒の」に傍点]反復可能性によっているということである。  典型的な例として音楽を挙げることができる。音楽の感動は口では言えないとよく言われるが、それは、音楽の受けとりは、本質的に情動による認知、感受であるからだ。わたしがある曲をほんの少し聴いただけの場合、今その曲が流れてきても、どこかで聴いたことがあるという形でしか、それを認知できない。しかし繰り返し聴いた曲ならその曲名を知らなくてもすぐに同定できる。またはじめの場合、曲の同定を、わたしは音の連なり、リズムなどの形によって同定するのではなく、そこから喚起される情緒性をたよりにしてそれを行なっている。つまり、この曲は、前に聴いたあの曲と同じ感じ[#「感じ」に傍点]がする、という情緒の反復の可能性が、曲の同一を妥当させているのである。  ポランニーは、「暗黙知」をわたしたちの身体が持っている隠された知の能力と見なし、身体や無意識がその構造を潜在させているかのように語るが、この発想はいくぶん構造主義的[#「的」に傍点]である。  もうひとつ例を置こう。たとえばスポーツの習熟といった場合、わたしたちはこれを意識的な過程として学習する。テニスのスイングを身につけるには、フォア、バック、フラット、スピン、スライス、ボレー、スマッシュなどの打ち方を、それぞれ習い覚えなければならないが、この過程は、理論と実技の経験を積み重ねてゆく、かなり高度な意識的過程である。  しかし、ここで注意したいのは、いったんそれが十分に身につくと、この経験の過程はいわば〈身体化〉され、実際のプレーでは、この過程はほとんど〈意識〉に浮かぶことがない、ということだ。選手の〈意識〉に現われるのは、次にどこに球がくるか、どういう組み立てで相手をゆさぶるか、といったことだけである。どんな有意識的なプロセスも、それを反復するうち、ひとつのゲシュタルトとして〈身体化〉される。そしてそれが〈身体化〉されると、これらのプロセスはいちいち〈意識〉に表象されない。  こういう概念的過程を繰り返しによって身につけてゆく機制を〈身体化〉と呼ぶとすると、次のようなことが言えるはずだ。つまり、たとえば歩行などのように無意識の過程で〈身体化〉されたものは、これを明証的に遡行し、概念(知)に言い表わすことができないが、テニスのプレーのように意識的な過程で(つまり言葉の秩序を介して)〈身体化〉されたものは、いつでもその〈意味連関〉として明証的に反復され得るのである。だがここで注意したいのは、こういう〈身体化〉の機制は、身体を介さない概念的な意味連関そのものについても生じるということである。  たとえばわたしたちは、「革命」といった概念を、さまざまな言葉の意味連関の中でつかみとる。この連関がよく把握されているほど、与えられた「革命」の概念をふたたび解きほぐして組み立て、自ら詳しく説明するということができる。しかし、ひとが「革命」という語をさまざまな文脈で用いるとき、一般に彼は、その意味の構成をそのつどすべて明瞭に〈意識〉に表象しているわけではない。そうではなく、むしろこのとき「革命」という言葉は、一種の価値づけ(エロス化)を帯びるようになるのである。  こうして、「革命は必ず成就する」という言葉や、「革命に有利な展望が開かれた」という事象の意味性は、それ自体である種の感性的〈快〉をもたらすものとなる。こういった人間の言葉における概念のエロス化という事態を、わたしは、〈幻想的身体〉と呼びたい。 「革命に近づきたい」、「神に近づきたい」、「美しいものを所有したい」という人間の〈欲望〉は、すでに見たように〈意味〉への〈欲望〉であり、したがっていわば幻想的な〈欲望〉にほかならない。しかし、この〈欲望〉は、あたかも身体のようにエロス化(感受化)されている。〈欲望〉の実現(あるいはその大きな可能性)は、あたかも身体が生理的な〈快〉を受けとるように、人間にとって幻想上の〈快〉をもたらす。またその逆の場合(苦)も同じである。そしてこの〈幻想的な身体〉にとっての〈快苦〉という現われを、わたしたちは、それぞれの性質に応じて、〈美醜〉、〈よいわるい〉、〈善悪〉、〈真偽〉というカテゴリーで呼び分けているのである。  人間の〈欲望〉は、生活世界内の意味連関のあや糸によって織り上げられた幻想的な布地である。その意味で、人間の〈欲望〉は大なり小なり観念の〈欲望〉であると言える。しかし、この観念はすでにエロス化され、そういうものとして世界に向き合っている。また、この観念の〈欲望〉のエロス性は、その由来をたどることができない。つまり、それは〈意識〉の明証性にとっては決して因果をたどれないものとして現われるのであり、またまさしくそのために、実存としての〈私〉をつき動かすのである。 〈欲望〉が現存在としての〈私〉にとって非在の(つまり実在を確証できない)中心であるために、人間はそのつど〈世界〉をエロス的な審級として妥当する。〈世界〉は決して単なる実在として存在しているのではない。それは必ずつねにすでにエロス的な〈意味〉として人間の前に開示されてきたし、そういうものとしてしか人間にとって存在しない。人間が〈実存〉として存在するとは世界とそういったエロス的関係として向き合っているということを、最も重要な前提として含んでいる。ただ〈世界〉を客観化し、実存を関係へ還元しようとする伝統的な形而上学の視線だけが、実在[#「実在」に傍点]と真理[#「真理」に傍点]としての〈世界〉の像を描きあげていたのである。 結び[#「結び」はゴシック体]  わたしは、現象学の構想の最も中心にある骨格を次のように考えている。  まず、わたしたちが世界を説明しようとすると、その方法は原理的にはふたつしかない。ひとつは、客観存在という前提から出発する道(実在論)と、もうひとつは、純粋に主観からはじめる道(観念論)である。このふたつの道のうちどちらかが正しいと考えてはならない。それはそれぞれの意味を持っている。実在論は、人間が実際に見聞きした経験則を集めて、そこから世界の全体像を推論し、描きあげる。この思い描かれた世界像は、人間の経験則と大きく食い違わない限り、人間にとって有意味[#「有意味」に傍点]である。これに対して観念論は、実在論の描く仮説がしばしば経験則と食い違ったり、また諸説の対立が解消されないことをどう捉え直すか、というモチーフを本質としている。実在論は、必ずひとつの仮説から[#「から」に傍点]出発するから、諸説が対立したとき、どれもその〈真〉を証明[#「証明」に傍点]できないのである。  観念論は、主観から出発することによって、要するに、諸説の仮説のもっとまえ[#「まえ」に傍点]にまで遡行し、なぜこの対立が現われたかを見ようとするのだ。こういった事情は、実在論と観念論にそれぞれの意義と限界を与えるはずである。  実在論は具体的な世界像を仮説として描いてそれを人間の生活の便宜にもたらすが、その像の〈真〉を自分自身では検証できない。観念論は、仮説の由来[#「由来」に傍点]をいわば反省してその〈真〉を確かめようとするが、具体的な世界像を描くことはない。  ところではじめに見たように、近代の諸科学は近代合理主義と実在論を土台として発達したが、当然諸説の対立と乱立をひき起こし、しかもその〈真〉を誰も検証できないということが生じた。このとき、認識や思想それ自体に対する大きな疑念がもたらされた。これをフッサールは、ヨーロッパ諸学の「危機」と呼んだのである。この場面で彼は次のように考えた。認識や思想に対するひとびとの信頼が揺らいだ理由は明瞭である。伝統的な学が、認識と世界の「一致」を真理性、確実性の唯一無二の根拠と見なし、しかも何ものもこれを証明[#「証明」に傍点]できなかったためだ。だから必要なことは、まずこの「一致」が決してあり得ぬこと(背理であること)、次に、人間にとっての真理性や確実性は、この「一致」からではなく、別の人間的地平からもたらされるものだということ、このふたつのことを、はっきりと理を尽して言うことだ。そして、この課題が問題である限り、その可能性は、主観への内省から出発する観念論の道にだけある。それが彼が「認識論の唯一の可能性は観念論にある」(『論理学研究』)と言うことの意味なのである。  さて、このフッサールのモチーフは、マルクス主義という巨大な実在論的仮説が潰えたあとのわたしたちの現在にとって、大きな意味を持っているはずだ。つまり、一方で新たな世界論上の(実在論的)仮説がいくつも現われ、もう一方で、強い懐疑論的風潮が流れている。このとき、フッサールが示したような内省の道を徹底し直すことは、人間にとっての認識や思想の意味や根拠を、新しく問い直すことを意味しているはずである。  ところで、〈欲望〉という概念は、ロジカルには、フッサールの「超越論的主観」という言葉を言い換えたものにすぎない。この言い換えはふたつの契機を持っている。ひとつはこの言葉が持っている、純粋でアプリオリな自我という、カント的な色彩を脱色するということ。そしてもうひとつは、〈主観〉は、世界と知的に関係しているのではなく、エロス的に関係しているということである。だから、わたしの言う超越論的欲望は、フッサールの超越論的主観を、認識論から実存論にそのまま位相変容したものにほかならない。 〈欲望〉が存在する[#「存在する」に傍点]、というのは、〈主観〉がある、〈意識〉がある、〈身体〉がある、というのとほぼ同じだが、それは超越論的にそう言えるのであって、実在論的にそう言われるのではない。  このことの意味をすこし言い換えてみよう。実在論は、わたしたちの現象世界から出発し、その欠損部分をなんらかの仮説で埋め、世界全体を説明する。つまり実在論は、まずあらかじめ経験則から、世界の見えない部分を推論し、全体の実在を仮説する。この過程は大なり小なり無意識的なものを含んでおり、またこの仮説に至る過程そのものは決して明示されない。実在論は、ただこの仮説から出発して世界の一切を演繹してゆくその過程を、論理的に示すのである。これに対して超越論は、いわばこの�自然主義的�仮説から逆に遡行して[#「逆に遡行して」に傍点]、いったいひとがどういう経緯を経て、この推論の確信を得たのか、ということを見てゆく。この遡行をつきつめた果てに、確信(確実なもの)一般が現われ出る因果関係の最後の地点が見出される。それがフッサールの「純粋意識」であり、わたしの言う〈欲望〉である。  これは、実在としての「〈欲望〉がある[#「ある」に傍点]」ということを意味しない。たとえば、人間が昨日というものを持つのは、思い出そうとする心の動きが生じ、思い出してみると確かに昨日こうしたという記憶が繰り返されるからである。これを、昨日が実在[#「実在」に傍点]したからその記憶が保存され再生されたのだ、と言うと、たちまちこの実在は言葉では決して証明し得ないものとなるのだ。すると、では超越論はいかにしてそれを証明するのかという反論があるだろう。これに対して超越論は、ものが実在するというのは、この明証性の反復という意識事実から人間が疑う余地のない確かなものとして構成した世界の像であり、この事実が続く限り、決して動かされ得ぬ世界の現われだ、と答える。そして、この実在をいかに証明するかという問いは、じつは単なる忘却の結果現われた転倒した問いにすぎない、と言うだろう。つまり、ひとは、何かが実在するという像(観念)を、まず[#「まず」に傍点]どこから得たのか、それは、明証性の反復という意識の事実が、長く積み重ねられた結果だからである。  わたしたちは、明証性の反復の事実が、実在の像をもたらした、ということを内省によって見る。しかし、なぜこの反復が生じたのかは、それ以上意識を遡行することができない。実在がそれを反復させたというのは、遡行でなく推論であり、帰納ではなく演繹だからである。こういう道を通って、超越論は、およそ客観世界の実在という場所から出発する認識の、論理的矛盾、対立、混乱を、一貫して了解することを可能にするのである。しかしそれだけではない。超越論のつきあたりを、単なる〈意識〉ではなく〈欲望〉として捉えるとき、わたしたちは、ロマン、エロス、美としての世界、という領域を、純粋理性、実践理性という二分法に陥ることなく、一貫して了解するような展望にはじめて踏み込むことができるはずである。  わたしはここで、その基礎的な輪郭を描こうとしたのだが、全体としては、客観化された世界観の転倒とその根拠を示すことに力点がかかって、人間の超越論的領域(ロマン、エロス、美、倫理)の展開に関しては、結局まだとば口にさしかかったところにすぎない。ところで、この超越論的領域の展望の要諦は、実存としての人間の意味を、あるいはその根拠を確かめようとする点にある。生を世界から捉えるのではなく実存から捉えること。このことは世界認識を拒否し、それをあざ笑うことを意味しない。世界を認識しようという欲望、つまり〈物語〉への欲望は、もともと虚妄なものではなく、それが実存の普遍性からもぎ離されるために虚妄なものとなるのである。超越論は、世界の〈真〉や〈客観〉を問うことは背理であると言う。超越論はただ、およそ認識すること、言葉によって像を結ぶことは、人間の実存的な生の要請からのみ、根拠を得ていると考えるのだが、この考えこそ、フッサールの現象学がはじめてわたしたちに示したものにほかならない。 [#改ページ]   ㈼ [#改ページ] ———————————————————————————— 世界認識のパラドックス ————————————————————————————      1[#「1」はゴシック体]  柄谷行人に関して、すでにある種のコノテーションが流通している。中心をずらすこと、あいまいであること、根拠を持たないこと、たわむれること、ディコンストラクトすること、不安にすること、移動すること。柄谷あるいは柄谷的なもの[#「柄谷的なもの」に傍点]について語られることは、大なり小なりこれらのコノテーションにむかって[#「むかって」に傍点]語られることだった。だが柄谷自身の言葉を借りるなら、それらは別にまちがいであるとはいえないにしても、もはや�退屈�である。なぜなら、柄谷的なものをめぐる意匠がどうあれ、現在彼が突き当っているのは、極めて明瞭な一問題にほかならないからだ。非中心化、脱=構築、テクスト理論等々はフランス哲学の意匠だが、別に柄谷のものではない。それらは彼がたまたま通っていった思想上の通路にすぎない。  批評家としての柄谷行人の功績は、西欧哲学の現代的な問題意識を極めて高い水準で理解して、そのまま日本の�文芸思想�の文脈に導き入れた点に求められよう。この西欧的問題意識の輸血は、いわばポスト〈戦後〉理念とでもいうべき状況的な意味を持っているが、いずれにせよ、文芸批評の文脈の中では、柄谷行人によってはじめて試みられたのである。たとえば吉本隆明と柄谷行人とを見比べてみるなら、前者にはよかれあしかれいかにも近代思想[#「近代思想」に傍点]の枠組が強く感じられる。柄谷の問題設定は、むしろ小林秀雄を経由して、西欧形而上学のそれに強く響き合っている。吉本を、日本的近代が必然的に孕み出す問題の一切を、極限まで追いつめようとした思想家であるとすれば、柄谷はむしろ、「近代」や「戦争」という問題の手前[#「手前」に傍点]で、自己という�奇妙なもの�から目を離せないでいる、「内向的」な思索家といった印象が強い。『畏怖する人間』や『意味という病』では、柄谷の自己の〈内面〉に向き合う深度が、ニーチェやハイデガーなどを呼び寄せているのだが、思想や問題に対するそういった態度こそ、まさしくポスト〈戦後〉的、ポスト〈近代〉的思想を象徴しているように見える。  だがここでは柄谷行人論をやろうというのではない。『隠喩としての建築』、さらに『海』に連載された「言語・数・貨幣」においていっそう追いつめられつつある、いわゆる柄谷的問題について考えてみることが、この文章のテーマである。しかし、たとえば、「ゲーデル的問題」とか「自己言及性《セルフ=リフアレンシヤル》」とか「決定不可能性」とか、はたまたいくぶんセンセーショナルに「パラドクシカル・ジャンプ」とか呼ばれるような諸問題の底を流れているのは、やはりおそらく、思想におけるポスト〈戦後〉あるいはポスト〈近代〉という問題にほかならない。  加藤典洋は『文藝』八月号(一九八三年)の柄谷論(「畏怖と不能」)で、「柄谷の批評は、そのようなものとして、イデーのテクノロジー化(非人間化、空間化)、テクノロジーのイデオロギー化として力をもつ」と書いているが、確かに思想というものの範形が、〈戦後〉的、〈近代〉的設定から脱皮(これは即自的には何ら積極的《ポジテイヴ》なことではあり得ない)したことを、このように言うことは可能だろう。実際、柄谷の文章は最近とみに、一種�機能主義�的になっているという感をうける。イデーのテクノロジー化を、もっと平らかに、諸思想の機能化、整合化、情報化と呼べば、彼の文章が、最新の西欧哲学、諸科学事情の高等なカタログのように読めてしまうことも事実なのだ。  しかし、諸学説のカタログがそのまままたひとつの�学�になっているという点では、山口昌男の方が先輩格だが、山口昌男の「思想」は、本質的には〈戦後〉的なものの枠組の中にあると言える。これに対して柄谷の問題の形は、おそらく、〈社会〉とか〈大衆〉とか〈戦争〉とかいう外部を一切白紙撤回するという頑なな懐疑の上に、〈自己〉と〈世界〉との相関だけが純化されて現われ出たものなのである。そして批評家としての柄谷にとって、このことだけが重要なのであって、イデーのテクノロジストといった彼の相貌は、むしろ付随的な問題なのだと思える。  柄谷の懐疑は、デカルト的なもの、つまりあらかじめゆきつくべきメタレベル(神——認識の確実性)を隠し持っているような懐疑ではなく、むしろ現象学的な懐疑だ。メルロ=ポンティは、現象学的還元の最も重要な教訓は完全な還元というものがあり得ないことを明らかにしたことだ、と言っているが(『知覚の現象学』)、メルロ=ポンティのつかみ方では、フッサールは、「最も基礎的なもの」を捉えようとしてそれがないことを逆証した、ということになる。この言い方は柄谷の次のような言い方と酷似している。 [#1字下げ] くりかえしていえば、このゲーデル的問題は、文学批評であれ、記号論であれ、一般システム理論であれ、「形式化」が本来的に「確実性」——建築《コンストラクシヨン》への意志に根ざしているがゆえに生じるのである。逆説的なのは、「確実性」の探求と建築が、その不可能性を証明してしまうことだ。(『隠喩としての建築』)  私は別に現象学と柄谷的問題の近接を強調しようとするのではない。だが、現象学のモチーフは、いわば〈世界〉という観念と裸形に向き合っている自己(=超越論的主観)という基本形を持っており、こういう問題設定が批評の文脈として内面化されて現われたところに、日本の�思想�的枠組の大きな転回を感じる。最近の�柄谷的問題�は、いわばますます〈世界〉—〈自己〉という円環の外部にあるものを削りとって、世界認識の「基礎論」だけで成立している。だがそのことの意味合いをはっきりさせなければ、はじめに述べたような柄谷的コノテーションはいっそう無為に流通しつづけることになろう。  私の感じでは、あれらのコノテーションは、柄谷行人が直面している問題をむしろ�緩衝�する安全地帯になっている。なぜなら、非中心化、ズレ、たわむれ、移動等々は、明らかに戦後的[#「戦後的」に傍点]諸理念の〈対項〉的言説として立っているのだが、この言説の優位は、その言い方[#「言い方」に傍点]から根拠を得ているのでなく、ただ時の勢い[#「時の勢い」に傍点]によって支えられているにすぎないからだ。だから、それらをことあげすることは、もはや言葉の経済[#「経済」に傍点](初期のバルトの言う政治的�エクリチュール�)に近づきつつあるのであって、テクスト派とか分析派とかいう言説の共同性への帰属を表示する�記号�にすぎなくなるのである。  たとえば柄谷自身は、自分は無知であることを知っているというソクラテス的論法が嫌いで、「知りうることは知るべきであり、はっきりできることははっきりさせるべきなのだ」(「リズム・メロディ・コンセプト」)と言っている。私が想い出すのは、「政治と文学」という�アポリア�を、ソクラテス的[#「的」に傍点]論法で泳ぎわたった平野謙以下の「近代文学」派のことだ。当時、「政治と文学」という対立項は、時代的な難問[#「時代的な難問」に傍点]だった(私たちはしばしばそれを嘲笑するが軽薄すぎる。なぜひとつの時代の中で最も困難なアポリアがひとつ現われるのか、なぜそれが容易に超え難いものなのかを考えてみるべきだ。それは現在でも全く変らない事態なのだから)。たとえば平野謙は、自分は過去に中野重治と小林秀雄から深い影響をうけた、人にはバカげたことにうつるだろうが、やっと覚悟をきめた、「ほかならぬこの二重性、中途半端性の裡にこそ」自分の文学的宿命がある、と書いている(「私は中途半端が好きだ」)。平野謙がとったのは、要するに、中野重治(政治)と小林秀雄(文学)という両極の「情熱」のあいだ[#「あいだ」に傍点]を生きることだった。私にはそれは、問題を、「はっきりさせる」のではなく、むしろ解決不可能(=アポリア)という相で存在させることによって、自身の文学的情熱を引き延ばすことだったと思える。  要するに、柄谷の周辺を行き交っているあれらのコノテーションは、決して問題を「はっきりさせない」で、後に見るように、やはり哲学的難問のうちを�たわむれる�のにすぎない。それと�たわむれ�ていることが可能なのは、難問とはそれ自身情熱[#「情熱」に傍点]の対象にほかならないからだ。そしてどれほど奇異に聞こえようと、アポリアの中で引き延ばされる情熱とは、私小説的な枠組の中での〈内面〉と、決して異なったものではあり得ないのである。      2[#「2」はゴシック体]  柄谷は『隠喩としての建築』を、世界を「制作」されたものと見るか、「生成」したものと見るか、というギリシャ思想の対立からはじめている。西洋哲学は世界を「制作」されたものという見方を伝統的にとったがそれは「非合理的」な思想であり、ニーチェ流に言えば、「生成の多様性・偶然性を肯定することのできない弱者のデカダンス」だったと彼は言う。つまりこのときヨーロッパ的知[#「知」に傍点]は、「自然の混沌」を直視するのを回避して、「神の制作」という観点によって、世界の意味を保全する道を選んだ、というわけである。  世界は神によって「制作」されていると考えることは、また世界は可知的秩序によって構成されている、と見なすことだ。近代諸科学は、この「信念」あるいは「信仰」の上に、世界についての完全な見取り図を作り上げようとしてきた。それは知によって世界をもう一度作り直そう[#「もう一度作り直そう」に傍点]とする意志にほかならず、これを「建築への意志」と呼ぶことができる。諸科学は数学の�厳密さ�にその基礎づけを求めているが、じつはこの�厳密さ�とは、ただ世界は可知的秩序によって構成されているという「信念」に基づいているだけで、数学そのものは、たとえば幾何学がよく示すように、点や線というあいまいなもの(感性的なもの)の上にたっている。十九世紀後半から、この基礎論の厳密さをとり返そうとするかのように諸学の形式化の試みが続くが(マルクス・フロイト・ソシュール・フッサール)、「逆説的なのは」、基礎論への厳密な要求こそが、むしろ�基礎の不在�を証し立ててしまうということだ……。  こういう立論から柄谷は、構造主義やサイバネティックスに代表される現代的知の様相を批判する。その仔細はのちに見るとして、柄谷の問題設定に底流するものを、懐疑論的な情熱と呼ぶことは可能だろう。懐疑論は世界史に遍在する情熱であって、ソクラテス、プラトン、アキナス、デカルト、カント、ヘーゲル、といった�世界認識�派は、必ず手強い懐疑論者と向き合っていたのである。懐疑論は、認識のあらゆる確実性につばを吐きかけ、神や普遍を、つまり絶対的[#「絶対的」に傍点]なにおいのするものを徹底的に拒否しようとする情熱である。近代哲学において最も徹底した懐疑論者は、おそらくヒュームでありニーチェであったろう。モンテーニュは懐疑論者について、「ゆすぶったり、疑ったり、尋ねたりするけれど、何事をも保証しないし、何事にも答えようとしない」と語ったが、しかし、モンテーニュの言い方にあてはまるのは、いつの時代にも無数に生み出される不徹底な懐疑主義者であって、こういう不徹底な懐疑主義は、当の徹底的な懐疑論者たちによって厳しく批判されているのである。  ところで、懐疑論はなにより整合的な世界認識を批判するのだが、この批判を最も大がかりに、かつ精密に仕上げようとしたのは、むしろあの道徳至上主義者カントだった。実際柄谷の仕事の印象にも、いくぶんカント的なところがある。なぜなら、マルクスやフロイトやソシュールなど、「形式化」をつきつめたひとびとは、要するに世界の模像[#「模像」に傍点]を立てようとしたのであり、これに反してカントは、ただ認識(理性)の可能性と限界だけを、固有の理論的な領域としているからだ。柄谷もまた世界の像を立てようとしない。カントがその限界[#「限界」に傍点]をひたすら規定しようとしたように、彼は認識の基礎[#「基礎」に傍点]を、あるいはその不在[#「不在」に傍点]を問うのである。  たとえばカントは、世界の「制作」と「生成」という問題を、もっと大がかりな仕方で論じている(『純粋理性批判』)。カントはまず、およそ理性にとって可能な問いは[#「およそ理性にとって可能な問いは」に傍点](こういう問題の立て方こそ、カントのカントたる所以なのだが)、三種類あるという。私とは何か(心理学)、世界とは何か(宇宙論)、神とは何か(神学)、がそれである。世界が「生成」したものか「制作」(カントでは「産出」)されたものかという問いは、宇宙論の一部とされている。カントは次のように答える。  理性の能力はとうていこの問いに答えることができないし、それを強行すると「避け難いアンチノミー」を招来するほかなくなる。なぜならば、もし世界が「生成」したものだとすると、われわれはある事象の原因[#「原因」に傍点]をどんどん遡って「生成」の起源を言う必要にさらされるが、それは不可能だから、世界が「生成」したと言い切ることはできない。また同様に、もし世界が「産出」(霊的な原理=自由=神によって)されたとすると、われわれは自然存在の究極目的[#「究極目的」に傍点]を、やはり起源に遡って言い切る必要に迫られるが、それもまた不可能だ……。  カントは、こういったほとんどうさんくさくなるような、しかし猛烈に徹底したやり方で、それまでの一切の「世界論」の議論の可能性を否定し尽してゆく。むろん、すでに明らかであろうが、世界を自然の混沌からの「生成」と見なすことさえも、厳密にはひとつの世界観[#「世界観」に傍点]にほかならず、カントにとっては批判の対象であった。  ところで、カントの生成—産出という世界理念の問題が自然法則としての世界に限定されているとはいえ、「産出」に対して「生成」、というよりむしろ、「混沌、多様なもの、現実それ自体、還元以前の所与性」を対置してみせることは、認識論の批判としては明らかに不徹底である。 『内省と遡行』、『隠喩としての建築』、『形式化の諸問題』と辿っていく柄谷の推移は、私には明瞭にこの不徹底のつきつめと見える。浅田彰は柄谷のこの道すじを「似たようなテーマを反復するようでありながら、少しずつみずからの『場所』をずらせていったんじゃないかと思います」(共同討議「マルクス・貨幣・言語」)と言っているが、柄谷的なもの[#「柄谷的なもの」に傍点]のコノテーションに導かれて語っているにすぎない。  テクスト理論に由来する「戦略的な」非中心化、ずらし[#「ずらし」に傍点]というコンセプトは、現象学を経由したポスト構造主義周辺のもので、西欧形而上学の根底的な二項対立性[#「二項対立性」に傍点]を超えようとして、イデア的—感性的、認識—現実、同一性—差異という対項を、遅延とか、ズレとか、たわむれという言い方で�置き換え�たものだ。しかし柄谷自身も言及しているように、この置き換えは、決して「満足すべきもの」ではあり得ない。もしそういう置き換えがほんとうに問題を解体したのなら、柄谷の作業そのものが無意味である(彼が西欧文化の単なる輸入業者でないならば)。  ところで、世界論の問題として「産出」と、「生成」の両方の「足場」をいったんつき崩すこと、カントにならえば、それは認識論批判の第一歩である。しかしカントにとってこのことはあらゆる世界論の確実な立場を解体することを意味するが、また同時に、人間の認識と�物自体�という対立項を強固にうち建てることでもあった。  たとえば柄谷は、『隠喩としての建築』第二章「自然都市」で、クリストファー・アレグザンダーの〈ツリーとセミ・ラティス〉という概念をとり上げ、ツリーが人工都市、セミ・ラティスが自然都市の構造に対応していることを紹介したあとで、結局、�自然そのもの�にいっそう近いセミ・ラティスの組織構造も、煎じつめれば「所与性を現象学的に還元することによって得られる」ところのものにすぎないとしている。 [#1字下げ] 問題なのは、この「単純化」である。セミ・ラティスがツリーの重合であるということは、いいかえれば、われわれが考える「構造」はどんなに複雑なものであってもツリー化をもとにしているということである。セミ・ラティスにおける多義性は、もともと一義化にもとづいている。つまりは、矛盾律にもとづいているということである。われわれが事物を明確につかむ方法としてはそれ以外にないといってよい。だが事物がそのような構造をもっているという保証はない。のちにのべるように、それはまったく「信仰の問題」である。要するに、ツリーだけでなく、セミ・ラティス構造もまた、ヴァレリーのいい方でいえば、「自然がつくったもの」よりつねに単純なのである。  アレグザンダーのセミ・ラティス、ヤコブソンの二項性に基づく音韻論、レヴィ=ストロースの構造、ラカンの象徴的なものと想像的なもの、これらのものは「形式化」への欲望(=建築への意志)なのだが、しかし決して「事物」そのものには達し得ない、と柄谷は言う。同じことを、カントは「物自体」という言い方で示している。  カントの「物自体」という概念は、一般には超越論的な実在世界(可想界)の想定であるとして批難されている。しかし、のちに「自由」および「ゾルレン」の世界へとすり換えられてしまうとはいえ、この概念のはじめの現われ方は全く論理的なものである。「ところでかかる無条件者[#「無条件者」に傍点](物自体[#「自体」に傍点]あるいは世界全体[#「全体」に傍点]—引用者註)は、常に系列の絶対的全体[#「絶対的全体」に傍点]にのみ含まれている。そして我々はかかる全体を想像によって思いみるのである。しかしこの絶対に完全な綜合はこれまた一個の理念にすぎない[#「一個の理念にすぎない」に傍点]……」(『純粋理性批判』「先験的弁証論」—傍点引用者)。人間が物[#「物」に傍点]をどのように捉えようと、その捉え[#「捉え」に傍点]は、経験や感性という枠組のうちがわにおいてでしかあり得ない。物自体[#「物自体」に傍点]とは、人間のこのような経験の背後に浮かぶ「一個の理念」にほかならない。カントはこの「物自体」を、それ自体超越的に存在するような実在なのでなく[#「なく」に傍点]、一個の「限界概念」なのだとも言っている。  要するに、カントの「物自体」という概念は、世界の全体[#「世界の全体」に傍点]とか、物[#「物」に傍点](=事物[#「事物」に傍点])それ自身[#「それ自身」に傍点]とは、一種の「信仰」(私の感じではむしろ「信憑」と言うのがよいように思える)であるという見方にほかならない。むろんそう言いはなってしまえば、懐疑論、不可知論、独我論を避けることは不可能になる。そこでカントは、あらかじめ、経験的自然法則(ザイン)の世界と、自由、真理、道徳(ゾルレン)の世界(=物自体の世界)を峻別しておいて、経験世界の法則性の客観性だけを保全するのである。  ともあれ、柄谷的問題は、まず認識(知の秩序)と現実それ自体(知られるものの秩序)という、西欧哲学において最も根本的とされたあの対立項をもう一度くっきりと輪郭づけるのである。それはデカルト的世界観とイギリス経験論、ヘーゲルとニーチェ、マルクス主義世界観と現象学、という対項の中で繰り返し演じられてきたようなプロブレマティークなのだ。  たとえばヘーゲルは、カントの認識—物自体という対立項を一元的に�止揚�することによって登場したが、そのことによってもう一度、世界の全体性に関する真理が存在するという確信(「信念」)をうちたてる。これに対してニーチェは、真理は存在しない、権力への意志があるばかりだと主張する。これをもっと煎じつめれば、世界は客観的に(主観に先立って[#「先立って」に傍点])存在するという言い方[#「言い方」に傍点]と、世界は主観(その眼差し)においてはじめて存在するという言い方の対立だと言える。フッサールが出発点とした、理念的なものと感覚的なものの対立項も、むろんこういう形で言い換えることができるし、ハイデガーの存在論的差異[#「差異」に傍点]というのも、じつは同じ問題から現われたものである。  私の考えでは、この西欧哲学の根底的なアポリアは決して「はっきりさせられ」ないまま強固に生き延びている。現代的な知はますます精密化してゆくが、それをつぶさに見ていくと、どの分野でもその基底に全く同形の�アポリア�が、あたかも西欧的な知における固有の反復強迫のように沈んでいる。柄谷行人が見てとったのはそういう事態にほかならない。彼はおそらく、構造主義—記号論だけでなく、ポスト構造主義者たちに対しても苛立っているのであり、その理由は、構造主義—記号論—ポスト構造主義という潮流が、現象学の中で最も徹底して行なわれたあの対立項(アポリア)の乗り越えの試みを、どこか奇妙なところへ�ずらし�込んでしまったように見えるからだと思える。たとえば彼は「言語・数・貨幣」第二章で、「フッサールの現象学が、構造主義によってのりこえられたなどというのは、救いがたい誤解である。すでにのべたようにフッサールの現象学は、終始『数学の危機』に関連するものであり、その論理主義的基礎づけに向けての、しかし暗黙に基礎の不在を逆に照明してしまうほどの徹底した企てであった。このことは現象学者によってはほとんど理解されていない。もしそれが理解されていたならば、現象学—構造主義への批判も、べつのかたちをとりえただろう」と述べている。私の考えでは、西欧哲学のあの根底的(とされる)アポリアは、現象学(フッサール)—ハイデガー—メルロ=ポンティという流れに問題の中心が継がれたのであって、構造主義—ポスト構造主義は、いわばニーチェ的情熱を輸血することで、むしろマルクス主義世界観の普遍主義、歴史主義、倫理主義、主体主義を脱色する方向に力点がかかったのだと思える。  ところで柄谷行人に戻るならば、彼はいわばずらされて[#「ずらされて」に傍点]しまったあのアポリアを、もう一度正面切って問おうとする。つまりそこでは、認識—現実という対立項を「一致」させるなら、世界の普遍的な客観性が現われ、この対立を全く超え難いものと見なすなら、全くの懐疑論が浮かび上がる。こういうアポリアは、しかし、一体どこから現われ、どこへ消えるべきものなのか。      3[#「3」はゴシック体]  まず「ゲーデル的問題」を見よう。「すべてのクレタ島人はうそつきであると、一人のクレタ島人がいった」というエピメニデスのパラドックスがあって、この場合「真偽は決定不可能」とされる。それが自己言及的《セルフ=リフアレンシヤル》と言われるのは、言っている本人が、自分自身を含めた対象に対して主体の立場に立っているということだ。  ラッセルは、ロジカル・タイピング(論理上のクラス付けを行なって、異なったクラス同士がひとつの論理の中で交じり合わないようにすること)によってこの決定不可能性を回避しようとするが、ゲーデルは、この回避のためのロジカル・タイピングを逆につきつめてゆくと(真偽の決定を可能にするメタレベルの設定をどんどん重ねてゆくと)、結局円環構造をなして、基本的にははじめの自己言及的体系に戻ってしまうことを、ラッセル・ホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』を下敷きにして�証明�してしまう。ここで柄谷の言葉をひいておこう。 [#1字下げ] 結論を先にいうと、ゲーデルの定理は、どんな形式的体系も、それが無矛盾的であるかぎり、不完全である、ということだ。(略)不完全性の定理は、また、いいかえれば、ある形式体系がコンシステントであるとしても、その証明はその体系のなかでは得られないこと、それ以上の強い理論を必要とすることを意味している。(「隠喩としての建築」)  要するに、論理的な形式体系を持つものは、その基礎(根拠)を追いつめてゆくなら、円環構造をなして決して最終的根拠にゆきつけないということである。じゃんけんのグー・チョキ・パーは円環構造をなしているし、だまし絵によく見る、のぼってものぼっても頂上に着かない階段も円環構造をなしている。これらの場合、どれが最も強くどこが最も高いかは決定できない。ゲーデル的問題を乱暴にたとえてみればそういう感じになる。  柄谷はこういう最終的な根拠の不在という問題が、現代的知のあらゆる分野に遍在するものであることを指摘する。だが一体この決定不可能性という問題は、どこから現われ、また何を意味するものなのだろうか。柄谷は以後、この「ゲーデル的問題」を言語学、数学、貨幣論(経済学)の基礎論[#「基礎論」に傍点]の問題として展開するが、ここではとくに言語の問題をとり上げて考えてみよう。 [#1字下げ] たとえばメタファーという語の意味が大きく変わったことは事実である。が、その変容それ自体がメタフォリカルである。そうなると、もはや「メタファーとは何か」と問うことができるような超越的な、外在的な立場は最終的に存在しえない。つまり、われわれはメタファーの外に立つことができない。だが、そのことがメタファーという問題の核心なのである。(同前)  メタファーとは何かと問えば、たとえばリテラル(字義どおり)ではないものという�定義�が可能かも知れない。しかしよく考えてみるなら、このような�定義�がすでにメタフォリカルであることが判る。メタファーとは何かと問うてみれば、次にリテラルとは何かと問わねばならず、結局最終的な定義にいきつくことがない。柄谷が言わんとするのは大体そういうことだ。しかしもうすこし進んでみよう。  メタフォリカル[#「メタフォリカル」に傍点]に言えば、メタファーとは、いわばロジカル・タイピングによる禁止の�侵犯�であろう。つまり、論理的形式の無矛盾性《コンシステンシー》のうちではメタファーは生じない。しかしじつは、このリテラルなものに対する�侵犯�がなければ、人間は、ある言表によって意味[#「意味」に傍点]を生じるようにすることができない。なぜなら、ゲーデルをもじって言えば、ある形式体系が一貫した意味を持つことは、「それ以上の強い理論」によってはじめて「証明」されるからだ。むろんこういう言い方はわざと反転させたものだが、要するに、リテラルという考え方をつきつめてゆけば、それだけでは〈意味〉が不可能であることを、この問題はパラドクシカルに表わしている。  柄谷はたとえば、「人間は草だ」という言表をとり上げて、この言い方は認識を要求するが、最終的解決を示さない、メタフォリカルな言述の特性は、「解決できないにもかかわらず解決を要求する[#「要求する」に傍点]というところにある」と書いている。そしてそれは、メタファーは「直喩とちがって」、決定不可能性を残すのだという見方につながってゆくのだが、しかしじつは、直喩であれ、また、リテラルであれあるいはパロールに対するラングであれ、またバルトの言うコノテーションに対するデノテーションであれ、およそ言語的な形式体系は、むしろすべてこの決定不可能性の要素なしには〈意味〉を生じないと言えるのである。だがそれはなぜだろうか。  言語学は、なぜ〈意味〉が発生し交換されるのかを最も中心のテーマとしてさぐろうとするが、一切の近代科学がそうであるように、まず、人間の言語行為の総体を経験則として寄せあつめて、それを体系化(形式化)するという方法をとる。そしてここから、言語的諸形態と意味発生の間に存在するはずの厳密な法則性を発見できれば、最終の目的が達せられると考える。しかし重要なのは、たとえば物理学のような自然科学と違って、言語においては、決してそこに恒常的な法則性を見出すことができない[#「できない」に傍点]ということだ。ソシュールが言語学を通時言語学と共時言語学に大別したのは、言語的形態と意味発生のあいだには厳密な法則的対応が存在しないことをうすうす気付いていたからであって、決してほかの理由であり得ない。  柄谷は丸山圭三郎の『ソシュールの思想』を論じた「言語という謎」で、ソシュールは、たとえばシニフィエ—シニフィアンという二項対立が構造主義言語学や記号論に与えた影響によって、近代言語学の�先駆者�として評価されているが、それはむしろソシュールの本領ではあり得ない、「重要なのは、ソシュールが何を書いたかではなく、なぜ本を書かなかったかということ」のほうだ、と書いているが、私はこの言い方をよく了解できる。ソシュールが企てたのは言語の科学[#「科学」に傍点]だが、おそらくソシュールが体系を深めれば深めるほど、彼はその不可能性に気付いていったのである。その理由は全く明らかであって、自然科学と違って、言語においては、厳密な法則性は決して存在し得ないからだ。ソシュールはこの法則の不可能性を、共時言語学と通時言語学という分割によって、つまり、いわば刻々と新たな言語の体系が、古い体系の層の中へ生み出されるが、この体系の変化には別に必然的な法則はない[#「必然的な法則はない」に傍点]という考え方によって、処理しようとした。しかし、この分割だけではあの事態を体系化[#「体系化」に傍点]することはできない。言語の共時的体系を想定しても、この共時的体系そのもののうちで法則の不可能性が露出してくるからである。こうして、さらにラングとパロールという分割が要請される。それらの分割は、語というものが、法則性として体系化された途端そこからズレてゆくような性質を持つものであることによって必然化されてくるのである。柄谷行人が直観しているように、ソシュールはむしろ言語の形式化の不可能性を追いつめていったのであって、ヤコブソンや現代記号論とは全く逆の方向を向いていたのである。しかしまた、このことは別にテクスト理論といったものを補強するものでも決してあり得ない。  私たちはここで、メトニミーに対するメタファー、ラングに対するパロール、デノテーションに対するコノテーションというものを、形式化、体系化されたもの(=認識されたもの[#「認識されたもの」に傍点])と〈意味〉発生それ自体(=事物そのもの)とのズレ[#「ズレ」に傍点]に対して与えられた言い方であると考えることができる。しかしこのズレは、言語事実が体系化(認識)されようとした瞬間生じるものであって、したがってこのズレが〈意味〉を生んだという言い方は、あらかじめ反転させられた(つまり倒錯した)ものにほかならないのである。もっと違ったふうに言ってみよう。  たとえばメルロ=ポンティは、『行動の構造』の中で、人間的な「行動」のあり方を次のように言い表わしている。 [#1字下げ] 人間を定義しうるものは、生物学的自然の向こう側に第二の〈自然〉——経済的、社会的、文化的自然を創造する能力なのでなくて、むしろすでに創造されてある古い構造を超出して別の〈構造〉を創出する能力である。  メルロ=ポンティが『行動の構造』でゆきあたったのは、�人間的�行為をどれほど分析(形式化)しても、決してその最終的な意味に達することはできないという問題だった。なぜ〈行動〉があるのかを、物理、生理的連関をどれほど精緻に追って�構造化�しても、結局は構造化され得ないへその緒のような一点がある。そういう「すでに創造されてある古い構造を」絶えず超出してゆく[#「超出してゆく」に傍点]能力こそ、人間の行動の特質をなすものだ、と彼は言うのだ。 〈行動〉とは何か、と問うことは、じつは、なぜ〈意味〉が発生するかと問うのと本質的に違ったことでない。なぜならこの問いは、なぜもの[#「もの」に傍点]やこと[#「こと」に傍点]が存在するのか、という存在論的な問いを不可欠とするようなものにほかならないからだ。カントが洞察していたように、自然科学は、結局は人間の経験則を寄せあつめて原因と結果の間に法則性を見出し、そのことによって目的を終える。ここでは、ものやことはいかにあるか[#「いかにあるか」に傍点]、を問い、それを客観化(普遍化)するだけだ。しかしなぜものやことが存在するか[#「なぜものやことが存在するか」に傍点]という問いは、存在の意味[#「意味」に傍点]にかかわっている。  たとえばハイデガーが、「存在者」は明らかだが、それを規定する「存在」は最もあいまいな概念であり、かつ定義不可能である(『存在と時間』)、と言うとき、要するに彼は、〈ある[#「ある」に傍点]〉ということは一体いかなることか[#「ということは一体いかなることか」に傍点]、と問うているのである。この問いこそ意味の発生に相関する。つまり、なぜ意味が発生するか、とは、「存在者を存在者として規定する当のもの[#「当のもの」に傍点]」(ここで存在者とは、事物存在のことである)、つまり「存在」とは何かという問いと、ぴったりと重なっているのだ。  言うまでもなく、人間の言語を経験則として収集し、それを構造化(体系化)しようとするのは、人間の行動[#「行動」に傍点]を、「存在者」(=事物存在)の重層的構造として捉えようとすることと全くパラレルであり、それは原理的に不可能なのである。なぜなら、この試みは、現実そのもの[#「そのもの」に傍点](=物自体)と、「存在者を存在者として規定する当のもの[#「当のもの」に傍点]」(=認識)との「存在論的差異」を、一気にとび越えて(無視して)しまうことだからである。      4[#「4」はゴシック体] 「言語・数・貨幣」の第二章で、柄谷は、言語は差異の体系であるというソシュールの言い方について、次のように書いている。 [#ここから1字下げ]  ソシュールは、言語には積極的辞項を欠いた差異しかないといった。だがわれわれは、もはや項をもたない関係や、同一性を前提としない差異を考えることができない。それは、われわれの意識の明証性(現前性)においては、一つの差異[#「差異」に傍点]体系が形成され自己差異性がすでに隠蔽されているからである。右のようにいうとき、おそらくソシュールは現象学的還元によって得られる差異体系(ラング)よりも、さらに向うを見ようとしていたといってよい。  自然言語はたんに差異的体系なのではなく、自己差異的な差異的体系である。それは、言語がいつもすでに言語について[#「について」に傍点]の言語であるというのと同じことである。(「ゼロと超越—代数的構造」) [#ここで字下げ終わり] 「自然言語はたんに差異的体系なのではなく、自己差異的な差異的体系である」。この言い方は、たとえば、メルロ=ポンティふうに、人間は単なる〈構造〉なのではなく、古い〈構造〉を超出してみずから新たなそれを絶えず創出するような〈構造〉なのだ、と言い換えることができる。それらは全く同じ本質を持ったことがらなのだ。しかし後に見るように、このことは決して人間の「自由」を逆証するような問題ではあり得ない。むしろそういう考えは、まさしくカントがとったものにほかならなかった。  柄谷の、自然言語が自己差異的[#「自己差異的」に傍点]な体系だという言い方には、いくぶんデリダ的な響きが漂っているかも知れない。しかし私たちはここで、ソシュールの言う「差異」とは一体どういうことだろうか、と問うてみよう。たとえばソシュールはまず、シニフィアン—シニフィエという分割からはじめている。私の考えでは、このソシュールの出発点は、それ自体、言葉とは何かという問いに対するメタフォリカルな答えの性格を持っている。シニフィアン—シニフィエとは、いうまでもなく、あの認識されたもの—事物それ自体、という対項に相関しているのだ。つまり、それが発された瞬間に人間のものごとに対する実践的関係が、認識[#「認識」に傍点]と事物それ自体[#「事物それ自体」に傍点]とに分極化されてしまうようなもの、おそらくそれが、言葉とは何かという問いに対するソシュールの直覚であった。だがこの出発点はまた、ソシュールの言語学の終着点でもあった。なぜなら、この言い方は、あの認識—現実、概念—対象というアポリアが、まさしく言葉によって不可避のものとなっていることをよく示しはするが、〈意味〉そのものの根拠[#「根拠」に傍点]を決して示しはしないからだ。ソシュールはここから、なぜ〈意味〉が可能なのかを、言語体系の形式化によって問いつめてゆくが、それによって析出されるのはただ、言語間、概念間の「差異」だけであり、そうである限り、もし〈意味〉とは何かという問いを強行すればそれは「差異」に求められるほかないことは、全く明らかなのである。だがすでに述べたように、それは究極的には不可能な試みにほかならない。 「形式化」のうちがわ[#「うちがわ」に傍点]では、私たちはそれ(意味とは何か)をただ、たとえば弁証法的運動といい、差異といい、ズレといい、たわむれという形で、言い表わしてみるほかない。丸山圭三郎はたとえばソシュールの考え方を要約して次のように書いている。 [#1字下げ]……シニフィエの面においてもシニフィアンの面においても、その価値を担うものは観念とか音自体でないとしたら、それは何か。答は、「言語には差異しかない」という一言につきるのである。意味を担うものは、語の持つ概念ではなくして、概念と概念の間の差異であり、聴覚映像と聴覚映像を区別する差異である。(『ソシュールの思想』)  しかし、じつは次のように言わねばならない。言語を全体的な形式体系《システム》として考察する限り[#「考察する限り」に傍点]、どれほど掘り進んでも、諸系列間の〈差異〉以外にはなにも出てこない。それが「言語には差異しかない」ということである。ところが、そうであるからといって、差異の[#「差異の」に傍点]〈システム[#「システム」に傍点]〉が意味を発生させるのではない[#「が意味を発生させるのではない」に傍点]。このパラドックスが、まさしくあの「ゲーデル的問題」や「決定不可能性」につながっているのである。  私は、ソシュールがそれをほとんど気付いており、それがゆえにアナグラムの研究に身を入れたり、また学問的には沈黙を守ったのだという柄谷の�憶測�を意味あるものだと思う。むろんアナグラムとは、差異の系統的体系(=ラング)による法則的な意味発生という仮説を、絶えず無効にするような意味発生の現場[#「現場」に傍点]にほかならないからだ。柄谷は丸山圭三郎を批判して次のように書いている。 [#ここから1字下げ]  丸山氏は「形相としてのラング」、「規範としてのラング」、さらに「実質としてのパロール」といった階層を「構成された構造」とよび、「生産活動としてのパロール」を「構成する構造=主体」とよんで、すでにいったように後者すなわち「構造の産物である人間の真の自由とは何か」という問題に、ソシュールの「根本的なテーマ」を見出すのである。  私もまたこの「自由とはなにか」という問いを引きうけよう。しかし、「自由」を、「構成する構造=主体」のレベルに突然見出すのは、結局サルトルに戻ってしまうことである。(略)  言語活動の創造性・生産性を重視し、そこに人間の「自由」を見出すべきだというのは、あまりにも近代的な偏見である。そうではなく、言語活動が、そうであるまいと努めても、「惰性態」としてのラング・パロールを変容してしまわざるをえない[#「しまわざるをえない」に傍点]ところに、いわば人間の「自由」がある。つまり、人間をサイバネティックス機械(構成された構造)としてみていくとき、いきなり人間は機械ではないと主張しても無駄なのであって、なぜいかにして人間機械がいわば狂わざるをえないかを、論理的に考察すべきなのである。(「言語という謎」) [#ここで字下げ終わり]  丸山圭三郎の「構成する構造=主体」という言い方には、明らかにメルロ=ポンティの影が滲んでいよう。しかし、柄谷が言うとおり、そこに「自由」を見ることはあのパラドックスをロマン主義のうちに回避することである。だが、それに対して、言語活動が「そうであるまいと努めても」、「惰性態」としてのラング・パロールからズレてしまうところに人間の「自由」がある、と言うのもまだ不徹底である。 「惰性態」としてのラング・パロールとは、言語を全体的に一貫した法則体系[#「法則体系」に傍点]として把握(=認識)しようとした瞬間に�構造化�される概念である。そして、繰り返し言うように、〈意味〉の発生は、この法則体系の内部では決して解明されない。それは〈意味〉が発生し、交換されたことを、結果として、つまり歴史主義的にあとづけ[#「あとづけ」に傍点]得るだけだ。そしてこのあとづけは、言語の法則体系としては、言語の分節された諸系列間の〈差異〉によって説明するほか、どんな手だてもないことは全く明らかである。しかし、形式主義者たちは、この差異の〈システム〉こそが〈意味〉を生む原因[#「原因」に傍点]だと主張するのだ。  ニーチェは、ある生理的器官の現在の効用をどれほどよく理解しても、それはその「発生」の理解とはなんの関係もないと言う。丸山圭三郎の言い方は、いわば差異の〈システム〉の不自由さ(抑圧性)を、人間の「自由」が越え出ることによって〈意味〉を生む、というのに近い。しかしこういう言い方も、結局形式主義者たちと同じで、現在の効用[#「効用」に傍点](結果)から発生[#「発生」に傍点](原因)を説明してしまっているのである。だが、もうすこし違うふうに言い換えてみよう。  たとえば指を針でつつけば痛いだろうが、それがなぜ〈痛み〉を発するかを説明するのは容易でない。あらゆる形式主義は、組織や神経や反射や伝達の�構造�を思い描き、生理的な〈システム〉とそこに投ぜられた刺激が〈痛み〉を生む[#「生む」に傍点]のだと主張する。しかし生理的〈システム〉は、もしそれがなければ〈痛み〉が生じないような条件であるとしか言えない。ベルグソンさえもが、頭脳とコンピューターのたとえを使って徹底的に批判したように、この説明は決して痛みの本質に届くことができない。  ベルグソンは、考えられる限り精緻なコンピューターによって頭脳の模型を作り上げたとしても、結局それらには物理的な物質連関的連鎖[#「物質連関的連鎖」に傍点]が存在するにすぎず、人間的な〈意識〉を生むことは決してできないと言う。全く同様であって、組織や神経や刺激や反射や伝達という構造の要素をどれほど重層的にモデル化しようと、そこにもまた、物質連関的連鎖が存在するだけで、〈痛む〉とは一体どういうことか、という問いは全くそのまま宙に浮いてしまうのである。  言語学が、生理学におけるような�ゲシュタルト�の代りにいわゆる「差異のシステム」を構造化[#「構造化」に傍点]するのは、そこには、生理、物理的な質的重層構造ではなく、ただ、音や文字形式上の「差異しかない[#「しかない」に傍点]」からだ。だがむろんそれらは全く同じことでしかあり得ない。つまり、〈意味〉や〈痛み〉という�人間的�事実を�構造化したり��体系(システム)化�したりした瞬間、それらの本質は必ず抜け落ちてしまうことになる。逆に言えば、人間的事実を形式化[#「形式化」に傍点]するや否や、必ず、全く不可避に、分析不可能[#「分析不可能」に傍点]なある一点が生じてくるのである。      5[#「5」はゴシック体]  人間を「サイバネティックス機械」として見てゆく限り、人間は機械としては「狂わざるをえない」という柄谷の言い方は、ここで見てきたような意味で全く正確であると言える。しかし、それを「論理的に考察」するとは、むろん、もはや「形式化を徹底」することではあり得ない。〈痛む[#「痛む」に傍点]〉とは一体どういうことかという問いは、〈ある[#「ある」に傍点]〉とは一体どういうことかという問いと全くひとつであって、私たちはそこで必ずもう一度�存在論的な問い�に立ち戻る必要があるのだ。  たとえばハイデガーは、現存在(人間的存在)の存在(ありよう)は「気遣い」という概念によって示されると言う。「気遣い」とは、人間が、絶えずまわりの諸対象に対して、ある関心や欲望を向け、また明確な関心や欲望以前にすでになんらかの「気分」を持っているといったことである。この「気遣い」という概念は、ハイデガーが、フッサールの「志向性」という概念から承け継いだ、実存論的存在論の全世界像をつり支える要の概念にほかならない。彼は次のように書いている。 [#1字下げ] 「気遣い」という表現は一つの実存論的、存在論的な根本現象を指さしているのだが、この根本現象は、それにもかかわらず、その構造において単純ではない[#「単純ではない」に傍点]。気遣いの構造の存在論的に基本的な全体性は、なんらの存在的な「根源的要素」には還元されえないのであって、これは、存在が存在者から[#「存在が存在者から」に傍点]「説明され[#「説明され」に傍点]」えないのと同じく[#「えないのと同じく」に傍点]確実なことなのである。(『存在と時間』第一篇第六章—傍点引用者) 「存在が存在者から説明されえない」とは、〈痛み〉や意味が、存在連関的連鎖によって決して析出されないということにほかならないのはいうまでもあるまい。重要なのは、「気遣い」という概念が、存在的な「根源的要素」に還元されえない[#「還元されえない」に傍点]ということであって、それは、形式化によっては、�分析不可能�なのである。つまり、なぜ〈痛み[#「痛み」に傍点]〉があるかという問いは、本質的に[#「本質的に」に傍点]メタフォリカルな形でしか答えることができないものなのである。  たとえば人間の〈知覚〉を形式化しようとすれば、必ずまず刺激—受容—伝達という系[#「系」に傍点](A—B—C)があり、〈意識〉がそれをうけとめると、今度は伝達—反応—行為(反応の現実化)というD—E—Fというもうひとつの還路の系[#「系」に傍点]が立てられる。どれほど体系が複雑化されようと、こういう系は全く基本的なものだ。カントがいうように、このA—B—C、D—E—Fという系は、必ず物的連鎖であり原因—結果という概念においてつかまれる。しかし人間の〈知覚〉の構造は、いわば脳髄の奥底で、この系の連鎖が辿れなくなる一点Pが現われる。このPをカントは「自由」の領域と見なすのである。だがこれを「自由」と呼べば、自然世界(ザイン)と道徳世界(ゾルレン)の二項対立が復活する。このPは人間の「自由」を照らし出すものではない。その言い方は本質的にトートロジーなのだ。むしろ、まさしくこのPという「地平」こそがA—B—C、D—E—Fという物質連関の構造化を要請[#「要請」に傍点]し、存在者を存在者として「規定する当のもの」なのである。それを単に分析不可能な中心[#「分析不可能な中心」に傍点]とだけ言えば、記号論におけるゼロ記号のように見なされるであろう。だから、私はそれをむしろ�欲望という中心�と呼ぼうと思う。なぜそれを〈欲望〉と呼ぶかといえば、このPは、単に形式上[#「形式上」に傍点]分析が不可能な地点というだけではなく、逆に、この欠落としての中心こそ、絶えず「存在者」(もの・こと)の形式化を要請するような原理[#「原理」に傍点]にほかならないからだ。〈欲望〉とは、簡単に言って、そこにおいてはじめて、さまざまな「存在者」の存在が問題となる[#「問題となる」に傍点]ような境位《エレマン》である。もの[#「もの」に傍点]の世界が現存在にとって「道具連関」として現われるのは、人間[#「人間」に傍点]が、さまざまなレベルで〈欲望〉を持つからだ。この欲望をメルロ=ポンティ流に〈知覚〉と呼ぼうと〈身体〉と呼ぼうと、ハイデガーのように「気遣い」と呼ぼうと同じことである。ただこの分析不可能な中心を〈意識〉と呼べばコギト主義を孕むし、また単に〈身体〉というとフッサールの言う�志向性�のニュアンスが削がれてしまう。それは、「事物[#「事物」に傍点]」一般が客観的に存在する[#「一般が客観的に存在する」に傍点]という、ごく普通の世界像(これはいわば人間の原信憑[#「原信憑」に傍点]なのだ)を現象学的に「還元」することによって得られるものであって、逆に言えば、なんらかの固有の〈欲望〉がはじめて「事物」に固有の〈ある[#「ある」に傍点]〉という規定を与え、さらに、この固有の〈欲望〉にとっての固有の〈ある[#「ある」に傍点]〉が、客観化され、共同化され、普遍化されることによって、「事物一般の客観的存在」という「世界像」が人間のうちに形成されることになるのである。 [#挿絵(img/fig4.jpg、横200×縦237)]  この固有の〈欲望〉にとっての固有の〈ある〉が共同化され普遍化されるのは、むろん人間がその〈欲望〉を交換し合わねばならないからであり、ハイデガーはこの事態を「頽落」とか「世人」という概念によって言い表わそうとするのである。  だが、私は、ここではこれ以上この問題を展開することはできない。しかしながら、言語学的体系と〈意味〉発生におけるアポリアに関して言えば、ひとつのことは明らかになる。つまり、それは、あの「ゲーデル的問題」とか「自己言及性」とか言われる問題は、諸学が、形式化においては決して分析し得ないものを、むりやりに形式化(構造化)することによって現われるのだ、ということである。いまわかりやすい例をあげると、たとえば柄谷は自己言及的《セルフ=リフアレンシヤル》なパラドックスの一例として、エッシャーのだまし絵において、図と地とが見ようによって逆転し、決定不可能であることをとり上げている。論理的(形式的)に言えば一枚の絵の図柄で、どれが地(メンバー)でどれが図(クラス)であるかを決定する根拠はどこからもやってこない。しかしたとえときに「逆転」させて[#「させて」に傍点]見るにせよ、人間は絶えず地と図を決定して[#「決定して」に傍点]絵を見ている。二つのかいば桶を前に「決定不可能」に陥って餓死するロバの話があるが、現実にはそういう状況で餓死するロバが存在しないように、決定不可能に陥って絵を全く理解できないということはあり得ない。なぜならば、人間は、(この場合ロバも同様だが)常にさまざまなレベルで、〈世界〉にむかってなんらかの固有の〈欲望〉を持って生きており、それが必ず地と図を決定させる[#「決定させる」に傍点]からである。だまし絵とは、じつは地と図が決定不可能なのでなく、むしろその「逆転」を、つまりふたとおりの決定[#「決定」に傍点]を許容[#「許容」に傍点]するのにほかならない。そしてそれにもかかわらず、一枚の絵の〈理解〉(=〈意味〉決定)を形式化するなら、地[#「地」に傍点]と図[#「図」に傍点]という�構造�が生み出され、しかもこの構造のうちでは決定(=〈理解〉)が不可能なものとなるほかないのである。  この問題は、柄谷が言うどの「ゲーデル的問題」を見ても、全く同じ構造を持っている。要するに、言語の問題であれ貨幣の問題であれ精神分裂病の問題であれ�人間的�行為を形式化するや否やあの「分析不可能な一点」が生み落され、したがってその�構造�は自己言及的な円環を閉じるほかなくなるのである。  さて一体「ゲーデル的問題」とか「自己言及性」とか「決定不可能性」とか言われているものは何を意味していたのだろうか。私の考えでは、それは結局あの西欧形而上学のプロブレマティークからまっすぐにやってきたものだ。繰り返し見てきたように、まさしくそれは「存在論的な差異[#「差異」に傍点]」をどう理解し、どう思い描くかという問題にほかならない。しかし重要なのは、柄谷行人も時折言っているように、このプロブレマティークそれ自体の中には世界史における不可避の必然性があるわけではないということである。さらにまた、このプロブレマティークの中に、決して「世界認識」の真理[#「真理」に傍点]が隠されているわけでもない。  だが、はじめに述べたように、なぜ西欧形而上学においてこの問題(アポリア)が必然化されたのかはいぜんとして考えるに足る問題であると思われる。なぜなら、おそらく現在日本の思想的水脈において(近代以後ようやく、と言うべきか)まさしくこのアポリアが〈戦後〉理念的なものをおしのけるようにして顕在化[#「顕在化」に傍点]してきているからだ。私の考えでは、それはじつは近代—現代社会において共同化されている人間の〈世界概念〉に深くかかわっている。象徴的に言っておくなら、六〇年代までの普遍的な世界概念の総体的な変容が「ゲーデル的問題」に強いリアリティを与えているのだ。  ともあれ、ハイデガーやメルロ=ポンティやデリダという哲学者たちは、ともにフッサールの問題設定からそれぞれの仕方であの�アポリア�を承け継いだひとびとだったと言える。彼らの展開[#「展開」に傍点]はおのおの独自のものだが、柄谷の仕事もまたそういう脈絡の上にあることは疑うことができない。だが彼はおそらく、最も懐疑論的な情熱とニュアンスにおいてそれを語っているように見える。それは彼があれらのプロブレマティークの中に、はじめて自己という�問題�の奇妙な核心をつかんだからであり、そういう感触はむしろ小林秀雄に通じている。 〈認識〉とは何か、〈意味〉とは何か、〈自己〉とは何か、〈世界〉とは何か、こういう問いは全く形而上学的なものだが、彼はこの問いをプロブレマティークとして(つまり制度的に)問うているのではなく、自分自身に向けて問うているのだ。そしてまさしくそのことにおいて、彼は〈近代〉以後[#「以後」に傍点]というものをよく体現しているように思える。もはや〈世界[#「世界」に傍点]〉とは何か[#「とは何か」に傍点]、と彼は問わない。また、世界はいかに現われるのか[#「現われるのか」に傍点]、と問うているわけでもない。〈世界〉を支えているヘラクレスとは一体誰のことか、と彼はただ反語的に問うて見せるのである。そしてそういう問い方こそ、柄谷行人にとっての〈自己自身〉への問いにほかならないように見える。 [#改ページ] ———————————————————————————— 〈差延〉と〈根源〉 ————————————————————————————      1[#「1」はゴシック体]  一般にフッサールとデリダに関して、次のように言われている。フッサールは現象学的還元という方法によって、「一切の学の真の基礎」、「絶対的真理あるいは学問的に真正な真理という理念を保持し、そしてその理念を追い求めつつ、それに近似的に接近してゆく」(『デカルト的省察』)ための「徹底的な基礎づけ」を試みようとした。しかし、デリダは、フッサールの掲げた理念は、形而上学の野望を典型的に表わすとして、これを批判し、�脱構築�した、と。  フッサールの方法の根底を「諸原理の原理」という彼自身の言葉で言い表わしてみると、デリダがそれに対置したのは「非原理の原理」ということにほかならない。後に詳しく見ることになるが、とりあえず言っておくと、「諸原理の原理」とは、人間に直接に現われた(現象した)「直観」が、ありのままの形で言表され得るということ、そのことが一切の〈意味〉、〈言葉〉、〈論理〉というものの最も根底の根拠である、ということを指している。そして「非原理の原理」とは、この命題の不可能性を意味する。  フッサールがはじめに掲げた理念のうち、還元の厳密な遂行が、真の意味での「絶対的真理あるいは学問的に真正な真理」への究極的接近を可能にするという考えは、現象学の優れた継承者であるメルロ=ポンティのみならず、フッサール自身も晩年にはほぼ放棄していた。しかし、現象学という発想の根底には、デリダ的な乗り越えでは全然始末に負えない問題が残されていると私には思える。  たとえば、構造主義、ポスト構造主義という現象学批判のコンテクストが出そろったあとで、ヴァンサン・デコンブは現象学批判を次のような形で要約している。 [#ここから1字下げ] 「純粋な、いわばいまだ無言の経験を、それ固有の意味の純粋な表現にもたらすことこそが、肝要事なのである。」(フッサール『デカルト的省察』からの引用—筆者注)  この文章は明確に、「意味」は、「表現」の意味であるより前に——この場合には、ある経験について話す言葉であるより前に——さらに根源的にはその経験そのものの意味である、と言っている。(『知の最前線』) [#ここで字下げ終わり]  すこし判りにくいかも知れないが、デコンブがいうのは、無言の経験とは、べつにはじめから決定的な〈意味〉にまとわりつかれていない、経験を表象する仕方は無限なのだから、それを「固有の意味の純粋な表現にもたらすこと」なぞ到底できるわけがない。まさしくそれが、これが現象学の根本命題なのだ、というのである。  しかし、のちにデリダとの対比の中で論ずるが、こういう批判はじつは全然的を射ていない。「直観」を「それが与えられたとおりに」言表へもたらし得ること、これは現象学の方法の全体がそれによって支えられている根本の前提である。そしてすぐに判るように、この命題は、一見簡単に批判できるように見える。しかしことはそうひとすじなわでいかないのである。  フッサールおよび現象学に対する批判の全体が、この≪諸原理の原理≫の批判によって支えられている。「超越論的主観」という発想も「還元」という方法も、「現象」とか「世界」という考え方のすべてが、この批判によってほぼ見棄てられたような形になっているのである。〈差延〉による〈根源〉の批判によってひとはこの問題にけりがついた、と信じている。つまり〈世界〉をすべてくまなく言い尽そうという欲望が、言いあての不可能性の証明によって、完全に退けられたのだと。  だが事態はほんとうにそういうことだったろうか。〈差延〉は〈根源〉を平らげただろうか。私はもういちどこれをたどり直してみようと思う。      2[#「2」はゴシック体]  ひとつの独創的な哲学は必ずその難関を持っている。そこを越えてゆければ全く新しい地平が見えてくると信じられるような難関を。  ところで哲学一般が人間の観念の欲望を恐るべき力で引きつけることができるのは、その問題の厚い氷層を推論によって砕きながら進んでゆくことが、ひとつの〈世界〉体験にほかならないからである。だがもっと肝心なのは推論の果てに、最終的には〈世界〉の〈真理〉に至れるはずだという暗々裡の予感が、この経験を支えているということだ。  しかし、むろん〈真理〉はやってこない。ヴァレリーが言ったように、観念能力の酷使が、「自意識」という眩暈をひき起すだけなのである。だが、ほんとうにそれだけかと言うと、そうでもない。  小林秀雄によってひかれたデカルトの書簡によると(「常識について」)、彼は形而上学について興味深いことを言っている。「要するに、形而上学は、神や魂に関する認識をもたらすものであるから、形而上学の諸原理は、一生に一度は、充分に理解して置くのが必要だと考へてゐます。とともに、これらの諸原理について思ひを凝らす事に、あんまり度々、理解力を酷使するのは非常に有害であると考へてゐる」(エリザベート宛)。  哲学なんて一生やるものではない。ただし、一生に一ぺんくらい、十分に腰をすえて世界とか人間とか魂についてよく考えつめておくことは、大変精神にとって有益なことだ。こう言うわけだ。現代流行の精密きわまりない世界論が、どれだけ理解能力を競い観念を酷使することで青年に�有害�な影響を与えているかは、想像してみなくても大体わかる。むずかしい哲学、思想がわかる[#「わかる」に傍点]ことが、「自意識」に眩暈を与えていない学生なんかめったにいないからである。ヴァレリーの時代とおんなじなのだ。  ところでフッサールだが、彼の思想の真髄は、さきのデカルトの言葉とまるで絵に描いたようにぴったりと響き合っていると私には見える。それを理解することは大変重要なことなのだ。  確かにフッサールの学説には、「形而上学への野望」などと呼ばれても仕方のないところが、大いにある。彼は学問ということを大真面目に信じていたし、論理というものへの信頼に関してはヘーゲル顔負けのところがあった。なにより度し難いと見えるのは、レトリックは不純で有害であり、正しい文法にのっとるほど考えは正確に伝わる、と信じ込んでいるところであろう。そしてこういう信じ込みが、フッサールの思惑に反して、彼の論理を必要以上に難解で退屈なものにしてしまっているのは明らかである。  しかし、それでもフッサールの思想の内実の独創性は私には全然疑えない。彼は一生を哲学に捧げることは素晴しいことだと感じていたが、彼の思想の〈真〉は、一生に一ぺんだけ人間が考えつめておいた方がよいことがらについて語っているのである。だが、そのことに関してはあとまわしにしよう。フッサールが一九〇七年に書いた『現象学の理念』は、現象学の枠組の全体を簡潔にまとめたものだが、そこでの次のような箇所は、フッサールにとっての問題の難関の所在をよく言い表わしている。 [#1字下げ] 認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか? 認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?(講義一)  これがフッサールの言う「伝統的認識論」(『デカルト的省察』)の基本的パラダイムにほかならぬことは言うまでもない。  目の前に一冊の本がある。それを私が見ている。しかしその本は、よく考えてみると、私の眼を通して私の脳裡に浮かんでいる限りでの、つまり私の認識の内側での〈本〉にすぎないのではないか、と思えてくる。これが問題の発端であって、よく記憶しておいて欲しいのだが、ここに近代哲学のとてつもない議論の一切合財[#「一切合財」に傍点]が(驚くべきことだがほんとうにそうなのだ)きざしているのである。私の目にしている本が認識としての本であるとすると、では、机の上に残されたままになっている�それ自体としての本�は一体どうなるのか。こうして難問が現われる。私のうちの認識としての本は、机の上にあるはずの〈本そのもの〉と、果して本当に同じもの[#「同じもの」に傍点]だろうか。一体何が[#「一体何が」に傍点]、あるいは誰が[#「あるいは誰が」に傍点]、この[#「この」に傍点]「一致[#「一致」に傍点]」を確証[#「を確証」に傍点](保証[#「保証」に傍点])するのか[#「するのか」に傍点]、と。  さて、近代哲学がこの根本問題にそって進んだことはよく知られている。デカルト、イギリス経験論、カント、ドイツ観念論と流れてヘーゲルまで来たとき、キルケゴールとニーチェが、この問題の枠組そのものに横槍を入れた。たとえばニーチェの言い方は、絶対的な客観なんかないのであって、みんなてんでに「解釈」してるだけだ、「一致」があるか否かより、何が(誰が)一体「一致」を要請しているのか、それが問題だ、ということになる。  ニーチェの言い方は大きな衝撃力を持っていて、現代思想の重要な起点になった。しかし、ニーチェの言い方が、あの「一致」の難問を十分に解きほぐしているかどうかは簡単には言えない。ほんとうはあの「一致」の難問は、私たちの日常的な〈世界〉像のあり方と密接な関係がある。誰でも気がつくだろうが、私たちは青年期になると一定の〈世界観〉を創り上げ、それを強く信じようとする(あるいはそれに強くつかまれる)。するとすぐに諸〈世界観〉どうしの対抗、対立ということが起る。これは〈世界観〉という言葉をゆるやかにとれば、現在でも普遍的な現象である。そして認識と対象の「一致」は、そこではほとんど至難のことのように見えてくる。これが問題の形式を支えている現実的実質なのである。  ニーチェの答え方はある意味ではマルクスの問題のずらし方に似ている。マルクスのヘーゲルからの抜け方には、ある思想の世界認識が〈真理〉に一致しているかどうかは、あとでひとびとがよってたかって決めてくれるというふんぎりのようなものがあった。理論とは、客観の正確な把握であるより、世界の〈思い描き〉にすぎない。それがうまく的を射るかどうかは、いわばいちかばちかの跳躍であって、思い切って跳んで[#「跳んで」に傍点]みなくては何も判らない。ニーチェもそういうふんぎりから出発して、なぜ形而上学が意味や価値を〈真理〉として扱うかを、いわば心理的[#「心理的」に傍点]に説明してみせた。だがこの説明が言いあたって[#「言いあたって」に傍点]いるかどうかは、ニーチェの説明を聞くものの人間観[#「人間観」に傍点]によって見方が分れるだろう。ニーチェの心理的説明のリアルさは、ニーチェの心理のリアルさに支えられているのである。  フッサールの「難関」の越え方は、ひと味違っている。彼は問題がなぜ難問の形をとるのかを考えるうち、デカルトもカントもヘーゲルも、ひとしくある前提から世界を考え始めていることに気がついた。そしてこの前提が、一致の難問、つまり、〈主観/客観〉、〈認識/対象〉、〈思惟/存在〉、〈意識/実在〉という近代哲学のアポリアの全体を生み出していることを理解した。  この前提とは次のようなものだ。 [#1字下げ] 伝統的認識論の問題は、超越の問題である。伝統的認識論は、経験論的認識論として、(略)認識の原理的可能性を究明しようとするのである。そのような伝統的認識論にとっては、問題は、自然的見方において生じ、そしてその後も自然的見方において取り扱われる。その見方においては[#「その見方においては」に傍点]、わたしは[#「わたしは」に傍点]、わたしを[#「わたしを」に傍点]、世界のうちにある人間として見出し[#「世界のうちにある人間として見出し」に傍点]、そして同時に[#「そして同時に」に傍点]、世界を経験し[#「世界を経験し」に傍点]、わたしを含む世界を学問的に認識するものとして見出す[#「わたしを含む世界を学問的に認識するものとして見出す」に傍点]。(『デカルト的省察』—傍点引用者)  デカルトは〈われ思う〉以外の世界の一切は疑わしいと言ったし、カントは、人間には主観のむこう側にあるものは結局判らないと説いた。すると彼らは一見客観世界を認めないところから出発しているように見えるかも知れない。ところがじつは反対で、デカルトもカントも、まず客観的な世界、誰にとっても絶対に唯一で同一的なものとして存在する世界、が存在しており、〈私〉がその「世界のうち[#「うち」に傍点]にある」ことを論理[#「論理」に傍点]の前提にしているのである。なぜならこの前提がなければ、そもそも神による「一致」の保証[#「保証」に傍点]という考えも、また「一致」の不可能性としての「物自体」という概念も現われようがないからである。  客観世界がまずあって、その中に[#「その中に」に傍点]私が存在するという前提から出発する。すると認識の有限性や不完全性などの困難がいもづるを引くように現われ出し、認識と客観の「一致」はとてつもない困難のむこう側に閉ざされてしまう。しかしこれが伝統的認識論の議論の前提であった。  だが重要なのは、この前提は同時に私たちの日常的な世界の見方の土台でもあるということである。これはいわば、「常識」の見方なのだ。この誰でもごくふつうにはそう考えざるを得ない世界の見方の順序を、フッサールはくるりとひっくり返してみる。「いまわたしは次のようにいう。わたしに対して存在するすべてのものが、そのようにわたしに対して存在するのは、認識するわたしの意識によってである」(同前)、と。  言うまでもないが、この方法はつねに、経験論や独我論の基本的方法であった。〈世界〉認識の方法としては、フィヒテが考えたように、ひとは〈私〉という場所から言いはじめるか、それとも〈世界〉の方から言いはじめるかのどちらかしかできない。観念論的起点と実在論(唯物論)的起点の意義の違いははっきりしており、観念論はその系の内側だけでは社会現象をうまく説明することはできない。そして逆に実在論は世界の仕掛けを説明(=解釈)するだけで、その真を内在的に証すことはできないのである。  現象学が承け継ぎ徹底した独我論的(=超越論的)起点の優位は、しかしやはり明らかである。超越論的立場はさまざまな実在論的立場に先験的な優位を持っているわけではない。ただ、それは、デカルトやカントを土台にしてつき進んできた近代諸科学の、〈世界〉を客観的実証的に知り尽そうとするやみくもな欲望に、この欲望の自明性に、大きなくさびを打ち込んだのである。このことは重要である。現象学の超越論的立場を、コギトの哲学として批判したのはラカンやレヴィ=ストロースの�構造主義�だが、構造主義は明らかにさきの実在論的前提[#「前提」に傍点]を認識方法上の根底としており、両者の対立は必至だった。超越論的立場は実存主義的立場と重ね合わされ、さらにマルクス主義の主体論(倫理主義)と重ね合わされ、「コギトの哲学」という、全く事態をあいまい化するのに都合のいい名称で括られてしまった。  ほんとうは、現象学が近代思想の流れの中に持ち込んだのは、〈世界とは何か〉という近代的な問いの自明性を、世界認識の�道具�としての〈言葉〉(=ロゴス)とは何か、という問いによってつき崩すというモチーフにほかならなかった。  マルクスの経済学批判が経済学という前提への批判であるとすれば、フッサールの現象学はむろん認識[#「認識」に傍点]一般への批判であり、ロゴスへの批判であった。それはソシュールが言語学批判を果したと見なされるのと同じことなのである。  そう考えるとなぜ超越論的立場が「徹底的に遂行」されねばならなかったかは、容易に理解される。フッサールの超越論的主観に、なにか神秘的な独我論の響きを見るのは全く誤解である。またそれに対して、合理的明晰性と結びついた「コギト主義」などという批判を投げかけてすますのは、ピントがずれている。彼は要するに次のように言っているのだ。デカルト、バークレー、ヒューム、カント、彼らは大なり小なりまず〈私〉から考えはじめよう(=超越論的主観)と言った。この立場は、認識とか思想とか論理というものの根拠[#「根拠」に傍点](基礎[#「基礎」に傍点])を問うためには[#「を問うためには」に傍点]、どうしても不可欠な[#「どうしても不可欠な」に傍点]立場だった。しかしヒュームの直観を除くと、みんな結局は客観世界(あるいは神)の認定に戻ってしまったのであり、そのことによってこの立場が持っている認識批判の真の可能性を徹底させることができなかった。認識批判は、ほんの少しだけ手がつけられたが、最後には、論理は客観に対応し合うという、もとの木阿弥にほぼすべて落ち着いてしまった。だから自分がいまそれをもう一度徹底してみるのだ、と。  じつはむしろ現象学の立場が、�構造主義�批判を意味するのであって決してその逆ではない。  たとえば今村仁司のような学者は、アルチュセールのラカン解釈をとおして、フロイト—ラカン、マルクス—アルチュセールという思想的継承関係の中心に、重層決定(シュールデテルミナシオン)という新しい〈構造〉の概念を見てとっている(『社会科学批評』)。今村は重層決定の本質的特徴を、たとえば「矛盾の存在諸条件」が「矛盾そのもののなかに映現されるということ、これである」と要約している。それはつまり二元論的な関係項の体系ではなく、関係項の衝突点としての矛盾の関係論だということであろう。しかしそれはどういうことか。  マルクス主義の認識の体系は、経済関係から社会の矛盾が不可避であることを映し出す。しかし、この矛盾は、個々の人間によって克服されるべき難問として残る。難問はだから主体のうちへ内面化され、そこで成熟するのを待たれる。すると社会認識論と人間論(主体論)が分極せざるを得ない。要するに構造主義は、この人間の認識と実践との難問それ自体を科学的認識として構造化しようと企てるわけだ。  柄谷行人は、今村仁司、栗本慎一郎との鼎談で(「〈思考〉のパラドックス」『流動』一九八一年一〇月号)、「アルチュセールのように多元的決定と言ってもそれは決定論の変種なんですね。構造的因果性と言っても因果性の中に入ってるわけですね。ぼくはその種のことは全部サイバネティックスで説明できると思うんですよ。(それは)まさに差異だけでできており、また目的論を因果的に説明できるものです。ですからラカンの考えをアルチュセールがマルクス論の中に導入した時に多元的決定とか構造因果性とか言ったけれどもぼくはそれはたいしたことはないんじゃないかと思うんです」と言っている。  構造主義は、たとえば経済決定論的因果の中に経済外的諸要素を持ち込み、モノフォニックな因果系列をポリフォニックな因果系列へ組み換えようとするわけだ。今村仁司のような構造主義評価をもっと極端化すると、浅田彰の「構造と力」という言い方になる。構造は静的なものではなく変化する。この変化の要因はたとえどれほど精緻なものであろうと構造論の内側[#「内側」に傍点]では捉え切ることができない。構造を変化させるものを「力」と呼ぶと、これは従来の構造論では把握できない。「(構造主義の)限界とは、端的に言って、力を事後的にしか見出せないということである」(『構造と力』)。この構造そのもののうちには見出せない≪力≫を捉えることが問題なのである、と。  しかし、浅田のニーチェやドゥルーズ=ガタリ理解が、一種のソフィスティケートされた構造論であることは言うまでもない。今村や浅田に共通しているのは、ポスト構造主義を、発展した(限界を越えられた)構造主義と見なす点であり、そこでは要するにいっそう精緻な因果系列の追究が問題になっているのである。  しかし、フッサールが見ていた認識の問題の中心とは次のようなことだった。 [#1字下げ] いまや、仮説として前提されていた普遍的因果性——あるいは経験界の独得な普遍的帰納可能性といってもよいが——をこのような補助手段によって、組織的に把握することが必要となった。注意せねばならないのは、ガリレイの仮説のうちにあった新しい具体的な世界の理念化[#「世界の理念化」に傍点]とともに、ということはつまり、普遍的で精密な因果性[#「普遍的で精密な因果性」に傍点]もまた自明なものだとされたことである。(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』第九節)  フッサールが言うのはこういうことだ。ガリレイの測量術が空間を均質化したということのうちにはもっと重要な問題点が含まれている。空間の均質化とは、「延長」を三次元の長さ[#「長さ」に傍点]の関数に置き換えることによって、その普遍的客観[#「客観」に傍点]を得るということだ。同様に、〈世界〉という事象の全体を、ある方法によって普遍的客観[#「普遍的客観」に傍点]にもたらすことができる。それは、一切のことがらには必ず原因結果の系列がつきまとっているから、事象の因果性をどこまでも辿って、因果の全体の体系を完成させるという方法である。ここではじめて、因果の系列の遡行可能性への確信と、またその完成が世界の客観への到達である、という暗々裡の確信とがセットになっている。そしてこれこそ、近代社会に生じた最も特徴的で本質的な世界概念なのである、と。  フッサールが「諸学の危機」と呼んだものは、この近代の「理念化された因果性」への信仰によってもたらされている諸科学の「矛盾」であり、それはじつは、世界をまず客観的存在として前提したために生じた、近代哲学の「一致」の難問と全く同根の問題にほかならなかった。柄谷行人が「決定不可能」などの言葉で言いあてようとしているのは、まさしくこの問題なのである。  たとえば柄谷の「決定不可能性」を大いに売り歩いた三浦雅士は、フッサールに関して次のように書いている。 [#1字下げ] 思想の体系はそれ自身の正当性をそれ自身の内部においては立証できない。正しくないというのではない。正しいか正しくないか決定することができないというのである。それだけは確かだというのだ。自分では自分の正気を証明しえないということである。このような批判は、まさに批判したもの自身がその後の困難にもっとも深刻なかたちで突き当らざるをえないものである。依拠すべき世界観を懐疑によって次々に破壊した後に襲ってくるのは空虚であり、人は空虚によく耐えられるものではない。フッサールも小林秀雄も、さらにそのほか多くの同時代の思想家も、まさにこの困難に直面したのであり、だからこそ現代世界の危機が叫ばれたのである。(「危機と常識」『新潮』一九八四年四月号)  フッサールと小林秀雄を結んだのは�正解�だと思えるが、彼らを「決定不可能」を見たものとするのは、わが田に水を引きすぎて田んぼを使いものにならなくしていると言わねばならない。  ことは三浦の�解釈�とは正反対で、小林もフッサールも、「正しいか正しくないか決定することができない」といった見方を、むしろ自信をもって斥けたのである。彼らは、さまざまな決定論の間近にやってきてつねにそれに対抗する三浦のような「懐疑派」ではない。たとえば小林は、レーニンの、哲学には唯物論的方向と観念論的方向があるがその間に哲学上の新しい観点を見出そうとする努力は精神上の貧困を表わす、という『唯物論と経験批判論』の一節を捉えてこう言う。「扨て以上のレニンの短文を約言すればこの世はあるがまゝにあり、他にあり様はない、この世があるがまゝであるといふ事に驚かぬ精神は貧困した精神である」(「マルクスの悟達」)、と。  小林が言おうとしていることは全く明瞭である。世界はほんとうにあるのかないのか、唯物論が正しいのか観念論が正しいのか、正しいとか正しくないは何が決定するのか、そんな議論は、全く無意味な議論で、貧困した精神だけに訪れるものだ。たとえばマルクスはそんなことにこだわらず、自分の世界の見え方を信じそれを理論として書くことにかけただけだ。正しいか正しくないかは誰かが[#「誰かが」に傍点]決めるとでも言っておけばいい、と。小林の言は、三浦のような意見を容れる余地がないのである。  フッサールはどうか。これも全く明らかなことだ。普遍的因果性の理念は一方で、絶対的客観を言いあてようとする近代哲学、近代諸学の情熱をあおりたてた。しかしそれは、この前提が本来持っている矛盾によって論理的な決定不可能性を招来する。そこにディルタイなどの一種の相対主義(歴史主義・世界観主義)が胚胎する。むろん、「懐疑主義」は、この前提を超えているわけではなく、むしろこの前提の内側で[#「内側で」に傍点]可能になっているのだ。そして、肝心なのは、こういう事情は「決定不可能」どころか、誰でも判るような理路として、全く明白にすべて呼びひらくことができるということだ。そうフッサールは言うのである。 「学問が、真の学問が達成されているかぎり、人はどこでも同じ意味において教え、学ぶことができるはずである」(『厳密な学としての哲学』)。彼のこういう言葉を、「形而上学的な野望」と取るべきではない。客観的認識(普遍的因果性)がなぜ不可能なものか、それがなぜ相対主義や懐疑論を呼び寄せるか、また、では論理や認識はどういう領域において可能なのか、それらは一切を、理を尽して語ることができるような問題にほかならない。これが現象学の根本のモチーフであることは疑いの余地がないのである。      3[#「3」はゴシック体]  現象学的還元というフッサールの方法的概念は広く知られている。ごく一般的にそれは、「超越的存在者」(=外的な事物[#「外的な事物」に傍点])を「あり」とする素朴な断定を一時判断保留し、純粋な体験の場面としての意識の〈内在〉から一切を見直そうとする方法だという具合に言われる。しかし、この概念が結局よく判らないものになっているのは、この方法が一体何を明らかにし、何を意味しているのかについて、ほとんどはっきりしたことが言われていないからである。  フィンクによれば還元の目的は「世界を超えて世界の根源を問う」ところにあるというのだが、こういう混乱した言い方が流通するのは、むろんその意味が学者たちのあいだでつきつめられていないためなのだ。  たとえば柄谷行人は、『群像』に連載された「探究」の第一回で、現象学の超越論的立場に関連して次のように書いている。 [#ここから1字下げ] 「主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は危険なことである」と、ニーチェはいっている。≪それゆえ私たちは身体に問いたずねる≫(略)≪私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている≫(『権力への意志』)。意識に直接[#「直接」に傍点]に問いたずねるということにおける現前性・確実性こそが、「哲学」の盲目性を不可避的にする。  だが、ニーチェが同時に「意識に直接問わない」ような方法をも斥けていることに注意すべきである。  意識に直接問わないで身体に問うということは、意識に直接問いながら且つそのことの「危険」からたえまなく迂回しつづけるということにほかならない。  実はニーチェは一つのことしかいっていないといってもさしつかえない。すなわち、結果でしかないものを原因とみなす「遠近法的倒錯」についてである。 [#ここで字下げ終わり]  柄谷はここで、超越論的主観の立場をニーチェ的観点によって位相変容させようとしていると言ってよい。しかし、フッサールはデカルトの「懐疑」やカントの「主観」がなぜ一方で極端なコギト主義に、また一方で相対主義や独我論に帰結するかを十分に意識していた。そして「超越論的立場」の徹底的な遂行によってフッサールが明示したのは、むしろまさしく「結果でしかないものを原因とみなす『遠近法的倒錯』」がなぜ近代社会において遍在するか、ということにほかならなかったのだ。しかもフッサールは、それを「意識に直接問いながら且つ」そこから迂回するといういわばレトリカルな戦術でなく、もっと理を尽すような仕方で、つまり誰でもが必ず明白なこととして理解できるような仕方で行なおうと試みたのである。  フッサールの「超越論的還元」の道すじを換骨奪胎して言いなおすと、その主旨は次のようなことになる。  伝統的認識論は客観世界がまず「ある」と前提し次にその内側に〈私〉が存在すると考える。この論理の順序を逆転させて、まずは主観としての〈内在〉だけがあると考える。この〈内在〉にさまざまな現象(表象)が生起し、主観はこの表象をなんらかの仕方でいま[#「いま」に傍点]、ここにある[#「ここにある」に傍点]この〈経験〉へと織り上げ、それと同時に、〈いま、ここにある〉ことの相関者としての超越者、つまり一冊の本とか、この部屋とか、世界という外在的な対象物を〈構成〉する。  これは簡単な、誰にも判る考え方の順序である。実際、経験論や観念論は伝統的に〈内在〉から出発して世界を考えてきたのだ。しかしこの方法につきまとっている危険は、このように考えるとすぐに、これらの超越者の〈構成〉を可能にしているのは世界の客観的実在性[#「客観的実在性」に傍点]だという論理的な折り返しが生じるということである。そしてまさしくこの折り返しによって、観念論と実在論の対抗は永遠に循環的なものとなるのである。たとえばカントが行なったのは、まさしくそういう「誤謬推理[#「誤謬推理」に傍点]」だった。  彼は一切は主観のうちに生起し、悟性と理性のアプリオリな形式性が主観の内部に〈世界像〉を〈構成〉すると説いた。しかし、じつはカントの論法は、この〈構成〉は客観的実在が人間的の認識の装置をとおって[#「とおって」に傍点]主観に現われ出たものだということを前提[#「前提」に傍点]している。だから[#「だから」に傍点]彼は、この〈構成〉は制限されたものであって、絶対的客観としての〈物自体〉とは違うと言わなくてはならなかったのである。〈物自体〉に到達できないとは、絶対的客観としての〈物自体〉が必ず存在[#「存在」に傍点]するということだからだ。  しかし、フッサールは一切は〈内在〉において生じているという理路をどこまでも徹底させるべきだと考えた。すると確かに、客観的実在の、「ある[#「ある」に傍点]」ということの概念そのものが疑われ出すことになる。たとえばこのことを、丸山圭三郎が判りやすい例をあげて説明している。 [#1字下げ]……人間以外の狭義の動物も、彼らなりの〈意味=現象〉に反応して行動している点では変りがない。動物たちにとっても、意味以前の裸のデータともいうべき客体が存在するわけではないのだ。ダニにはダニ固有の、イヌにはイヌ固有の〈意味=現象〉群が存在していて、それらがその種独自の世界を形成しているのであるが、いずれの世界がより客観的でも物理的でもなく、これまた彼らの〈生《レーベン》への関与性〉次第で存在もし、非在化もする。(略)ユクスキュルが挙げた例を一つだけひこう。トカゲは枯葉の音ならどんなにかすかなものであれひどくびくつくのに、そばでピストルを発射されても全く反応しない。何故なら、そのような音響と結びついているような危険の要素は、トカゲ本来の環境には存在しない、つまりこの物音はトカゲにとって〈意味=現象〉ではなく、彼の刺激閾の向う側にしか存在しないからである。(『文化のフェティシズム』)  人間にとって現われる世界の存在の〈構造〉とダニにとってのそれは、彼らの〈意味=現象〉系列、つまり〈生への関与性〉の固有の系列の違いによって、全く異なったものとなる。一枚の壁は人間にとって絶対的な障壁として存在[#「存在」に傍点]する場合があるが、ヴィールスのような〈身体〉にとってそれは�存在しない�。現象学の方法においては、存在[#「存在」に傍点]とは、主体にとっての〈意味〉だからである。  しかし、それでもこの存在の〈構造〉は全くアト・ランダムに生じているのでないから(それは反復可能性によって証される)、この〈構造〉の基体となっているものを、想定せざるを得ない。つまり、絶えず、そこに唯一の同一のもの(超越)が存在するに違いないという「信憑」が、また構成されることになる。この構成された、世界という信憑こそ、まさしくひとびとが客観的実在と呼ぶところのものにほかならない。  はっきり言うことができるが、こういう考えはフッサールによる超越論的立場の徹底化によってはじめて可能になったのであって、画期的なものである。そしてこの考えの中心を存在論《オントロギー》として深刻に受けとり直したのが、ハイデガーだったのである。  要するに、「超越論的還元」が明らかにしたのは、客観的な世界が存在するという「自然的な」見方が、いわば間主観的な〈構成〉として成立しているということである。むろんこのことは、超越論的立場のたとえば唯物論的立場への絶対的[#「絶対的」に傍点]優位を意味するわけではない。しかし、この理路によって示される射程は極めて遠くに及んでいる。  たとえばこの現象学的還元の考え方は〈世界観の構成〉ということを明示する。ごく一般的に言って、どんな人間にとっても、この〈社会〉やこの〈世界〉が客観的に存在[#「客観的に存在」に傍点]するということは、全く疑う余地のないものと見えている。そしてそのことは、じつは暗々裡に、この〈社会〉やこの〈世界〉に流通している〈意味〉や〈価値〉の自明性とセットになっている。しかし、この自明性はいつでもどこでも問うに足るようなものなのだ。  現象学の見方では、私たちが直接見たり触れたりしている日常世界のむこう側[#「むこう側」に傍点]は、簡単に言って教育やマスメディアのもたらす情報やその他の知見によって補われ、そのことで、世界全体はかくあるという像が構成されている。逆に言うと、〈世界〉とか〈社会〉の像は、必ず直接経験の領域以外の諸知見を必要とするわけだが、この諸知見は近代科学のもたらす知識であったり、一定の歴史観であったり、またさまざまな価値観やイデオロギーであったりする。これらの諸知見を現象学に従って〈臆見《ドクサ》〉と呼ぶこともできるが、しかしむろんそのことは現象学の見方が〈臆見〉の代りに正しい世界知を展望するということではあり得ない。  現象学的還元は、どんな〈世界像〉もさまざまな〈臆見〉なしに成立しないことを明示するが、決してその代りに真の〈世界像〉をもたらそうとするわけではない。それはただ、どんな〈世界観〉も共同的な(=間主観的な)〈構成〉として生成するし、時代や社会や文化や人間によってそこに持ち込まれる〈臆見〉の形が違うために、その対抗が必然的なものとして生じざるを得ないことを、全く疑いの余地ない明らかなものとして示すのである。  ところでフッサールのこういった現象学的還元なる方法が私たちに告げているのは一体何だろうか。それはおそらく、デカルトが言ったような、「一生に一ぺんだけ」〈世界〉や〈人間〉について徹底的に考えつめておくと大変精神にとって有益であるような思想上の方法なのである。つまりそれはこんなふうに語っているのだ。一度ほんとうに腰をすえて私たちが自明なものと考えているこの[#「この」に傍点]〈世界[#「世界」に傍点]〉の根底を考えてみればいい。誰の〈世界〉像も自分では確かめ得ないさまざまな〈臆見《ドクサ》〉(=通念)を抱え込んでいることが判る。そしてその〈通念〉の根拠を本気で問うなら、それがなんの根拠も持っていないことが知れる。論理というものを適切に使用しさえすれば、ほんとうにそのことはすぐ露わになる。だから世界を考えてみようとするときに、悪い理路とよい理路というものが必ずあるのだ。それを簡単に言うことができる。あらかじめ決まっている前提(うすうすあるいははっきり知っているような)へ辿ってゆくような理路は悪い理路だが、自分に見えはじめたものを、どんな前提もなしに、すでに言葉が持っている〈意味〉が導くままに辿ってゆくような理路はよい理路なのである。それは絶対的な〈世界知〉の探究、あるいは〈世界観〉への硬直した固執を、自ずと解いてしまうような論理の進め方なのだ、と。  現象学的還元という方法の意義について、私はもうひとつつけ加えておこう。たとえばマルクスやニーチェやキルケゴールやフロイトなどの思想家は、真に近代思想の認識のパラダイムを転換させるような仕事をした。しかし、彼らの仕事は天才の仕事であって独創的な構想を持っている。そこにはいわば常人には真似のできない論理の流れがある。前に述べたように、それは世界の〈言いあて〉ではなく〈思い描き〉であり、跳んでみなければ結果が判らない、いちかばちかの跳躍であるとしか言えないからだ。しかし、現象学的還元という方法は、フッサールが繰り返し力説したように、注意深く考えれば誰でもそれを同じ仕方で辿れるような思想(=世界について考えること)の方法なのである。これはここでは詳しく論じることができないが、現象学の極めて重要な特質であるといってよい。  さて、こうして現象学は、超越論的立場の徹底によって〈世界〉の客観的認識という課題の不可能性を明示する。そしてその代りに人間が世界(像)をどう〈構成〉するかというプロセスの解明を自らに課す。この解明の意義はそれなりに明らかだし、解明の方途として「形相的直観」(本質直観)という方法が呈示されるが、これもまた非常に誤解に満ちた受けとられ方をしている。だが、ここではこの問題も迂回しよう。私たちがさしあたって辿らなければならないのは、近代的な認識思想のゆくえであり、認識の根拠を問うことであり、認識批判という問題である。      4[#「4」はゴシック体] [#1字下げ] そこで、われわれの問いの最も一般的な形は、つぎのように明文化される。すなわち、現象学の必然性、フッサール的分析の厳密さとその緻密さ、その分析が応じている種々の要求(略)これらのものは、それにもかかわらず、一つの形而上学的予断を包み隠していはしないか。これらのものは、独断論ないしは思弁的な或る種の執着をひそめているのではないか。(略)すなわち、現象学はやがて≪諸原理の原理≫、つまり根源的、能与的明証性、充実した根源的直観に対する意味の現前ないし現前性を、すべての価値の源泉および保証者とみなすことになるのであるが、まさにこの点に、そうした執着がひそんでいるのではないか、というわけである。(ジャック・デリダ『声と現象』序言)  生ける現在(超越論的生)の源泉としての意味の現前性、声・パロールの特権性(音声中心主義)、時間的根源としての〈今〉の点性、これらがデリダによる現象学=形而上学批判の眼目であることはよく知られている。また、デリダがなぜ徹底的な現象学批判から出発して、〈差延〉〈痕跡〉〈原《アルシ》=エクリチュール〉といった概念を編み上げたかも、ほぼ通念になっている。  形而上学とは、世界全体に関する、完全な、限定されない知を、言葉によって言いあてようとする野望であり、それはいわば、理性によって〈神〉に成り変わろうとすることである。それが不可能な欲望であるにもかかわらず、形而上学がつねにそれをめざしていたということを、現在では誰も了解するだろう。しかし、じつはそういう了解は、マルクス主義世界観の持っていた暗黙の気圧が稀薄化されることによって、はじめて徐々に流れ出したのである。  信憑というものは、いつも人間の識閾のずっと底の方で生きている。かつては、たとえば吉本隆明がマルクシズム文芸理論を批判したように、現実と認識は「リニアー」な関係で結ばれていると、誰でもがぼんやりと信じていたのだ。またそういう信憑の空間が存在していたのでなかったら、デリダの〈差延〉や〈戯れ〉という言葉が、あれほど生きたリアリティを結晶化させ得たはずがない。  構造主義が新しい世界認識のモデルのカードを揃えていたとき、デリダは次のようなことを言おうとしたのである。〈現実〉はどうあるかの一切を完全な〈知〉として言いあてることは不可能だ。なぜなら、完全に言いあてられ、決定されたようなものを、ひとは〈現実〉と呼ばずにむしろ〈理念〉とか〈概念〉とか呼んでいるからである。〈現実〉とはもともと、決して言いあてられずに常に新しい様相として立ち現われてくるような、そういった生の局面《アスペクト》のことだ。それは、人間が生きてそれと向き合っているために絶えざる意味のゆらめき(=戯れ)として現われ出す、世界の手ざわりのことであって、決して世界の客観[#「客観」に傍点]のことではない、と。  テクストが「戯れ」であるというのは、テクストとは〈現実〉である、というのと同じことだ。〈現実〉を言いあてようとすると、「決定不可能」に陥るというのは、だからじつはトートロジーにすぎない。〈現実〉とは、世界の、決定できないという現われ方のことだからである。  さて、しかし、デリダがそこに形而上学的予断があると見なしたフッサールの「諸原理の原理」とは次のようなものだ。 [#1字下げ]……さて、一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理[#「一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理」に傍点]というものがある。それはすなわち、こういうものである。すべての原的に与える働きをする直観こそは[#「すべての原的に与える働きをする直観こそは」に傍点]、認識の正当性の源泉[#「認識の正当性の源泉」に傍点]であるということ、つまり、われわれに対し「直観[#「直観」に傍点]」のうちで原的に[#「のうちで原的に」に傍点]、(いわばその生身のありありとした現実性において)、呈示されてくるすべてのものは[#「呈示されてくるすべてのものは」に傍点]、それが自分を与えてくるとおりのままに[#「それが自分を与えてくるとおりのままに」に傍点]、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ[#「それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ」に傍点]、端的に受け取られねばならない[#「端的に受け取られねばならない」に傍点]ということ、これである。(『イデーン』第二四節—傍点原文)  私がいま机の上にある本を目にして、「ここに赤い本がある」と言うとする。そのときこの言表は、私に現象している[#「現象している」に傍点]「これは本だ」「この本は赤い」という〈内在〉のうちの〈明証〉によって支えられる。フッサールによればこの、いま[#「いま」に傍点]、ここにある[#「ここにある」に傍点]志向の充実(ありありとした=明証)こそが、「認識の正当性の源泉」である、つまり、「ここに赤い本がある」という言表の〈意味〉を根拠づけるような源泉である、とされる。  だが言うまでもなく、デリダにとってこの根源的な〈直観〉=〈意味〉、〈現前〉=〈再現前〉という図式は、正しい[#「正しい」に傍点]認識の根拠を保全しようとする「形而上学的」執着を示すものであった。  デリダは、フッサールによる、イデア的なものの反復可能性という規定を逆手にとり、現象学のひとつの根本概念によってもうひとつの根本概念をねらい撃つという例の仕方で、この図式の不可能性[#「不可能性」に傍点]を証そうとする。 [#1字下げ] こうしてわれわれは——フッサールの明白な意図に反して——〔表象〕そのものを——そしてそのものとしてのかぎりで——反復の可能性に依存させ、そして最も端的な〔表象〕、つまり現前を再現前の可能性に依存させるにいたる。われわれは〈現在の現前〉を反復から派生させるのであって、その逆ではない。(『声と現象』)  根源的な「直観」とか根源的な「現前」(=現在)は、決して存在しないし、かつて存在したこともない。なぜならそれはむしろ「再現前」つまりその反復に依存するからだ。  ヴァンサン・デコンブはこれを次のようにわかりやすく説明している。「最初のものは、そのあとに第二のものがあるのではなければ、最初のものであるのではない、と。したがって第二のものは、遅参者のようにただ単に最初のもののあとに[#「あとに」に傍点]到来するのではなくて、最初のものが最初のものであることを可能ならしめるのである」。「最初のものが最初のものであるのは、第二のものによってなのである」。「初めに反復があった」、「したがって、再現前化は存在さえしない。というのも現前化[#「現前化」に傍点](略)は決して生起したことがないのだから。原本がすでにして|写し《コピー》なのである。これは『非・原理の原理』といったものであって、デリダはこれによってフッサール的『諸原理の原理』を脱構築する」(『知の最前線』)。  私はここでデリダの〈差延〉や〈原=エクリチュール〉という概念の内実を詳しく見ることもできるが、さしあたってそれは重要でない。むしろ肝心なのは次のようなことだ。現前は再現前の反復の可能性に依存する[#「現前は再現前の反復の可能性に依存する」に傍点]。この理路が成し遂げているのは、要するに、〈直観〉—〈意味〉、〈意味〉—〈言葉〉という認識の直線的な(二元的な)対応性を、〈根源〉—〈パロール〉—〈エクリチュール〉…〈原書字《アルシエクリチユール》〉(反復可能性)—〈根源〉という、いわばゲーデル的な論理的円環構造へもたらしたいということなのである。  言うまでもなく、この円環構造は、絶対的〈始まり〉、絶対的〈源泉〉等々、つまり〈根源〉の確定のロジカルな禁止を意味する。またそれに伴って、〈知〉のさまざまなレベルでの厳密な〈言いあて〉の不可能性、客観[#「客観」に傍点]の非在を宣言することになる。それは、だから形而上学一般の破産を告げることになるのである。  しかし、デリダのこういった理路は、じつは本質的にレトリカルなあるいは論理上の[#「論理上の」に傍点]ものであって決して論理的なものではない。なぜならのちに見るが、それは〈同一性〉と〈差異〉の間で、「一致」の不可能性を証明するという戦略をとるのであり、その限りで、じつは「一致」の前提の内部に[#「内部に」に傍点]あるからである。それに反して、フッサールの「諸原理の原理」は、認識の論理的限界点を指し示し、そのことによってむしろ「一致」の前提そのものを破砕するのである。  たとえば柄谷行人は、さきに挙げた「探究」で大変興味深いことを言っている。「われわれは、ある言葉(記号)で何かを了解するとき、つまりその『意味がわかる』とき、『意味』をどこかに想定したくなる。『意味がわかる』以上、『意味』は在るはずだ。それはどこに在るのか。この問いこそわな[#「わな」に傍点]であり、答えるべきではないのだが、『受けとる』側から出発するかぎり、この問いは不可避的にあらわれる」。  柄谷が言わんとするのはおそらく次のようなことだ。〈意味〉とは何かという問いは、私たちが他人の言葉を聞いてその〈意味〉が判ったと確信する[#「確信する」に傍点]、その事実が呼び寄せているのであって、逆ではない。ところが、この問いは、概念的形式を必ず要求する。たとえばシニフィエとシニフィアンの「一致」が、あるいは、シンタグムとパラディグムの正しい語用が、〈意味〉を生んでいる、というように。  たとえば誰かが、「バカ」と言い、それを聞いて私が、〈意味〉を了解するとする。ところが、よく考えてみると、そのとき、「バカ」の〈意味〉とは何かということを言い表わすことは、驚くべきことに決してできないことが判る。〈意味〉とはじつは私のうちに起っているある事実の呼びとどめ[#「事実の呼びとどめ」に傍点]なのであって、私の心像を指し[#「指し」に傍点]ているのでもなければ対象物のこと[#「こと」に傍点]でもないからである。しかし、この問いにむりやり答えようとする限り、〈意味〉は言語の差異的体系の構造[#「構造」に傍点]としてつかまれるほかはない。ソシュールの後の現代言語学が果そうとしてきたのはそういうこと以外ではなかった。そしてまさしくそこに、原因と結果をとり違える「遠近法的倒錯」が生じたのである。  フッサールは〈意味〉についてこう述べている。 [#1字下げ] ≪意味≫とは何かということは、色や音とは何かということがわれわれに与えられているのと同様、直接的[#「直接的」に傍点]にわれわれに与えられているであろう。それはもうそれ以上定義されず、記述的に最後のものである。われわれがある表現をしたり、それを理解したりするたびに、その表現はわれわれに対して何かを意味し、われわれはその表現の意味《ジン》を顕在的に意識するのである。(略)したがって現出する各音声の現象学的相違と同様、それぞれの意味の相違もわれわれに明証的に与えられている[#「明証的に与えられている」に傍点]。(『論理学研究』第二巻第三一節—傍点引用者)  ここでは現象学の発想が事態の的を射抜いている。すぐのちに見るように〈意味〉とは、人間にとって色や音の明証のようにそれ以上由来を辿れない直接的な所与であり、「記述的に最後のものである」。そしてこのことは非常に重要な意味を持っている。つまり還元の方法は、私たちがふだん自明のものとして抱えている〈構成〉された諸対象(ノエマ)を遡行してゆき、最後にそれ以上〈構成〉を辿れないような限界点につきあたるのだ。これは、人間が自己や世界を解析していったときに、どうしてもそれ以上解析を続けられなくなる地点として必ず現われてくるような認識の限界点であり、この限界点は、人間が人間存在であることに必然的につきまとう論理的なゼロ地点である。  しかし、それを形而上学と見なすのは馬鹿げている。このゼロ地点がなぜ解析し得ない一点なのか、なぜそれが認識の限界点なのかは全く明らかなことであり、さらに重要なのは、そのことが明示されることによって、はじめて、なぜあの「遠近法的倒錯」、「一致」の前提が生じつづけていたのかが十分に了解されるからである。つまりこのゼロ地点の論理的な確定[#「確定」に傍点]こそが形而上学を解体し得るのであって、デリダが考えたように、その抹消[#「抹消」に傍点]が形而上学を解体し得るのではない。むしろそれは、形而上学を延命させるのだ。  たとえばフッサールに「本質直観」という概念がある。メルロ=ポンティは、「本質直観」を、「演繹的認識でもなければ、単なる経験的認識でもない認識様式」の発見としてもたらされたものであり、「同時に普遍的でもあり具体的でもある」ような認識のあり方なのだと、彼特有の仕方で説明している(『眼と精神』)。しかしこの説明は間違いではないとしても適切とは言えない。「本質直観」という概念の根底についてフッサールは、『厳密な学としての哲学』の中で、全く明瞭な定義を下している。 [#1字下げ] ところで、内在的なものがそれ自体自然ではなく、自然に対するものであるとすれば、われわれは、この心的なものの存在として何を探究するのであろうか。心的なものが、反復してとらえられ経験科学的に規定され、かつ確定される実在的統一として、その「客観的」な同一性において規定されえないのであるならば、またそれが永遠の流れからとり出されず、相互主観的に妥当する対象となりえないのであるならば、われわれはいったい、この心的なものにおいて何を把握し、何を規定することができるのであろうか。客観的統一として何を確定することができるのであろうか。  フッサールの言おうとしているのは次のようなことだ。私たちが「自然」と呼んでいる対象は現象学的には「超越」的対象である。そしてこれを規定するのにひとは、「経験科学的に」、つまりたとえば一冊の本は、重さ、ページ数、紙質という「客観化」された因果系列のまとまりとして、それを捉えるという方法をとる。ところが、私の目を通して私のうちにある〈本〉の知覚、つまり「内在」としての〈本〉はどうその「客観」を規定すればよいのか……。  フッサールはこの問いに対してこう答える。「現象そのものは自然[#「自然」に傍点]ではないが、それは直接的な直観において把握されうる本質[#「本質」に傍点]をもっている」「現象を直接的な概念によって記述する言表はすべて(略)、本質概念によって、つまり本質直観において充実される概念的語義によって、現象の記述を行なうのである」。  ひとが「超越」的対象を規定する唯一の仕方は、科学的因果関連の秩序を記述することである。そしてそれに対し、「内在」の現象を規定する仕方を「本質[#「本質」に傍点]」観取と呼ぶと彼は言うのである。ではこの「本質」はどのように言いあてられるのか。「もしわれわれが直覚的に『色』を完全な明証に、つまり、完全な所与にもたらすならば、この所与がすなわち[#「この所与がすなわち」に傍点]『本質[#「本質」に傍点]』なのである[#「なのである」に傍点]」(傍点引用者)。  ここでフッサールは「本質」ということに関してすこし判りづらいが、驚くべきことを言っている。  私がぼんやりと本の赤い表紙を見ながら考えごとをしている。そのときには「本質」は与えられていない。しかしやがて、私が赤い表紙を注視して「あ、これは赤いな、真赤な色だな」とはっきり感じたら(明証として与えられたら…それはたとえば机の木目の感触との絶対的な違いを含んでいる)、そのとき私に、「赤い色」の「本質」が絶対的に[#「絶対的に」に傍点]もたらされている、と言うのである。フッサールの「本質直観」とは、(のちに彼は『イデーン』で、この〈内在〉の本質直観と、〈超越〉の本質直観とを区別しているが)事物的因果関連の見方を捨てて、内在の事象をいわば直接話法[#「直接話法」に傍点]として捉える記述法を意味する。  表紙の赤い色と机の木目の感触が、絶対的に違ったものとして私の〈明証〉に生じて(現前して)いる。だからこの「本質」が、「その独自のしかたで客観的[#「客観的」に傍点]、絶対的に妥当する確固とした言表[#「絶対的に妥当する確固とした言表」に傍点]」として「可能である[#「可能である」に傍点]ということ、これらのことは、先入見をいだかないものならだれにでも自明なことである」(同)。違いが〈意識〉にはっきりと与えられている。ならばそれを言表にもたらすことは原理的に可能であるはずだ。しかも、これはむしろこう言い換えることができる。私がいま「赤い本が机の上にある」と言う。そのときこの言表が〈意味〉を生じたり、〈意味〉がズレたり、うまく言いあたったりするということ一般は、じつはあの「明証[#「明証」に傍点]」が生じている[#「が生じている」に傍点](現前している)という事実の周囲に拡がってゆく、事後的な意味関連なのであると。これが「すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であるということ」(「諸原理の原理」)、の�意味�にほかならない。  さきに述べたように、浅田彰は構造主義の限界を「力を事後的にしか見出せないということである」と言っている。だがこの言い方は、矢は的の近くを飛んでいったが、方向ははじめから外れていたと言わねばならない。なぜならじつは、〈力〉とは本質的に「事後的にしか[#「事後的にしか」に傍点]」見出せないようなものにほかならないからである。つまり〈力〉とは結局変化の因果を�説明�するものであり、その限りで、必ず変化してしまった[#「してしまった」に傍点]という事実によって、その事実ののちに、はじめて析出される概念だからである。むろん浅田は、構造主義がびくの底から逃がした〈力〉という魚を、もういちど〈構造〉のうちへ投げ込もうとしているために、そういう言い方になってしまうのだ。 〈意味〉は、〈色〉や〈音〉や、あるいはまた〈痛み〉が直接私たちに与えられているのと全く同様に、直接的に現前している[#「現前している」に傍点]。そしてこの現前が、〈意味〉とは何か、〈色〉とは何か、〈痛み〉とは何かという客観的な因果系列の問いを、つまり「超越」的対象に関する形式的な問いを可能にし、生じさせているのにほかならない。〈力〉を原因であると考えるのは転倒であり、それはいわば事実が呼び寄せる因果系列の痕跡にすぎないのだ。 〈意味〉は「それ以上定義されず、記述的に最後のものである」とは、それは因果系列による遡行がつきあたる、いわば客観的認識の可能性の限界点であるということであり、だからフッサールはこの明証の「本質直観」に立ち戻ることを、「絶対的な無前提への還元」であり、「通常の意味で『自明』とされる一切の前提の前提」(『イデーン』あとがき)を確認することになる、と言うのである。  それを「現前する」と言うのは、それが断固として存在するのではなく、この限界点としての明証は、あるというほかない[#「あるというほかない」に傍点]ものだからである。デリダは、フッサールの「現前」、現象学的な「生ける現在」を次のように批判する。 [#ここから1字下げ]  点性[#「点性」に傍点]という概念、〔点〕としての今[#「今」に傍点]という概念が(略)そこではいぜんとして主要な役割を演じている。たしかにいかなる今[#「今」に傍点]をも、瞬間および純粋な点性として、遊離することはできない。フッサール自身がそのことをはっきり認めている……(略)にもかかわらず、この拡がりはやはり、点としての、≪源泉点≫としての今の自己同一性から出発して考えられ、記述されている。(『声と現象』)  根源的印象と過去把持に共通な根源的地帯における、今と非‐今との、知覚と非‐知覚との、こうした連続性をひとたび認めるならば、ひとは Augenblick〔瞬間〕の自己同一性のなかに他のものを迎え入れることになる。すなわち、瞬間のまばたきのなかに非‐現前と非明証とを受け入れることになるわけである。まばたきには或る持続があって、その持続が眼を閉じさせるわけである。このような他性こそは、現前において生じうるであろうあらゆる分裂に先立って、現前の、現前作用の、したがって Vorstelluug〔表象〕一般の、条件でさえある。(同前) [#ここで字下げ終わり]  今[#「今」に傍点]を純粋な点性と見なす限り、それはほとんど限りなく無に近い一切片にすぎない。いったいひとは、なぜこのような点性としての現在のうちで、ありありとした豊かな今[#「今」に傍点]の経験を得ているのだろうか。これが、ここでデリダが提示している問題の形である。そして、これはまた、飛んでいる矢は「今」のうちでは静止しているから決して前に進むことができないと説いた、ゼノン以来の形而上学の伝統的問題にほかならない。  ベルグソンが「持続」という考えでこれに答えようとしたことはよく知られている(もちろんこの答えは満足さるべきものではない)。デリダはこれに、〈差延〉とか痕跡という概念で答えようとするのである。純粋な点としての今のうちに非‐今をたえず繰り込み、現前のうちに再現前をたえず到来させるような「反‐復の可能性」、「その可能性が今の純粋な顕在性に導き入れる差延の動きそのもの」、それらが「今の純粋な顕在性」(=生き生きとした現在—筆者注)を可能にしているのである、と。  だから、デリダにとっては現象学が確保しようとするような源泉点としての〈今〉は存在し得ない。根源としての〈現前〉も存在し得ない。なぜならばそれらを可能にしているのは、むしろ「反復の可能性」「痕跡」「差延」と呼ぶべきものであるから。  こういうデリダの形而上学批判の矢は、果して的を射抜いているだろうか。      5[#「5」はゴシック体]  私の見る限り、デリダもフッサールも等しく近代的な認識論のパラダイムに根本的な批判を投げようとした。しかし、ふたりの戦略とその結果の意味合いは大きく違っており、ここでその違いを確かめておくことが必要である。  フッサールはまず伝統的な経験論、観念論の立場をとりこれを徹底的に遂行した。超越論的還元の方法が見出したのは、もはやそれ以上は〈構成〉上の因果が辿れないような、根源的直観という認識論上の限界点である。むろんこれは、カントの理性批判というやり方とは根本的に違っている。カントは「物自体」という概念の底に客観世界を前提[#「前提」に傍点]しており、そのため逆に「不一致」を二元論として制度化してしまう。  近代社会の中で、はじめて、普遍化された因果性[#「普遍化された因果性」に傍点]の理念が自明のものとなる。すると認識はその本質的な限界を越えて因果の全体の系列を思い描き、そこに〈客観世界〉という信憑を成立させるに至る。そしてまさしくそのために、一切の人間の認識は、この〈客観世界〉との「不一致」を見出し、またそれゆえにそれとの「一致」を夢みるようになる。『危機』の中でフッサールはこう説いている。だがこの近代的〈客観〉理念が本質的に転倒であることが明らかになるためには、現象学が示したような還元の方法が不可欠だった。それは、認識の根拠と限界を確定[#「確定」に傍点]するために不可欠な作業なのである。フッサールは「生き生きした今」の構成に関してこう書いている。 [#ここから1字下げ]  したがって時間を構成するそれらの現象について「それらはいま存在しており、以前にも存在していた」、「それらは時間的に継起する」、「それらは同時に並存している」などと言うのは[#「などと言うのは」に傍点](略)無意味である[#「無意味である」に傍点]。  われわれとしては「この流れは、構成されたものにならってそう呼ばれる何ものか[#「何ものか」に傍点]ではあるが、しかしそれは時間的に≪客観的≫なものではない」とだけしか言えない[#「とだけしか言えない」に傍点]。それは絶対的主観性であり、そして「比喩的に≪流れ≫と形容され、顕在性の時点、根元的な源泉点たる≪今≫の時点に発源するもの」が有する種々の絶対的特性を備えているのである。われわれはその根元的な源泉点と一連の残響の諸契機を顕在性の体験のうちに所有しているのである。こういったすべてを言い表わす名称をわれわれは持ちあわせていない[#「こういったすべてを言い表わす名称をわれわれは持ちあわせていない」に傍点]。(『内的時間意識の現象学』第三六節—傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  なぜ「生き生きした今」が、そのような「種々の絶対的特性を備えている」のかを、私たちは決して言うことができない[#「決して言うことができない」に傍点]。なぜなら、静かなうなりをひく矢のひととびが、そのしなやかな力感として私たちに「経験」されるというのは、いわば人間の「経験」の原事実性というほかないものであり、繰り返し述べてきたように、この事実こそ、なぜ点性としての今のうち[#「うち」に傍点]に「ありありした現在」が可能かという因果関連の問いを成立させるのであって、その逆ではないからだ。どんな〈力〉がこの〈神業〉を成立させたのかと本気で問うのは無意味[#「無意味」に傍点]であり、もしひとが〈力〉とは何かをほんとうに問いつめたら、必ずこの因果の限界につき当るのである。  もはや明らかなように、〈差延〉や〈反復の可能性〉が充実した今を可能にしているというのは、〈根源〉があると言う以上に転倒した言い方なのである。デリダの〈差延〉という概念は、言うまでもなく、「同一」と「非同一」、「今」と「非‐今」という形式論理の極限に現われたものだ(しかし、「同一性」「非同一」「差異」という概念それ自体、本質的に対象世界の因果関連的把握の内部のものなのである)。「今」は「非‐今」なしに成立しないという見方それ自体、ゼノンの問題設定の内部[#「内部」に傍点]にある。  これに対して現象学は、ただ事態を「呼びとどめる」のである。注意して読めば判るが、フッサールは充実した今の「経験」をそれ以上分析し得ないものと見なし、その感触を記述しようとしているだけだ。そこにはかたまりのように流れていく≪今≫と、それについてまわる一連の残響のようなものがある。実際私たちは「今」の経験の感触をそのようにしか言いようがないのである。      *  近代社会に普遍因果性の理念化がゆきわたったとき、ひとびとは暗々裡に、一切の事象を因果関連の系列として記述し尽せば、世界の客観をつかみ取り得ることになると考えた。しかし、すでにヒュームが直観していたように、それ自体[#「それ自体」に傍点]としての因果関連というものがもともと存在しているわけではない。人間の「経験」として立ち現われる原事実性と呼ぶほかないものが、その周りに因果関連の網の目をはりめぐらせるのだからである。ハイデガーの言葉を使うと、「現存在」の原事実性が、つまり人間の〈身体〉や〈欲望〉の規定性が、即自としての自然を(これは決して客観世界[#「客観世界」に傍点]ではあり得ない)意味の秩序へと構造化[#「構造化」に傍点]する。このことが、Aがあるから[#「から」に傍点]Bがあるという因果の視線とその客観化を可能にするのである。  ところが、近代的認識論や諸科学は、因果関連を呼び寄せている「経験」の原事実性を、まさしく因果関連の中で問い続け、そのむこう側[#「むこう側」に傍点]へ踏み越えてゆこうとする。フッサールやメルロ=ポンティが心理学批判で言おうとしたのはそのこと以外ではない。近代的科学は、この認識論、因果系列の全体的な完成が客観の認識であると信じていることによって、さまざまな領域で不可避的に「決定不可能性」を露出させるのである。  したがって、注意すべきなのは、「決定不可能性」を言い、真理の不在を言い、何も決定しないで「戯れ」の情熱を表白することは、じつは全く近代的な「一致」の問題設定の内部[#「内部」に傍点]にあることによって可能になっているのだ、ということである。〈真理〉への欲求と、〈真理〉を相対化する懐疑派の欲望は、ギリシャ哲学以来、ひとつの同じパラダイムに属しているのである。  デリダは〈超越〉や〈根源〉の問題を、同一性、現前、全体、絶対という概念において措定し、〈差延〉という反[#「反」に傍点]=超越[#「超越」に傍点]の記号によって、これらの概念の成立根拠が、じつはその反対物としての差異、非‐今、分割、相対といったものに依存していることを示した。それによって彼は〈超越〉や〈根源〉を解体させ得ると信じたのである。しかしこれは見てきたように問題の枠組を全く動かしはしない。  現象学よりもむしろデリダ寄りのデコンブでさえ、〈差延〉の意義を次のように総括している。「差異と非・差異との同一性は、同一性と非—同一性との(ヘーゲルによって措定された)同一性と判別されえない。弁証法的同一性と差異が同じものであるか否か、誰にも言えないのである」「結局のところ、ヘーゲルの勝利もやはりそれと同様に、ヘーゲルの敗北から判別されえない。ゲームの結末は決定不可能である。ヘーゲルの勝利はヘーゲルの敗北である。彼の敗北は彼の勝利である。ゲームは果てしないだろう」(『知の最前線』)。  問題は、現代思想の大方の流れがそう進んだように、〈根源〉から〈差延〉の方向にむかってあるのではない。現代社会はあの客観主義の「転倒」、「遠近法的倒錯」を克服し得ていないし、それは依然として再生され続けている。〈真理〉とは何か、認識とは何か。何が思想にとって可能なのか。こういった問題はまだ未決なのであり、その端緒を引いて見せたのは、決して構造主義やポスト構造主義ではなく、むしろフッサールやソシュールなのである。 [#改ページ]   ㈽ [#改ページ] ———————————————————————————— 実存の根底 ————————————————————————————      1[#「1」はゴシック体]  わたしはずっと以前から〈欲望〉という問題を自分なりに考え続けていたので、岸田秀氏の〈欲望〉についての考え方に大きな興味を抱いていた。岸田氏の考え方は、非常に首尾一貫した徹底性を持っていて、何度も反|芻《すう》されつきつめられた理路の動きがそこにこめられていると思える。  たとえば岸田氏は「欲望とは欲望についての説明(物語)である」と言うのだが、この言い方には氏の考えの核心がよく現われている。  これはまず、欲望とは、何か人間の行為を本能的生理的に決定(規定)している実在的な内実ではないということだ。空腹になったらご飯を食べるとか、寒いときには服を着るというのは、〈欲望〉というより生理的欲求と言ったほうがいい。〈欲望〉とは、どうしても東大に入りたいとか、美しいあの人を恋人にしたいというような人間的な心の動き[#「心の動き」に傍点]である。つまりそれは、彼自身が作り出した〈自我〉と〈世界〉のあいだ[#「あいだ」に傍点]の関係の説明(自分はこう存在すべきだというような物語)のことだ、というのである。  もっと簡単に言うと、〈欲望〉とはなんらかの実在[#「実在」に傍点]というより、幻想(あるいは観念)のかたちである、ということだ。だが、そう言っただけでは、まだ判りにくいかも知れない。  たとえばある男がある女に恋をする。このとき彼の〈欲望〉を性的なものと見なすことも精神的なものと見なすこともできる。しかし、それは彼の〈欲望〉を外側から解釈しているだけである。むしろ次のように考えてみる。  彼は、ある場合には彼女を、自分にとって一生に一度の、天が与えた取り換え難い「ただひとりの人」だ、と考えるかも知れない。またある場合には、オレはこの女とあそんで[#「あそんで」に傍点]いるだけだ、と考えることもあろう。このとき彼のこの自己解釈[#「解釈」に傍点](物語を与えること)こそが、彼の彼女に対する〈欲望〉の内実[#「内実」に傍点]なのである。  彼の〈欲望〉のエネルギーは、この説明(物語)に沿って流れ、その形のうえで膨れ上がるし、またそれゆえの挫折が生じたりするからだ。  こういう岸田氏の考え方には、ひとつの徹底したつきつめがある。岸田理論は大変わかり易いうえに、ひとの意表を突くところがあり、それは今まで使われていた概念を、トランプのカードをめくり返すように、くるりと反転させてしまうような形で現われる。  だが、岸田理論のそういった面白さは、わたしにとっては両義的である。岸田理論は、既成の理論(世界の説明)を「幻想」というキーワードで次々に解体させてしまうのだが、その説明がいわばツボにはまりすぎて、それ自身がまた〈世界の説明〉になってしまうところがあるように思える。これは岸田氏の本意ではないだろう。そのことをよくつかむためには、岸田理論のどこが徹底しているのかをひとたび押さえてみる必要があるように思える。  たとえば、ラカンは「欲望とは存在欠如の換喩である」と言っている。これは、人間の欲望は、最もおおもとでは、ある全体へ戻ろうとする欲求だが、現実世界ではそれは、ただ具体的な欲求によって代理(=換喩)される形をとるほかない、ということだ。岸田氏にも、ほぼこれと同じ考えがある。だがわたしの感じでは、ラカンの精緻な構造論より、岸田氏の言い方のほうに、〈欲望〉という問題の、日常世界上の実質に触れるような機微があるように見える。  ほんとうは、ラカンのような構造論は、もし臨床的な有効性を持たないなら、最終的にはあまり大きな意味を持たない。それはフロイトの視線を内在的に批判しつつそれを包括しているわけではないからだ。ラカンの「欲望とは何か」という設問に対する答えは、結局、欲望とは失われた全体性への郷愁であるとか、あるいは過剰な〈意味〉の散乱に命がけの形式性を与えることだ、という言い方になるだろう。それは、伝統的な実在論や、実証主義や、コギト主義に対して大きなアンチ・テーゼになっている。しかし、岸田氏の「欲望は欲望についての説明である」という言い方には、また全然違ったパースペクティヴが存在するのである。  それが、他人から見てどれほど不合理なものと見えようと、ある人間の欲望の内実とは、彼が自分の心の動きに与えている(あるいはつけ加えている)ところの概念的な枠組(幻想)そのものである。要するにそう岸田氏は言っているのだとわたしには思える。たとえば、氏は、人間は、目の前にあるコップが〈自我〉であると思い、そう行為して生きてゆくこともあり得ると言うが、これはじつに鮮やかな言い方である。  実際、ある母親は、「この子こそわたしの命」と思って生きるし、ある人間は、国のために尽すことこそ自分の究極の意味だと考えて生きることがある。外側から見れば、これは奇妙な幻想にとりつかれていると見えるかも知れないが、しかし、じつは誰でも大なり小なりそういう形で、〈私〉の意味[#「意味」に傍点]を社会の中で選び取って(あるいは与えられて)生きているからである。  ある意味で、このつきつめ方は、現象学に通じている。つまり、ここでは、欲望という、一般的には実体化[#「実体化」に傍点]されて考えられている概念が、彼が世界をどう所有(=意識)しているか、また、世界が彼にどう現われ出ているかという一点に、「還元」されているからだ。  しかし、わたしはむしろここで、ヘーゲルを想起させられる。  カントやヘーゲルの哲学などは、現在ではどうしようもなく古いと思うひともいるだろう。だが、わたしの感触では、彼らの思考の動き方は、ギリシャ悲劇やシェークスピアに匹敵するほど面白いし、その思考の徹底性のすごさというのは、思想内容を超えて、現在でもめったに存在しないようなものなのである。  ヘーゲルを読んでわたしがひどく衝撃をうけたことのひとつに、物とはじつは概念である、という言い方がある。これはわたしたちの常識からは破天荒な言い方というほかない。しかし、『精神現象学』を読むと、どうしてもヘーゲルはそう言っているようにわたしには読めるし、またこの本をすこしていねいに読み進んでゆくと、しまいにはどうあがいてもこの破天荒な主張に納得せざるを得なくなってくる。  フッサールは、ヘーゲルをほとんど読まずに、物とは意味である、とこれまたとてつもない言い方をした。そして彼の言い分をていねいに辿ると、やはり誰でも最後にはこの主張にうなずかざるを得ないはずである。ヘーゲルやフッサールは、むろんある側面では批判されるべき点があるが、少なくともいま言った点では、どんな現代思想も彼らを超え得ていないのだ。  優れた思想を読むという体験には、うまく表現できないが必ずこういう感触があり、それが思想という体験のエッセンスなのだとわたしは考えている。つまり、それは、わたしたちが常識的に使っている言葉の意味(概念)を根底からひっくり返してしまうのだが、単にそれだけでなく、なぜこういうひっくり返りが可能になるのかということをも、じつに明らかに指し示すのだ。そしてさらにそのことによって、ふつうは容易に動くことのないわたしたちの世界|像《イメージ》のあり方を、いつのまにか編み換えてしまうのである。  さて、物とはじつは概念であるというヘーゲルの考え方を、わたしなりに言い換えると、ひとが「物」と呼んでいるものは、じつは人間がある対象を理解しているその仕方を指している、ということになる。たとえば〈コップ〉の存在[#「存在」に傍点]は、人間にとっては、彼がそれを〈コップ〉という概念に応じてながめたり使ったりする、その仕方においてのみ現われる。だから、彼がもしもそのコップを、たとえば鍵盤楽器として使うなら、それ[#「それ」に傍点]は、突然、いままで全く考えられなかった(隠されていた[#「隠されていた」に傍点]のではない)ような仕方で、存在し始めるわけだ。  むろんじつは、こういう比喩的な解説はあまり厳密なものではない。しかし、この場合、「存在」という言葉の通常の概念が、ある変容をこうむることは、明らかであろう。「存在」とはほんとうは客観的な[#「客観的な」に傍点]ものではなく、せんじつめて考えるとそれは、人間にとっての[#「人間にとっての」に傍点]、ものの在り方の側面なのだ、ということを、ヘーゲルの考え方は示しているのである。  ところで興味深いことに、ヘーゲルはこの考えを綿密に押しすすめて、世界とは概念の網の目であるという考えを導き出すに至る。ヘーゲルによれば、人間の意識の運動のバネ、原動力になっているのは、「自己意識の自由」ということである。これは、さきほどのラカンの、欲望の根本は、安定した〈全体〉へ立ち戻ろうとする傾性だというニュアンスとそれほど違ったことではない。サルトルは「欲望」と言わずに、人間の「自由」とは、全体へむかおうとする「欠如」の意識だ、と言っている。  ヘーゲルによると、自己意識は、つねに自分の完全な「自由」を求めようとする欲求を持っているが、しかし必ず現実[#「現実」に傍点]の抵抗を受けて挫折する。だが、挫折する度に、その原因をよくつかむことによって、自己意識は進歩(=自らを止揚する)してゆく。それが、自己意識、理性、精神、というヘーゲルの発展段階にほかならない。そしてこの発展段階は、最後には「絶対知」、つまり世界全体に関する究極の知、に近づく認識の深まりを意味しているのである。  こういうヘーゲルの考え方には、世界についての、かつて誰も考え及ばなかった画期的な洞察と、また、現在どうしても批判し尽さなくてはならない発想とが、同居している。画期的な洞察とは、〈世界〉とは、じつは自我が世界に対して張りめぐらせる観念(=幻想)の網の目のかたちのことであり、それは外部の(自分以外の)幻想のかたちとぶつかり(つまり他者や社会と出会い)、そこできたえられて徐々に普遍的なものになっていく、という考え方である。また批判されねばならないのは、その深まりが最終的には絶対の知にゆきつくはずだ、という「形而上学」的確信にほかならない。  ところで、わたしの考えでは、岸田氏の欲望についての考え方は、このヘーゲルの画期性をよく継いでおり、しかもその〈形而上学〉的な急所を的確に撃っているのである。  たとえば、岸田氏によれば、自我とは形であり、それは世界についての〈物語〉である。こういう言い方をするには相当のふんぎりが要るのだが、この考えはさしあたり、『精神現象学』における、「ストア主義」「スケプチシズム」「不幸な意識」という自己意識の階梯に重ね合わせられる。  ヘーゲルの言う、「自己意識の自由」とは、人間の意識は、どうしても独立自存の〈私〉という像《イメージ》を求めようとするということだ。「ストア主義」とは、外からのさまざまな要素の侵入をなるべく切り捨てて、独我論的な〈私は私である〉という安静の境地を得ようとする試みを意味する。「スケプチシズム」は他人のいろんな意見にシニックな文句をつけて廻って、われ知らずオレは偉いんだと思いたがることだ。そして「不幸な意識」とは、ほんとうのもの[#「ほんとうのもの」に傍点]に届きたいのに、自分はどうしてもそこから隔てられているという焦燥である。  ヘーゲルのこういう論理の中心をなしているのは、人間の精神は、〈自分〉と〈世界〉との関係を、つねに整序され、統一された、調和的な像としてつかもうとする欲求を、必ず持っているという考えである。岸田氏の「自我とは世界についての物語である」という言い方は、まさしくこのヘーゲルの洞察と響き合っているのである。しかし、ここで重要なのは、ヘーゲルがこの人間の諸〈物語〉の階梯を、ついに完全な知、〈世界〉と〈私〉との完全な調和へゆきつくべき道すじと見なしたのに対して、岸田氏は逆に、この完全な〈物語〉への欲望を、そもそも神経症的な〈病気〉と見なしているということだ。  岸田氏には、人間の〈自我〉は、動物に較べると、〈病気〉にかかったゆがんだ〈自我〉である、という理論上の仮説がある。つまり、人間の、「どうしても独立した自我でありたい」という欲望は、いわばありもしない「全体像」への妄想をかきたて、調和的「全体」であり得ぬことの不安と恐怖から逃亡しようとする、空しい[#「空しい」に傍点]欲望なのである。ヘーゲルが、この「自己意識の自由」に、人間が人間たり得る[#「たり得る」に傍点]ための根本動機を見ていたのに対し、岸田氏は、むしろそこに、神経症的な妄想、を見ようとしているわけだ。したがって、岸田氏独特の、どんな欲望も幻想だという響きが現われることになるのである(むろん氏は、それにもかかわらず人間にとってこの幻想としての欲望は、不可避のものだとも言っているが)。  この響きは、岸田理論のいわば基調音なのだが、そのことをどのように受けとめればいいのだろうか。  ヘーゲルのつきつめの透徹性というのは、言ってみれば、真面目で誠実でおそろしく優秀な学問的エリートが、自分の世界体験のありようを徹底的に辿り返してみせたところから来ている。だから、ヘーゲルの『精神現象学』は、生半可ではない真面目な人間の、徹底した教養小説であり、市民社会での、およそ真面目な精神の世界体験のありようを、驚くべき密度で言い尽しているところがある。つまり、何ごとにかかわらず、いっしょうけんめい本気になって仕事をしたり、勉強したり、子を育てたりする人間の、生活上の心ばえの機微を、言い尽しているところがあるのだ。  この心ばえの機微のことを、わたしたちは〈物語〉という言葉で呼んだわけだ。いったいひとは、この世の中でいっしょうけんめい生き、他人と関係を持ち、おしゃべりし、あれこれ努力することによって、結局なにを果そうとし、また果しているのか。その意味は一体何なのか。ヘーゲルが問うたのはそういう設問だった。そして彼は、人間は結局真面目に努力して生きることによって、自らを〈歴史〉的、〈社会〉的な〈精神〉(=人倫)として成熟させてゆくのだ、それが生の意味だ、と確信をもって答えたのにほかならない。  ところが、岸田氏は、誰もうすうす知っているように、稀有な、そして本質的なものぐさ人間であり、ヘーゲルとは対極的な資質である。氏はいわばヘーゲルの真面目精神の中に、ものぐさ精神に対する無意識的な抑圧性をかぎとって、その背骨を抜きとろうとしているのである。  真面目人間は、仕事でも何でもいっしょうけんめいやろうとする。仕事ができるとそれは無意識裡に〈力〉の意識を生む。それはまた社会的な価値感(観)に、暗黙のうちに支えられているから、いつのまにか、真面目な心情のままで、できない[#「できない」に傍点]人間や、弱い人間や、ハンディキャプトを抑圧してしまうことになる。弱い人間は弱い人間でまた、知らず知らず、強さに憧れ、自分の弱さをさまざまな〈物語〉に転化したり、ルサンチマンを生み落としたりする。  岸田氏の唯幻論のリアリティは、なによりこういった、人間の生活心理上の機微につきあたっているのだと、わたしには思える。そして氏のそういう思想的肉質に、わたしは基本的に共感している。      2[#「2」はゴシック体]  さて、しかしここで話をもとに戻すと、それにもかかわらず岸田氏とわたしとでは、〈欲望〉に関して、かなり大きな視点のちがいがある。対談(『物語論批判』)の中でもそのちがいが重要な論点になっているが、それをひとことで言うと、氏の考えは〈欲望〉の構造論(本質論)だが、わたしの〈欲望〉論は、人間の存在のあり方、つまり欲望とか意識とか精神といったもののあり方に関する、存在論的性格[#「存在論的性格」に傍点]を持っている、と言えるように思える。  たとえば岸田氏によると、「すべての欲望は唯一の原型的欲望に集約される。それは自我の形を整え、自我を安定させたい欲望である」。そしてこの自我安定の機制として〈物語〉(世界についての説明)が存在し、したがって、〈欲望〉とは彼が抱いている自分の〈欲望〉についての説明である、と言われる。  岸田氏のこの言い方はむろん非凡な一貫性を持っているが、それが本質論[#「本質論」に傍点]だというのは、次のようなことだ。  サルトルは、人間の自由とは、即自存在の固定性に、〈無〉という否定のひびわれをもたらすような原理だと言っている。これは、ヘーゲルの「自己意識の自由」とそれほど違ったことでない。ヘーゲルを道徳的に遡ると、人間は完全性や至上性に達そうとする実践的本性を持つと考えたカントにゆきつく。だが、要するに彼らは、人間存在は、〈全体〉や〈完全〉という理念を抱く能力を持ち、それがゆえに「自由」な存在だ、と言っているのである。  岸田氏の言い方は、それらをちょうど逆さにしてぶらさげて見せたことになる。人間存在は何の因果か本能を失ったために、つねに〈全体〉や〈完全〉という自我安定のイメージに強迫されることになった。そのため人間は、「嘘の物語」(『幻想の未来』)を自分の欲望のありかとして追い求めつづけなければならない、というふうに。  こういう説明の仕方をわたしは本質論と呼ぶが、もうすこし別の例を挙げよう。  マルクスは、人間の〈意識〉とは、人間と自然とが関係することによって生じた一種の〈疎外〉(外化)だと言う。またジョルジュ・バタイユや吉本隆明の場合は、〈意識〉を、生命(有機物)が無機的存在に対して持つ「反動《リアクシヨン》」あるいは「異和」(「不連続」、「原生的疎外」)と見る。  フロイトでは、人間の〈意識〉は、生物における本能的な反応の機構の〈代替物[#「代替物」に傍点]〉と見なされ、ユングは、意識〈表象〉は、脳の生理学的過程の〈模写〉なのだと言っている。フロイトやユングでは、〈意識〉とは何かという問いは、どうしても機械論的色彩を帯びることになる。  さて、これらの考えに共通しているのは、〈意識〉や〈自由〉や〈欲望〉とは何かということを、いわば概念上のアナロジーとして捉えようとする点にほかならない。つまり、それらは人間の〈心的なもの〉を捉えようとするのに、たとえば、機械の中の一機能、一部品になぞらえたり[#「なぞらえたり」に傍点](模写)、存在—無、静—動、働き—反動、全部—欠如、といった概念上の対立項になぞらえたりしているのである。  ここで注意すべきなのは、単にこれらの〈心的なもの〉に関する説明が、最終的には全てアナロジー(比喩)に依拠しているということばかりではない。むしろ、〈心的なもの〉のありようはそれを説明しようとすると、最終的にはどうしてもアナロジーに依拠せざるを得ないという本質を持つ、ということが極めて重要なのである。  ところで、いままでの哲学は、〈存在する〉とはいったいどういうことなのかという問いを、決して根本的に問うたことがなかった、として、独自の「存在論」を打ち建てたハイデガーは、『存在と時間』の中でこう言っている。 [#1字下げ]……存在問題を了解するときの哲学的な第一歩は、「イカナルオトギ話ヲモ述ベナイ」という点にある。(第一篇第二節)  これは、存在[#「存在」に傍点]についてはアナロジーに依拠しないようなやり方で語らなくてはならない、ということだ。ハイデガーがなぜこういう発想に至りついたかという経緯を、ここで簡単に説明することはできないが、その理由ははっきりしている。人間の存在(心的なもの)のあり方を、ひとびとはたとえば〈全体〉への志向と言い、〈無〉の能力と言い、〈疎外〉と言い、〈不連続性〉と言う。これらは〈心的なもの〉についての根本的仮説だが、この仮説の違いはなにを意味するのか、と問うなら、これらの仮説のあり方そのものを明らかに示すような視点が求められねばならない。つまり、なぜ「存在問題」はつねに必ず「オトギ話」を要請してしまうのか、ということをハイデガーは問題にしたのである。  ハイデガーの存在論はその根本の方法を現象学からとっているが、フッサールは『厳密な学としての哲学』でこう書いている。 [#ここから1字下げ] ……他方、心的なもの、つまり「現象」は去来する。それは(略)、自然科学的な意味で客観的に規定されうるような存在、たとえば客観的に構成要素に分解され、本来の意味で「分析しうる」ような存在をもたないのである。心的存在が何で「ある」かということは、物的なものについていわれるのと同じ意味において経験することはできない。……  心的なものは「体験」である。反省において観取された体験である。それは、それによってそれ自身として現われる。 [#ここで字下げ終わり]  ここでフッサールは大変重要なことを言っている。物[#「物」に傍点]は客観的な仕方で規定され得る。その理由は、物の存在は人間にとって[#「とって」に傍点]、有用性や有害性といった〈意味〉として必ず存在するから、ある一定の観点を設定すれば[#「一定の観点を設定すれば」に傍点]、因果や法則や価値の系列として(つまり構造として)捉えられる。しかし、〈心的なもの〉は、そういった仕方では規定され得ない。それは自己目的的なものだから、と言うのである。 〈心的なもの〉を捉えようとするときの本質的な仕方はただひとつであって、それは、〈心的なもの〉を、自己体験の記述として呼びとどめるという仕方だけである。同じことをハイデガーは、「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身から示すとおりに、おのれ自身のほうから見させる」(『存在と時間』)というふうに語る。  要するに、フッサールやハイデガーは、人間の存在(=現存在)を問題にするときには、「オトギ話」、つまりアナロジーに依拠するような仕方を退けて、ただ〈意識〉の水面に現われ出るものを自己記述してゆくという方法を取らねばならない、と考えたのである。しかしむろんそれは、マルクスやフロイトやバタイユなどのすぐれた本質論を決して排除するものではない。だがともあれフッサールやハイデガーのそういった方法の意味は何だろうか。  わたしの考えではそれは次のようなことである。  物の存在とは、さきほど言ったように、究極的には人間にとっての〈意味〉性や〈価値〉性として規定されるし、またそういうかたちでしか規定され得ない。そういった点では、物は、人間にとって〈意味〉として現われ出て[#「現われ出て」に傍点]いる限りで、本質的に存在[#「存在」に傍点]すると言える。しかし、人間の存在は全くこれとは違った存在原理を持っている。本質論はなるほど説明上不可避[#「不可避」に傍点]なものであるが、それは人間存在を〈物〉(の構造)のあり方にいったん翻訳[#「翻訳」に傍点]しているのである。それが翻訳であることは致命的なことではないにせよ、よく意識化されなくてはならないことなのである。  人間の存在本質とは、むしろ、それが〈意識〉にとって、何かわからないもの(非知=性)を孕んでいるということである。人間の〈意識〉にとって、明らかに浮かび上がっているのは、諸観念や諸像という表象にほかならない。しかしいわば〈私〉がなぜそういう表象を持っているかということは、ほんとうは決して〈意識〉に明かされてはいないのである。そして重要なのは、さまざまな表象の由来が、〈意識〉にとって決してその因果を辿り尽せないということこそ、〈意識〉が〈意識〉であることの、本質的な特質だということである。人間が心身の相互的関係として存在することはよく言われることだが、その核心の意味は、こういう形で、〈存在〉ということのあり方が〈物〉とは全く違った様相をとるということにほかならない。  ところで、こういった〈人間〉の存在本質を最もよく象徴するのが、〈欲望〉という事態であるとわたしは思う。  たとえばわたしが水を飲みたいと思ったとしよう。物的な因果関連になぞらえるなら、水を飲みたいのは、のどのかわき、あるいは身体における水分の不足に由来すると言える。しかしそれはじつはあとで解釈された説明にすぎず、「水を飲みたい」という〈欲望〉それ自身は、〈意識〉にとって必ず突然(その由来なしに)現われ、しかも、〈意識〉による物的な諸表象の因果とは全く独立的である。  そしてなにより肝心なのは、この物の現われとは独立し、必ず〈意識〉のむこう側から突然〈意識〉をつき動かすものとしてやってくる〈欲望〉というもののあり方(非知=性)こそ、人間の生の実践を促す根底であり、したがって生の「自由」の意識の基底をなしている、ということだ。  人間はどれほど複雑で高度な機械やコンピューターとも違った原理として存在する。その理由は、〈意識〉がある〈非知=性〉を孕み、その〈非知=性〉がつねに〈意識〉(知)を乗り越えることによって、人間の実践的な実存が生じているためである。  そういった意味で〈欲望〉は、〈意識〉にとっての〈外部〉(決して分析し尽せないもの)にほかならず、またこういった〈外部〉に孕まれているということが、人間存在の「実存性」の本質的な意味合いなのである。      * 〈欲望〉という言葉を人間存在(実存)の規定として用いるというのは、やはりかなり突飛な用法かも知れない。しかし、それにはわたしなりの成算がある。  たとえばデカルトは〈意識〉が人間存在の根拠であると言ったが、この言い方は、周知のように合理的理性[#「理性」に傍点]や意志[#「意志」に傍点]が人間の根拠であるという、〈形而上学的〉確信に深くつながることになる。そこからカントは〈道徳〉を導き、ヘーゲルは〈人倫〉を導いた。ニーチェが〈意識〉主義に強く反対したのはまさしくこのためである。  ニーチェはそこで〈権力への意志〉と言った。キルケゴールは〈不安〉と言い、メルロ=ポンティは〈身体〉と言った。それらの言い方の真意は、そのゆきつく先は違っても、出発点としては決して違ったものではない。  鏡のように明晰に世界を見[#「見」に傍点]、論理的に意志すること、この理想は不可能なものであり、そのためにニヒリズムを呼び寄せてしまう。そうではなく、わたしたちは〈意識〉のむこう側から届いてくる声を聞か[#「聞か」に傍点]なくてはならない。このときかつての〈存在〉の意味(概念)が、普遍や客観への確信から実存のほうへ、はじめて顛倒されることになるはずなのである。 [#改ページ] ———————————————————————————— 超越としての〈外部〉 ————————————————————————————      1[#「1」はゴシック体]  笠井潔の推理小説が、一般の推理小説と違って、この世で人間がそこから離れることができない欲望のきずなを確認して終るものでないことを、私は『バイバイ、エンジェル』の解説(角川文庫)で述べたことがある。彼の編み上げる物語の最も奥底に潜むものは、常に、「政治」や「世界」に関連する、ある異様な観念の�魔�にほかならない。こういった観念の�魔�を常に描こうとした作家として、私たちはドストエフスキーを知っている。ドストエフスキーが、ネチャーエフ事件に心を動かされて『悪霊』を書いたとすると、笠井潔が、『バイバイ、エンジェル』や『サマー・アポカリプス』とともに『テロルの現象学』を書かざるを得なかったのは、連合赤軍事件によってであったと、象徴的に言うことができよう。笠井は、『テロルの現象学』で、次のように書いている。 [#1字下げ] モンマルトルでバリケードを死守して全滅した女性たちも、射殺されるために自らバリケードに登った老ジャコバンも、努力して殺し[#「殺し」に傍点]、殺され[#「殺され」に傍点]うる主体になったのではない。彼らにとって〈死〉は自明の事実であり、この事実を宿命として受容しただけのことだ。しかし、連合赤軍は〈死〉を観念として把握するという倒錯に陥ったのである。(「第六章観念の倒錯」)  連合赤軍における�粛清劇�の奇怪な残虐さについて、当時からさまざまな言及がなされているが、ことにそれを日本社会に固有の、個人の非成熟性[#「非成熟性」に傍点]と捉える見方が、かなり一般化されている。しかし、笠井潔は、まずまっすぐに、この事件の底に沈んでいる問題の本質として、〈死〉の観念ということを直観しているのである。  革命のために[#「ために」に傍点]死ぬという考えは、たまたまバリケードの中で銃撃戦にぶつかって死んでも、それはそれでしようがないと考えることとは違う。それは革命のために[#「ために」に傍点]殺せという考えと双生児なのである。〈死〉をどう処理するかということに、観念の問題とアルファとオメガがある。それが笠井の直観にほかならないのだが、事実彼は、第七章の「観念の対抗」の中で、〈死〉を人間が観念を持つことの根本的契機として捉え、そこから共同観念と集合観念という概念を析出している。 [#1字下げ] 「腐敗解体しつつある肉体」へのもの狂おしいまでの恐怖は、死という観念の外部からの脅威を除去しようとして、死骸の処理を始めとする死についての多様な儀礼を発達させたのだともいえる。だが、このことはやはり問題の反面にしか過ぎない。人間の生存欲望が、あの伝染する死の脅威から共同体を防衛するため、死という観念の外部を隠蔽する共同観念の体系を織りあげていくのだとしても、同時に人間の生命欲望は、まさしくそこにおいて存在の連続性を顕現するその極点として、死という観念の外部を捉え返していくもうひとつの観念をも導くのである。それこそが、共同観念に対抗する集合観念なのだ。  笠井潔の思想のキーワードである〈集合観念〉はなかなか難解なタームだが、それが析出される道すじをここで簡単に辿ってみよう。  ハイデガーは『存在と時間』の中で、〈死〉に関する「実存論的分析」を行なっている(これは「現象学的還元」方法の極めて見事な実例と言ってよい)。そこでハイデガーは、まず死は、誰にとっても、「経験」することができないが、いつ襲ってくるかも知れぬ切迫した可能性として、人間の観念に宿っているのだと説く。つまり、人間は、決してこちら側からは理解し得ない[#「理解し得ない」に傍点]何か恐ろしいものを、絶えず背中に負って生きているような存在だ、と言うのである。そこで人間はこの恐ろしい可能性を、死んだら〈あの世〉へゆくとか、人間は〈類〉としては繋がっている、といった形で打ち消そうと試みる。それは〈死〉の明瞭な観念を抑圧することであり、そのために人間は却って、「不安」を情状性(気分)という形で持つことになる。  さて、笠井はハイデガーのこの考えを基本的にうけながら、「決して理解し得ない」恐るべき可能性としての〈死〉を、蔽い隠し、否認し、排除しようとするところに、人間の「共同観念」が成立する根拠があると説く。そして、逆に、この〈死〉の可能性を否認し排除する代りに、それを、人間の生命欲望が持つ�彼岸なるもの�への根源的な希求力のシンボルとして捉え直そうとするとき、「集合観念」なるものが現われると言う。  この「集合観念」には、人間の生命はいわば個体として終る「非連続的」なものだが、そのために、逆に生命の「連続性」なるものに対して、人間は根源的な郷愁を持つことになる、というバタイユの考え方が強く滲んでいる。「共同観念」は〈死〉の否認だが、「集合観念」は〈死〉を認知し、しかもそれをあの「連続性」の象徴としてとり扱う。また「共同観念」は、人間の個体としての〈死〉を否認するため「不安」に脅かされ、そこから、不安の無意識的[#「無意識的」に傍点]な打ち消しとして、さまざまな〈意味〉、つまり神、あの世、天、国家、血の繋がり、等々の諸〈物語〉を、共同的に紡ぎ出すことになる。これに対し「集合観念」は、人間にとっての「決して理解し得ない」彼岸をむしろ人間の生命の根本的な欲望(�バタイユにおけるエロティシズム�)の対象と見なすのである。 [#1字下げ]……集合観念は、バタイユが供犠について「神聖とはまさに、荘厳な儀式において、非連続の存在の死に注意を注ぐ人たちの前に明らかにされる、存在の連続性なのである」と述べていることからも明瞭であるように、連続性への渇望、聖なるものへの渇望において定義される、人間存在の超越的次元という観念を導くべきものである。(「第七章観念の対抗」)  こうして「集合観念」とは、ある根源的な「聖なるもの」(�超越的なるもの�)に対する、人間の欲望の認定である。しかし、この根源的な聖なるものとは、〈神〉という、思い描かれた超越的な(〈真理〉化された)彼岸ではなく、ひとつの純粋な信憑[#「信憑」に傍点]、しかも、それが信憑にほかならぬことが自覚されているような、純粋な信憑としての「彼岸」であり、「不在の神」(シモーヌ・ヴェイユ)と呼ばれるべきようなものにほかならない。  しかしここで、この「集合観念」に至る笠井潔の論理の道すじを、私なりにもう一度振り返ってみよう。  人間は、〈死〉の不安に脅え、かつこの不安を共同化しているために、〈共同体〉の安全と守護を至上の命題として、個のうちに分有することになる。つまり「〈私〉は死にたくない」は、「この〈共同体〉の保全こそ重要だ」、に転化する。そしてこの共同観念は、近代社会の心的な機制《メカニズム》の中で個人のうちに内面化[#「内面化」に傍点]されて、「〈私〉はこの〈共同体〉のために[#「ために」に傍点]なにをなし得るか」という倫理の形を作り上げる。だが、この道すじは、社会の矛盾が鋭いものになれば、必ず「革命のために死ぬことができる」という倫理の形にまでつきつめられずにはいない。そして、「革命のために死ぬことができる」は、また必然的に、「革命のために殺すべきだ」を、その論理的相関者として呼び寄せざるを得ない。  笠井が連合赤軍に直観していたのは、このような〈死〉と〈共同体〉とをめぐる観念の旅程にほかならなかった。だから、彼の〈集合観念〉とは、おそらく人間の生の欲望が、死の不安に脅えてそれを〈共同性〉へ委託し、そのために、「〈共同体〉こそ〈私〉だ」、「〈私〉の生の〈意味〉は、〈共同体〉と私との関係において決せられる」という形をとって現われる、人間の倫理的回路(=共同観念)を、つまり、不安とその無意識によって必然化されるこの回路を、一挙に転倒させようとするモチーフを意味していたはずである。〈集合観念〉はこのとき、いわば、人間の生への根本的な欲望を、直接に、また一挙に、人間にとって彼岸としてある「聖なるもの」へ架橋しようとするのだが、その媒介をなすものが、バタイユ的な連続性の象徴としての〈死〉なのである。      2[#「2」はゴシック体] 〈死〉をどう処理するかは、人間の観念にとっての大きな課題である。〈死〉の不安を否認、隠蔽するところに、近代の「革命の世紀」における思想の背理が導き出されたからだ。〈集合観念〉なる概念は、この背理の水路の溝を付け換えようとする試みにほかならないが、私にとっていっそう興味深いのは、この〈死〉に関する考察の中で、「観念の外部」という考えが浮かび上がってきているということである。 [#1字下げ] バタイユにとっては、どのような違犯や蕩尽の行為をもってしても、存在の連続性に到達することは基本的に不可能であると了解されているのだ。つまり、連続と非連続は対概念ではない。二項対立を支えるべき第三の項が存在しないばかりでなく、非連続にとって連続は[#「非連続にとって連続は」に傍点]、無限の魅惑の源泉でありながら決してそこに達することのできない[#「無限の魅惑の源泉でありながら決してそこに達することのできない」に傍点]、存在の外部であるに過ぎないからである[#「存在の外部であるに過ぎないからである」に傍点]。(同前—傍点引用者)  ここで、「存在の外部」と呼ばれているのは、単に存在の彼岸[#「彼岸」に傍点]ということではない。バタイユ的な連続性のシンボルとしての〈死〉は、人間の手に届かないというだけのものではなく、文字通り人間の「観念の外部[#「外部」に傍点]」を、つまり、理解を絶しているが、必ず存在するとしか言えないなにか[#「なにか」に傍点]、を意味していると笠井は言うのである。  ここで〈死〉の意義は、二重の契機を持って現われている。まず〈死〉は、一方では人間に根源的な恐怖—不安—禁忌を生じさせるような負の〈外部〉である。しかしもう一方でそれは、人間の生の根源的な欲望をひきつけるポジティヴな〈外部〉である。そして注意すべきなのは、いずれにせよそれは、人間にとって、根源的な了解不可能性(=〈非知〉性)として存在しているということにほかならない。  この、人間存在の最も奥底の規定性を支えるものが、〈外部〉(=〈非知〉性)として人間につきまとっているという洞察は、私には注目すべきものと思われる。この洞察の核心をひとことで言うと、〈外部〉としての人間なる考え方は、コギトとしての人間という近代以来の人間観に根本的に対立し、それを解体し尽さないではおかないようなものなのである。  たとえば笠井潔は、「外部の人間」という柄谷行人論で、秋山駿の「内部の人間」という考え方に対置して、柄谷を「外部の人間」と呼んでいる。 [#1字下げ] ここで柄谷は、漱石における外部の問題をきわめて的確に抉り出している。外部の現前は、人に不安、恐怖、畏怖といった情緒を喚起するが、しかしそうした情緒は「対象性をもたない」。なぜならば、外部は存在しないからである。少くとも、人が存在し、内部が存在し、主観や意識がある[#「ある」に傍点]ようには、外部は存在しない。(『文藝』一九八五年五月号)  ここでの〈内部〉とは、いわばデカルト的な明晰判明な意識の水面を意味している。そしてこの明晰な意識の本質は、〈私〉の意識は澄んだ鏡のように外界の一切を自分のうちに映しとっている、という確信であり、したがってまた、〈私〉の意識の水面こそ、世界を構成している全能者《オール・マイテイ》である、という確信でもある。一切のものを懐疑しても〈私〉の考えるという事実だけは最後の一点として残る、とは、〈私は私だ〉という自意識の水面だけが生の究極の本質にほかならず、のこりは、すべて、この自意識の水面にとっての�対象物�にすぎない、ということである、自意識のこういう「確信」をヴァレリーは�魔�と呼んだし、ドストエフスキーはニコライ・スタヴローギンという稀有なる登場人物へと造型化した。しかし、〈外部〉は、この人間本質の近代的確信を、一挙に無化してしまうのである。  内部は、明晰な、全く疑いようのない透明性において、意識(=主観)の充実した水面として、存在する[#「存在する」に傍点]。外部はなるほどそのようなものとしては存在しない[#「存在しない」に傍点]。しかし、それにもかかわらず、外部はむしろ内部以上の現実性として存在するのである。 [#1字下げ] 内部が存在するようには外部は存在しない。「外部」という記号は、それによって指示されるべき対象を欠いている。であれば、外部などそもそも存在しないのだということで、この問題に決着がついたと信じこむ人間は少なくないだろう。しかし、同時に、たとえごく少数であっても呪いのように刻印された外部という予感に駆りたてられて、「外部は存在しない、しかし、外部は存在する」という背理の場所に連れ出されていってしまう不可避性を強いられた人間もまたいないわけではない。これが「外部の人間」であり、したがって「外部の人間」とは「超越の人間」でもある。(同前)  笠井潔は柄谷行人に「外部の人間」を見たわけだが、それにならって私はここで、人間にとって本質的な了解不可能性として現われる〈外部〉存在を触知し、それをつかみとろうとした、ヨーロッパにおける「外部の人間」たちを挙げてみることができる。「不在の神」を見たヴェイユ、連続性という彼岸を捉えようとしたバタイユ、『文学空間』のブランショ、永遠回帰のニーチェ、そして、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティという現象学の巨匠たち。  デカルトから始発した明晰な意識としての人間存在は、周知のようにヘーゲルの絶対知の体系、マルクス主義の唯物史観をその頂点として持つことになった。しかし、ここに挙げた、西欧思想の「外部の人間」たちは、それぞれの仕方でいわば�非知の現前�としての「外部」の問題に突き当っていたのである。たとえばメルロ=ポンティの〈身体〉とは、人間にとって決して完全な対象性となることなく、しかも、人間存在の根底的な�地�をなしているような不透明ななにか[#「なにか」に傍点]である。また、ひどく誤解されてはいるが、ハイデガーにとって〈真理〉とは、「告げ知らされるもの」、つまり、知のむこう側[#「むこう側」に傍点]から由来も知れずやってくるもの、にほかならないのである。  ここでは、明証的な意識の水面は、つねにその底の、あるいは〈外部〉のなにか[#「なにか」に傍点]、と身を接しており、それに脅かされ、自己の存在の仕方をそのなにか[#「なにか」に傍点]によって規定されるようなものとして現われる。むろんそのなにか[#「なにか」に傍点]が意識存在を規定するものであるのは、それが、意識にとって対象化し得ない[#「対象化し得ない」に傍点](=非知)ものであるからにほかならない。  このような視線において、はじめてコギト的な〈内部〉の人間は転倒され得るものとなる。人間はここでは、〈知〉の水面それ自体ではなく、〈非知〉性に接した〈知〉(=意識)、本質的に了解不可能な〈外部〉に孕まれた〈内部〉、として現われる。そして、こういった見方がまたはじめて、知—非知、内部—外部という近代的な二項対立を廃棄するのである。  ここで私はもういちど出発点に戻ろう。連合赤軍に関して笠井はこう書いていた。 [#1字下げ]——しかし、連合赤軍は〈死〉を観念として把握するという倒錯に陥ったのである。 〈私〉がこちらに絶対的自律として立ち、世界がむこう側に〈私〉の対象として拡がっている。すると、〈死〉でさえも、絶対的な〈内部〉の対象物[#「対象物」に傍点]として捉えられねばならなくなる。連合赤軍は、いわばこういった近代的な〈内部〉の意識がどうしても辿らざるを得なかった世界観念の�背理性�を象徴していたと言えよう。  しかし、私たちはこの背理をむしろ現代そのものへむかって解きほぐしてゆかねばならない。それは単に〈死〉という〈外部〉をどう処するかという問題では片づけられない。近代社会は、どんな人間にとってもコギト的な〈内部〉を不可避なものとして成熟させるのだが、そうであるがゆえに、この〈内部〉それ自身をどのように処すればいいのかということが、現代的な人間の存在構造の理解にとって核心をなすものとなる。まさしくそういった問題が、マルクス主義的諸観念の背理の中から浮かびあがってきたのである。  笠井潔はそれを〈外部〉という言葉で呼びとどめた。私の考えでは、この〈外部〉は、一方では、近代—現代社会の中で、〈内部〉としての人間が辿らざるを得なかった背理の必然の中心を言いあてている。しかし、おそらくそれだけでない。一方でそれは、知と非知、現実的なものと超越的なものをめぐる現代の人間理解の核心点に、迫るものでもあるのだ。 [#改ページ] ———————————————————————————— 読みびと知らずのバルト ————————————————————————————  バタイユやブランショにせよ、メルロ=ポンティやサルトルにせよ、その独創性は疑いなく際立ったものだ。けれどわたしには、現代フランスの文学・思想の文章にどうしてもなじめないものがある。文化的な伝統の問題で、言っても仕方のないことかも知れないが、総じて難解でもってまわった言い回しに、腹の底でどうしても納得していないのである。  だから、たいていの場合自分から進んで読み拓いていくのではなく、ある示唆を与えられて、あたりをつけてから読むということになる。うまくあたる場合も、そうでないときもある。  バルトの場合あまり幸運な例でない。『モードの体系』や『S/Z』という主著(と聞いた)をそのうち読もうと思いつつ、結局まだ読まないでいるが、どこかでみこみを付けているのかも知れない。  たとえば、メルロ=ポンティに関して、そのイメージのはじめの核をわたしは柄谷行人の評論から与えられた。そこでメルロ=ポンティの「両義性《アンビギテイ》」という言葉は「あいまいさ」という言葉に微妙に重ねられ、存在論的な陰翳を鮮やかに浮かばせられていた。このイメージの核に孕まれた問題の魅力が、わたしをメルロ=ポンティにむかわせた。  メルロ=ポンティもなかなか難解な美文家である。しかし、読み進むうちに、はじめに与えられたイメージの核が徐々に育ち、たしかにひとつの明瞭な問題が確固とした姿を現わしてきた。この感触ははっきりしたものである。だからべつにメルロ=ポンティの著作をすみからすみまで読んでいるわけではないが、わたしはいちおう自分を熱意あるメルロ=ポンティ読者だと思っている。  ところが、バルトの場合、残念ながらわたしは、日本のバルト読みから自分を強く打つような「読み」を与えられなかった。むしろ逆で、おおかたのバルトの「読み」は、どこか腑に落ちないことを言っているように感じられた。つまり、わたしはメルロ=ポンティとは逆の方向から、いわば白い目でバルトを読みはじめたのである。  たとえばメルロ=ポンティの身体論に関して、かつて確かに、観念性、主知性、理論(念)性に対する、具体性、実践性の強調という文脈で受けとられるような傾向が流通していた(まだすこし残っているが)。しかし、むろんメルロ=ポンティが意図していたのは、〈身体/精神〉という二項対立[#「二項対立」に傍点]をつきくずすような、柄谷行人の言葉を使うと、認識論の〈外部〉の問題であって、決して一般に考えられているように、心身二元論[#「二元論」に傍点]の統合、乗り超えといったことではあり得ない。  柄谷は『畏怖する人間』以来の、「意識と自然」のあいだの限界を問うというモチーフの中でメルロ=ポンティをつかんでいる。そしてこの読みとりは、メルロ=ポンティの思想のかんどころを正確に打ちあてていたと思える。  たとえばメルロ=ポンティは、まず「私は行動の経験において、対自と即自の二者択一を事実上越えている[#「事実上越えている」に傍点]のである」(『行動の構造』)といった言い方から出発した。これは、わたしの見る限り、心身は相互的統一[#「相互的統一」に傍点]としてあるとか、浸透[#「浸透」に傍点]しあっているとかいうことではあり得ない。  人間的事実を、概念(言葉)の上で理解しようとすれば、心身とか、対自、即自という二分割(あるいはもっと複雑な分割)は避けられない。しかし、どこまでこの分割の精緻化を進めても必ず解析し尽せないような部分が残る(というより解析自身がそれを生み出す)。それは言葉の働きと事実[#「事実」に傍点]というものとのあいだの秘かな本質関係、つまり今までの認識論ではほとんど気づかれなかったような本質関係である。メルロ=ポンティが掘りあてようとしていたのは、この関係であって、二元論で硬化しおとしめられた人間の身体性をどう復権[#「復権」に傍点]するかといったばかばかしい問題ではなかった。  事実、メルロ=ポンティのこのはじめの構えは、後期の『眼と精神』においてもほとんど変っていない。じつはわたしはそういったメルロ=ポンティの問題の核心を、柄谷行人のメルロ=ポンティ読みから直観的に受けとっていた。もちろんわたしはそのとき、心身構造論やゲシュタルト学説や存在論などに特別の興味を持っていたわけではない。彼のメルロ=ポンティ理解がわたしをひきつけたのは、それが、人間が世界を言葉(=認識、思想)の中で受けとりそれを生きようとする行為は、ほんとうに動かし難い根拠を持っているのか、という自分の中の疑問に、強く響いたからである。 〈身体〉を主知主義や合理主義による理性万能視から〈復権〉し、かつそこに社会的反抗の拠点を見出すといった仕ぐさは、昔からある古い図式の中にメルロ=ポンティを投射しているにすぎない。メルロ=ポンティが格闘していたのは、もっと根の深い問題、つまり、言葉によって人間が世界認識を徹底化したとき、どこに最も根本的な難問(矛盾)が現われるのか、といった問題である。そういう核心がつかまれない限り、メルロ=ポンティは日本には高級すぎる難解な現象学者[#「学者」に傍点]といったものになり終るほかない。  ところで、バルトはどうだったろうか。  わたしのイメージを大雑把に取りまとめると、バルトがわたしたちに伝えた問題の中心は、ほぼ三つのアクセントを持っていたと思える。ひとつは「エクリチュール」という概念。ひとつは構造分析、テクスト分析を含む「意味論」(セミオロジー)と神話学。そしてもうひとつが「テクスト」の概念である。  ここでそれぞれの内容を詳述するわけにはいかないが、バルトの掲げたこれらの問題が、日本においてどういう影響をもたらしたかは、いちおう確認しておくべきだろう。  まず、セミオロジーは、前田愛や細川周平などの、都市論、文化記号論、社会分析の方法として現われた。また、もともとバルトの神話学は、ブルジョア社会における有形、無形のイデオロギー形態の分析にねらいがあったから、これは主として、七〇年代以降のイデオロギー論や管理社会論に流れ込んだ。  そしてもうひとつは、蓮實重彦に代表されるような「テクスト派」の潮流である。たとえば※[#「糸+圭」、unicode7D53]秀実、渡部直己、金井美恵子など(困ったことに、彼らはたまたまわたしの共通の知人だが)。おそらく、バルトのこのテクスト論の考えが、若い文学世代に最も大きな影響力を及ぼしている。そのことは、現在文芸誌に投稿、応募される若い世代の評論の傾向などをみると如実にうかがえるのである。  蓮實重彦は、たとえば『物語批判序説』で、バルトのきわだった美質は、どんな言説ともどこまでも「浅く戯れながら上質な部分を救」うような点だ、と書いている。これはバルト評としては、非凡な言い方だと思える。バルトの文学を想い起すとたしかにそういう感触がある。しかし、逆に言えば「深く立ち止って掘ること」が、テクスト派では奇妙なタブーになっているのであって、なぜそういう不自由を自ら課そうとするのかを、わたしは考えざるを得ない。  バルトのテクスト論の一般的な受けとめ方としては、むしろ次のような文章が象徴的だと思える。 [#ここから1字下げ]  この本(=『彼自身によるロラン・バルト』—引用者註)はどこから読みはじめてもいい本(略)だし、もともとロラン・バルトの本は(略)どれをとっても、どこからでも読みはじめられる本なのだ。(略)なにしろ私はそこから知識を得ようとしているのではなく——『モードの体系』を読んでいる場合も、たいていの読者は(略)記号論の展開よりは、むしろそこに登場する様々なモード用語、布地や衣服の部分に名付けられた奇妙な言葉=記号をバルトが、手でなでているかのように愛しているという事実に、まず気がつくだろう——誰かが何かを愛してしまうことの、物悲しい歓びに共感するために、バルトの本を開いてみるのだから。  共感というのは、少し汗ばむことだ。(金井美恵子「快楽と倦怠」『早稲田文学』一九八五年一〇月、ロラン・バルト特集号) [#ここで字下げ終わり]  蓮實が、文学あるいは言説の〈制度性〉を批判する射程(むろんそれが「テクスト論」の概念上の[#「概念上の」に傍点]要諦である)の中でバルトを�援用�しているのに対して、金井美恵子は文体的な触知における共感としてバルトを�受けとめ�ている。そして注意すべきは、おそらく後者の�受けとめ�の時代的なリアリティが、前者の概念図式を支えているということである。むろん、ここでよく考えられなくてはならないのは、バルト的な文体への共感に、ひとつの理念的な位置づけが与えられることの、時代的な意味合いにほかならない。  たとえばわたしは、『文藝』(一九八五年九月号)の小林秀雄・吉本隆明論(「世界という背理」)で、「作者の死」や「作品からテクストへ」などでバルトが鮮やかに示した、「テクスト」の概念は、ほぼ以下のことに尽きると書いた。つまり、まず意味上の〈起源〉一元論の拒否、だから読み取りの多義性と、〈起源的〉意味への還元不可能性(作品の意味は唯一同一のものとしてそこに実在するのではない)。読み取りの一回性(意味は、一度ずつの読み取りによってそのつど生じる)など。  またわたしは、バルトの「テクスト」概念がそんな単純な図式に納まるはずがないという見方もあるだろうが、彼が、遊戯、差異、間《アントル》テクスト、網の目、実践、質といったさまざまな諸標識を動員せねばならなかったことには、時代の中での理由があったのであって、そういう状況的な枝葉を切り払えば、ほぼ今言ったことが残る、とも書いた。  わたしがそう考えたのは、だいたい次のような経緯によっている。  バルトの「テクスト」概念に接する前に、わたしは、ソシュールを読んでいた。そしてソシュールの言語思想の中心の問題は、言語学の体系化を徹底していったとき、〈意味〉(いかにそれが生じ[#「生じ」に傍点]、伝わるか[#「伝わるか」に傍点])の問題は結局宙づりになって残ってしまう、ということだと考えていた。すぐに判るように、これはさきのメルロ=ポンティの問題と同形である。柄谷行人が「形式化の諸問題」という言葉で言いあてようとしたのは、心身の構造の問題であれ、言葉の問題であれ、認識(解析)を強行したときに、さまざまな局面で同じような事態が浮かびあがってくるということだ。柄谷行人はゲーデルからその観念をつかみとったらしいが、わたしはフッサールから同じ問題を受けとっていた。  さらに、デリダによる精密なフッサール批判(『声と現象』)があった。わたしの見た限り、フッサールが認識(形式化)の限界線を導き出すのに、「還元」という概念の補助線を引いたのに対して、デリダは、「差延」という、完全な形式化の不可能性の記号[#「記号」に傍点]、をおいた。  わたしには、両者の論理操作の意味合いと優劣にはじめから確信があった。そういった認識批判の文脈から見ると、バルトの「テクスト」概念にはべつにあいまいなものはなにもなかった。  バルトの「テクスト」概念は、言語論的にはまず、丸山圭三郎が力説するようなノマンクラチュール(言語名称観)や、関係実在論[#「関係実在論」に傍点]の否定である。さらに、いかに意味が生じるか(意味生成)という問題を、統辞と連辞の統合の構造、つまり文章に内在する構造に還元しないで、状況、歴史、読みとりなどの外的な諸コンテキストをそこに引き入れたという意味を持っている。  むろん、コノテーション/デノテーションというバルトの概念装置(これは彼の神話学の土台だが)は、形式化の道すじの上での試みであって、ソシュールが抱え込んでいた問題の解決にははじめからなり得ないものだ(これに関しては、丸山圭三郎との対談〔『記号学批判』〕などですでにふれた)。  つまり、今見てきたような言語の問題としては、わたしはバルトからほとんど新しいものを受けとらなかった。もちろん、バルトが敢行した「作品」から「テクスト」への進撃の意味はよく理解できた。その概要に関しては『文藝』九月号(前掲)に書いたとおりだ。日本でもフランスでも、マルクス主義的、精神分析的、つまり実体論的批判の観念を打ち破るためには、相当大きな理論上の変革が要求されるのであって、�自由�な批評行為をただやってみせて済ますというわけにはいかないのである。  たとえば日本では、小林秀雄はそういう批評をいわば実行してみせただけだが、実体論的批評がその命脈を絶たれるためには、『言語にとって美とはなにか』といった労作を必要としたのである。  ところで、もちろんわたしにも、「ロラン・バルトを『理解したり、わかった』りして、なんになるだろう」(「快楽と倦怠」)という金井美恵子の言葉の機微がわからないではない。わたしもまた、たとえば『テクストの快楽』や『恋愛のディスクール』などにおけるバルトの文体がとても気に入っている(真似をしようとは思わないし、またできないだろうが)。それはあたりまえの話で、誰でもあそこにはっきりした独創性を、つまり著者が書くことを積み重ねてつかみとった独特の文章の調子を見てとるだろう。  しかし、わたしはまた小林秀雄の文章が素晴しいと思うし、太宰の文章の階調もなんとも言えずからだに合う。バルトの文章も太宰の文章も、世の中にたったひとつしかないと、まさしくそう思わせるようなものであって、そうであるからこそ、誰かを「理解したり、わかった」りしてなんになるかという言い方が生きてくるのである。  だが、奇妙なことに�テクスト派�は、知らず知らずのうちにバルトから、快楽、戯れ、浅さ(深入りしないこと)、手触り、絶えず移動することといった、文体上、エクリチュール上の�規範�をひき出そうとしてしまう。要するにひとつの独創的な文章への共感的触知が、いつのまにか次のような、命令、禁忌へ移行するのだ。 [#ここから1字下げ] ……彼(=ロラン・バルト—引用者註)はいつでも浅さの領域に戻っている。 「テクスト」の快楽とは、おそらくこの浅さの体験なのだ。距離を維持してもならず、ひたすら触れ続けながら深入りすることのないものへの誘惑に身をさらすこと。(『物語批判序説』) [#ここで字下げ終わり]  こういう言葉は、「作品」を読むことのエッセンスは、そこに隠されている作者の意図を探ることではなく、読み手の感銘のなかにしかない、というふうにとればべつに怪しげなものではない。しかし、 [#1字下げ] 問題は、「テクスト」が引用の織物だと指摘することではなく、静態的な「記号学」に対して動態的な「記号学」を顕揚することでもなく、こうした指摘や顕揚こそが、超=虚構の説話論的な必然にすぎぬと意識することである。(同前)  こうなると、批評がひとつの「物語」を描きあげること自体が、禁忌《タブー》になっているのである。  バルトの文章に対して、「少し汗ばむ」ような共感を感じることと、そこから、「物語」の虚構化から絶えず逃がれ出よ等々というメッセージを引き出すことは、ずいぶん違ったことだ。それは一体どういう意味を持っているのか。  わたしの考えでは、おそらくこのメッセージに力を与えているのは、それほど複雑な問題ではない。それは要するに、革命がどうの倫理がどうの責任がどうのといった面倒な議論はもうたくさんだ、というわたしたちの時代の一般的実感と響き合っているのである。  ひとたび善悪の彼岸に出て、美しいもの、生に対する肯定的な力、を感じとろうとすること。そのために、古い、硬化した世界観や概念の残骸をきれいさっぱり焼き払ってしまうこと。こういう欲望は、むろん大きな存在理由を持っている。しかし、この欲望はまだ明らかに歴史的なリアクションとしてしか自らを表現しておらず、まだ決して鍛えられ、磨き抜かれたものとなっていない。  バルトと言うと、きっと戯れ、快楽、触知、などの�観念�が姿を現わす。わたしはそこに、わたしたちの時代感受のいちばんはじめの踏み出ししか、どうしても感じとれない。バルトの中に、誰も自分の世界経験と深く響き合うような秘かな音調をいまだ発見していないのだ。そういう確信に満ちた、内的なバルト像を、わたしはまだ目にしたことがない。  つまり、記号論や神話学の文脈にせよ、テクスト論の文脈にせよ、不幸なことに輸入されたバルトの像(バルト「読解」)から、ほんとうに動かされるものをわたしはまだ受けないのである。  むろんバルトは、わたしの直観の中で全く非凡な批評家である。しかし、それにもかかわらず、この国のバルト像は、どこかおそろしく退屈なところがある。なにか読まれようとした瞬間、奇妙な言説上の定形へ呑み込まれてしまうような。  おそらく新しい世代が、自分たちの欲望の的とその意味をよく反芻し、それを内的な確信にまでもたらしたとき、バルトはもう一度受けとられ直すかも知れない。  バルトはまだ決して生き生きとした共感で読まれてはいない。新しいバルトを拓いてみせるのは誰だろうか。 [#改ページ] ———————————————————————————— 反=形而上学の源流 ————————————————————————————      1[#「1」はゴシック体]  ポスト構造主義にはいろんな標識があるが、基本的には、やはり反形而上学ということが最も中心になるように思える。反=ロゴス中心主義、反=人間主義という標識は、それにつきまとうものだが、決して中心軸とはなり得ない。なぜ形而上学に対する批判が核心の問題になるかと言うと、形而上学が、神の理性と意志を代行[#「代行」に傍点]するものとみなされるからである。  一切を統一的に眺めわたすことのできる最も普遍的な観点。世界の存在の客観[#「客観」に傍点]と、世界の存在の意味[#「意味」に傍点]を矛盾なく重ね合わせられるような絶対的観点。つまり在ることの秩序と、なぜ在るかということの条理(摂理)がひとつのものとなり得るような記述の体系(スピノザにその典型が見られる)。こういったものが形而上学の理想にほかならない。  だがそれだけではない。フーコーが〈牧人=司祭型権力〉と呼んだように、キリスト教—形而上学という道すじには、世界観念を〈内面化〉するというもうひとつの大きな特質がある。かつて〈世界〉を司っていたのは神だったが、形而上学は、それを個人の精神の内側へ分有させるわけだ。  神の絶対普遍の観点を、人間の客観的、合理的理性への確信へ置き換えること。神が司っていたことを、〈世界〉に対する人間の自由な意志(倫理)の問題へと内面化すること。これが、近代形而上学(哲学)の根本の基底と言えるだろう。では、なぜこの形而上学の根本性格が批判されねばならなかったのか。  形而上学は、つねにひとつの普遍的な観点を、つまり誰の身の上にも等しく適用されるような観点を要請する。もちろんその理由は、それがキリスト教的唯一神の代行[#「代行」に傍点]という課題を負っているからである。この観点を最大の規模で体系化したのはヘーゲルだった。わたしはヘーゲルに対して、大きな三つの反ヘーゲルの脈流が流れ出したと考えている。  ひとつはマルクス—マルクス主義の流れである。これは、普遍的観点、内面化という点で、形而上学の本質を継いでいる。ただ、ヘーゲルの体系の中に、予定調和主義と思弁性を見出し、それは社会的実践の場に移されるべきだと考えたのである。  もうひとつはキルケゴールの実存主義。これは近代的な〈内面化〉をむしろ徹底するような道すじの中で現われた。ここでは、誰の身の上にも通用するような普遍の観点ではなく、神=超越的なものと、実存する〈私〉との間の、絶対的関係が最大の問題になる。  そしてニーチェ。生成と創造と意欲することの哲学。これがポスト構造主義の最大の源流となる。  ところで、フランスのポスト構造主義が、その根底に反ヘーゲル=マルクス主義という根本のモチーフを持っていたことはいまさら言うまでもないことだろう。フランスでかつてのマルクス主義的世界認識の基本形に対してはじめて本格的な異議をとなえたのはレヴィ=ストロースなどの構造主義だった。しかし、ポスト構造主義がすぐにそれを批判して現われたのは、おそらくそこに、客観と合理への確信によって〈世界認識〉の秩序を回復しようとする西欧形而上学の根強い伝統を見たからである。  だから、ポスト構造主義は、ヘーゲルで理論的完成を見るような形而上学の諸テーゼに対する根本的な批判にまで遡行しなければならなかったのであり、そのために、ニーチェという足場は最も適切で強力な足場だったのである。  ふつうポスト構造主義というと、ディコンストラクション(脱=構築)という概念が最も広く流通している。しかし、デリダの「脱=構築」は、たとえばフーコーの反歴史主義、知の系譜学、ドゥルーズの力と欲望の哲学などと較べると、ニーチェの反=形而上学のモチーフからは、少し離れた場所に立っている。わたしの考えでは、デリダの「脱=構築」の本質は懐疑論であり、論理的パラドックスを作りあげて厳密な理性使用の不可能性を�証明�するという点に力点がかかっている。ニーチェのモチーフをより深く継いでいるのは、むしろフーコーやドゥルーズである。  だが、ここでわたしが注意を促したいのは、ポスト構造主義の具体的な流れではない。ニーチェは疑いもなく反=形而上学の最も重要な水脈だが、わたしの見る限り、現象学もまた、もうひとつの反=形而上学の極点なのである。デリダによれば、現象学はむしろ逆に、深く「〈現前の形而上学〉の図式にとらわれている」(『声と現象』)とされる。しかし、それはむろん誤解なのである。デリダとフッサールに関しては、わたしはすでに別のところ(第㈼部「〈差延〉と〈根源〉」)に書いたので、ここでは、ニーチェ的な反=形而上学の中心点とフッサールのそれとを、その違いが浮かぶようなかたちで粗描してみたい。この違いは、したがってまた、ポスト構造主義の反形而上学のモチーフと現象学におけるそれとの違いをもほぼ意味するはずである。      2[#「2」はゴシック体]  ニーチェはたとえば次のような「反主観主義」によって、しばしば、現象学と最も対極のものと見なされている。 [#1字下げ] 主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、偽って解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。(『権力への意志』)  ここでニーチェが言う「主観が主観に関して直接問いたずねる」方法とは、つまり、デカルト、経験主義、カントなどを、ひっくるめて指している。それは別に〈コギト〉とか〈先験的主観〉の個々の立場を、方法として[#「方法として」に傍点]批判しているのではない。ニーチェにとって問題だったのは、ただ、〈私〉(=主観)という場所から、理性、意志、魂、精神という、神によって命を吹き込まれたような実体的[#「実体的」に傍点]存在が現われ出る、ということにほかならなかった。このことはよく注意する必要がある。  要するにニーチェが〈主観〉という言葉で批判したのは、いわば屈折した[#「屈折した」に傍点]〈内面世界〉のことなのである。なぜなら、まさしくこの、魂、意志、精神という「至上のもの」にこそ、倫理、道徳、信仰といったニヒリズムが棲まうからである。神への信仰、罪の意識、やましい良心、これらは、主観(=意識)が、それ自体で独立したあらゆるものの原因[#「原因」に傍点]である、という考え方によって可能になる、と。  ニーチェの形而上学批判の精髄は、キリスト教、形而上学(哲学)、社会主義などが立ててきた理想は、じつは人間の、挫折とルサンチマンと弱さの、裏返された表現にほかならなかったという見方にある。つまり彼は、僧侶階級や、学者や、革命を説く人間の口舌に、ある根本的な欺瞞を感じていた。彼らの言っていること(信じていること)の背後に、ニーチェの「病者の光学」は、隠された動機を読んだ。それはニーチェには、なにか陰険で抑圧の反動として現われて出た、憎悪を秘めた、幾重にも屈折した否定的な力、と感じられたのである。  こういうニーチェの直覚がどういった彼の心理学的資質からもたらされたのかは知るべくもないが、ここからニーチェのとった批判の方位は非常に明らかなものである。要するに、ヨーロッパの形而上学的伝統がかつて築きあげてきた理想[#「理想」に傍点]は(ギリシャのそれが倒れて以来)、ニーチェによればニヒリズムという本質的性格を持つ。そして彼がとろうとしたのは、ニヒリズムに対して、強さ、高貴さ、肯定的な力を対置し、この原理による理想を構想[#「理想を構想」に傍点]するというやり方だった。  わたしの考えでは、ニーチェのとったこの形而上学批判の方法には際立った功罪がある。罪の方の中心は、それがまさしくキリスト教や社会主義の理想[#「理想」に傍点]の�反転�として構想されたために、実存論的契機をほぼやり過ごしているという点である。だが、功の方もまた、ほとんどそれを打ち消すに足るような遠大な思想的射程を持っていると言える。  ともあれ、ニーチェが〈主観主義〉を排して、「肉体と生理学とに出発点をとる」べきことを説いたのは、〈主観〉に現われるもの(信仰・確信)が、つねに、彼が心の底ではどう感じているか、あるいはまた彼が実際に何をしているか[#「実際に何をしているか」に傍点]、ということからずれてしまうことを、ニーチェがよく洞察していたからだ(これに関しては、吉本隆明の「マチウ書試論」を見るべきだ)。そこで彼のとった戦略は次のようなものである。 [#1字下げ] 要約すれば、意識されるすべてのものは、一つの終末現象、一つの結論であって——けっして何ものかをひきおこす原因とはならない。(略)そして私たちは逆の[#「逆の」に傍点]とらえ方で世界を理解しようとこころみてきた——あたかも、思考するはたらき、感情するはたらき、意欲するはたらき以外には、何ひとつとして結果を生ぜしめるものはなく、実在的ではないかのごとくに!(同前)  これは次のようなことだ。〈意識〉とは一切が(表象や、感情や、意志が)表象される場面である。そこからひとは、この〈意識〉が一切の原因[#「原因」に傍点]であり、それが全ての「結果を生ぜしめる」と考えてしまう。だが、たとえば〈意識〉のうちに水の想像的表象が起り、水を飲もうとする意志の表象が生じたとして、このとき水を飲むという行為をもたらしたのは、〈意識〉(意志)という原因[#「原因」に傍点]だろうか。むろんこのほんとうの主体は、「肉体[#「肉体」に傍点]」であるはずだ。こうニーチェは言うのである。  形而上学では、つねに〈意識〉に一切が帰され、そこから、理性、意志、魂、精神という〈内面〉の実在論的[#「実在論的」に傍点]解釈が現われる。それを批判するために、〈主観〉は、なんら与えられたものではなく、何か仮構し、くわえられたもの、背後へと挿入されたものである、という立場がとられねばならなかった。  ニーチェのこの立場は、さしあたり、〈意識〉を生の全体的過程の表層的一機能と考えたフロイトになぞらえることができる。しかし、人間のほんとうの主体が何であるかという設問は、じつは原理的に決定不可能なのである。ニーチェが果そうとしたのは、キリスト教や形而上学の決定的な価値転換だが、人間のほんとうの主体は〈神〉でも〈魂〉でもないと言おうとした途端、彼は全く別の仮説を立てる必要に迫られた。そして彼が立てたのは「権力への意志」という仮説にほかならない。そこで、世界(宇宙の全歴史)は、個々人の生とともに、「権力への意志」であると規定される。そういう点では、彼はむしろ、過剰—蕩尽—侵犯—連続性—エロティシズムといった根本的仮説を提示したバタイユと同位性を持っていると言ってよい。      3[#「3」はゴシック体]  さて、わたしはニーチェの考えの最も大きな骨格だけしか描けなかったが、それでも彼の考えを逆に遡っていくと、次のような彼の直覚のかたちが浮かび上るように思える。ひとつはキリスト教=形而上学は、〈真理〉に関する言説《デイスクール》を独占する[#「独占する」に傍点]ような装置であるということ、もうひとつは、それが人間のエロス的力動を決定的に抑圧する性格を持つということである。後者はわたしたちの見るニーチェにとって、ことに重要な問題である。形而上学の理想が、ニヒリズムであるという彼の言い方のリアリティは、そこに最も大きな源泉を持っていると考えることすらできる。  しかし、ともあれここでは、ニーチェのこういった反=形而上学の文脈に対し、フッサールのそれがどういったものだったかを考えてみなくてはならない。  まず重要なのは、ニーチェの反〈主観〉主義と、フッサールの「超越論的主観」の立場は、一般に考えられているほど相容れないものではない、ということだ。実際、『権力への意志』におけるニーチェの「生理学」は、フッサールの〈還元〉の視線と驚くほどの重なり合いを示している。しかしそれに関してはここで詳しくは触れられない。ただ、ニーチェの反〈主観〉主義が、デカルト、経験論、カントの〈神〉や〈道徳〉への意志を批判していたように、フッサールの〈還元〉は逆に、それらの〈主観〉主義の不徹底[#「不徹底」に傍点]を批判して現われたことに注意すべきである。  一切を徹底的に〈意識〉の場面に〈還元〉してみる。すると次のようなことが明らかになる。デカルト、経験論、カントの〈主観〉主義は、一見どれほどそう見えないようでも、じつは〈客観世界〉を前提した上での〈主観〉主義だった。ところが、〈客観世界〉というのは、もともと在る[#「在る」に傍点]のでは決してない。 〈射映〉や〈ノエシス/ノエマ〉、〈内在/超越〉というフッサールの根本概念が指し示しているのは、人間にとって〈世界〉は必ず一挙に対象そのものとして与えられるのでなく、ある思い描き(ノエマ的構成=〈超越〉)という形で〈経験〉されるだけだ、ということである。この〈経験〉の連続性、一貫性、実践性が、思い描かれた〈世界存在〉の「不可疑性」を、必然的に〈生〉にもたらす。だから、まず必ず〈生〉にとっての意味構成(経験)として世界が現われる。そしてこの世界が間主観的に交換(これも主観の構成にほかならぬ)されることによって、はじめて客観世界という信憑(理念)が現われ出るのである。この信憑が「自然的態度」による世界定立と言われる。そこで人間は、世界はたったひとつ[#「たったひとつ」に傍点]であり、〈私〉は他の人間とともに[#「ともに」に傍点]、その内側にいるという確信を動かし難いものとするのである。  こういう〈還元〉による基本的洞見の射程の拡がりもまた、ひとことではとうてい言えない。しかし、おそらくフッサールの現象学がわたしたちに与えている最も重要な問題は、次のようなことになるとわたしには思える。 〈世界〉とは、つねに必ず、あるレベルでの〈解釈〉である(これはニーチェも同じだ)。だが、この〈解釈〉は、決して〈真/偽〉というレベルで存在するのではない。そうではなく、〈意識〉という水面に立ち現われる〈経験〉としての生の意味の場所から、ほんとうらしく[#「ほんとうらしく」に傍点](ニーチェでは「有用」)あったり、嘘らしく[#「嘘らしく」に傍点]あったりする、という形で存在するのだ。  だがむろんこのことは、デカルトやカントなどの(ニーチェに即せば)〈内面〉信仰を許容しない。フッサールは『イデーン』のあとがきで、この書物は、哲学にもろもろの学説が乱立しているのを見て、「結局、そこでは選択などが本来そもそも問題になりえない」ということに少しも気付かないような人には、「全く何らの参考にもなりえないであろう」と言っている。諸学説は、決して一度もほんとうの原点に戻ったことがなく、つねにある〈ドクサ〉(イデオロギー)から始めていた。そこに諸学説の乱立が現われる。そういう場面に直面したとき、どれが正しいか[#「どれが正しいか」に傍点]と考えないで、つねに生の〈意識〉という起点に戻ったほうがいい。そこから、さまざまな世界像が、どれほどの「不可疑性」を汲み得ているかという方向へ考えるべきだ。こう彼は言うのだ。  フッサールの言い方は、結局、世界像とは、不可避的に編み上げられるものであり、また同時に必然的に改変されるべきものだ、というふうにわたしは読める。そのときほんとうの[#「ほんとうの」に傍点]世界像というものを求めてはならない。その〈真/偽〉ではなく、その現実性《リアリテイ》を、客観にむかう普遍性ではなく、間主観的な普遍性を問うことができるだけなのである、と。  フッサールが示した道すじは、わたしの考えでは、認識の〈真/偽〉ではなくその〈ほんとうらしさ/うそらしさ〉の由来こそを、新たな問題としてたぐりよせるはずである。そしてそれは、必ず〈美〉や〈エロス〉という領域を遠望する。このとき、ニーチェが大きな迂路をとおってもう一度現象学と交錯するのである。現象学が形而上学だ、と言うのはもちろんばかばかしい誤解にすぎない。  むしろ現象学はニーチェとともに、形而上学の根底に対する最も徹底的な批判だった。わたしたちがこれをどう承いでゆけるかは、フッサールの中にニーチェを見、ニーチェの中にフッサールを見るような視線にかかっているのである。 [#改ページ] ———————————————————————————— 「あとがき」にかえて      ——現象学的思考について ————————————————————————————  現象学との出会いに関しては、なんとも不思議な感触がある。わたしはもともとは哲学にさほど強い興味を持っていなかった。というより、哲学に対してひとつの根強い不信、あるいは反感のようなものを抱いていた。この不信は、理性によって一切を考え尽すことに対する感性的な心情からの拒否感、という、よくある感覚ではない。わたしの反感は、あえて実感的に表現するなら、それをまともに相手にするには、余りに時間がかかりすぎる[#「時間がかかりすぎる」に傍点]という感触に根ざしていたように思える。  かつて、サルトルの『存在と無』をおそらく三カ月ほどもかかって読んだとき、一体何が判ったのかと思って、茫漠たる気分になったことがある。カントやヘーゲルも同じで、読むのにおそろしく時間がかかるのにもかかわらず、中身はちんぷんかんぷんなのである。わたしはそのとき、ふと、なるほど哲学に価値があるのは、それが膨大な時間を要するからだという、変な合点をした。いわば、ピアノを弾くのと同じで、それに習熟するのに長い時間ときびしい鍛練を積み重ねなくてはならず、ひとは、その果てに築きあげられた精密で考え抜かれた思考のかたちに驚くわけだ。しかし、逆に言うと、そうである限り、哲学の深い良し悪しは、自分のような、一生それに時間をさくというわけにいかない人間にとっては(当時の感覚では、古今の哲学を十分理解しようと思えば、一生かかるような感じがあった)、とうてい不可能であるほかない。わたしはわたしなりに「ほんとうのもの」を知りたいと思っていたので、この事態はひどい不条理のように思えた。  ところが、ある日『現象学の理念』という本を買ってきて、当時話題になっていた現象学なるものをかじってみようとしたところ、どういうわけか、さほど平易な文章でもないのに、フッサールという哲学者の言わんとするところがなんの遅滞もなく、かつえた喉に水を流すようにするすると呑み込めるのである。そこでわたしは、『内的時間意識の現象学』、『厳密な学としての哲学』、『デカルト的省察』というふうに読み進んでいったが、そのあたりまでくると、現象学の発想の核心も、方法の全体像も、はっきりと確信をもってわかる感じになってきた。『危機』(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)や『イデーン』は、概要を見て、だいたいこういうことが書かれているはずだという予想がつき、それがひどく違っていたということは、ほとんどなかった(それでも、『イデーン』における「内在と超越」の理を尽した認識の本質の条りや、『危機』における近代的普遍因果性の理念の成立を説くところなどは、心底感心したが)。  さて不思議なことに、現象学がよく呑み込めると、それまで、ほとんど判らなかったカントもヘーゲルも、ニーチェも、いったい何を言おうとしていたのか糸をほぐすようによく判ってきた(ついでに言っておくと、ハイデガーなどは、フッサールが腑に落ちないととうてい呑み込めるはずのないものである)。つまり、わたしの場合、現象学をなにかへその緒のようにして、そこをつかんでひっぱったら、西欧形而上学の全体が、するりとひっくり返されてその正体がみんな明らかになるというような、そういう奇妙な事態が起ったのである。  むろん、これは、自分でも思いもよらなかった経験であり、大なり小なりいわば�特権的�な出来事というほかない。現象学はことさら難解とされている「学」だが、わたしには、フッサールの言葉を読み進んでよく判らないということはほとんどなかったし(『論研』だけはわたしに判らない文脈を多くひきずっていて面倒だったが)、カント、ヘーゲルが判らないのに、フッサールがこれだけ判るのは、ひょっとすると自分はフッサールの生まれ代りではないか、などという冗談を友人の間で言ったりした。  だが、じつはわたしの中では、現象学の考えがかくも例外的に自分によく理解できるその理由は、比較的明らかだったのである。大学を卒業した頃、わたしは自分がどういうふうに生きていけばいいのか、さっぱり判らなくてひどく困り果てた思いがある。それまでわたしは、たとえばどういう道を選べば世の中はよくなるか、どういう生き方が自分にとってほんとうの生き方か、といったようなことを、かなりまじめに考えてきた。ところが、あえていうと[#「あえていうと」に傍点]日本人でもなければ朝鮮民族の一員とも言い難い自分の場所からは、なにか、これを[#「これを」に傍点]選ぶのがほんとうという感触を、どうしてもつかめなかった。そのときわたしは、自分がこの世の中に生きていることをどうつかめばいいかということについて、自分なりに考えざるを得なかったのだが、そのときの自分の考え方のかたちが、フッサールの考え方のいちばん中心にほぼ重なり合っていたのである。  その感触をすこし言ってみると次のようなことになる。たとえば、わたしたちの�時代�では、〈政治と文学〉、〈理想と現実〉、〈理論と実践〉、〈民族か同化か〉といった二項的な問題の形が強く生きていた。それは一方でどちらを選ぶかという決断[#「決断」に傍点]を迫りながら、一方で、しかし、決断によっては解きほぐし難い矛盾が残ることを明らかに指し示していた。おそらく多くの人間が、この問題に頭を悩ませたはずである。  わたしが考えたのは、たとえば、〈民族か同化か〉といった問題は、その土俵の上では論理的に解き得ないものであって、むしろ、〈民族〉という理念に強い力を与えているのはいったい人間のどのような現実かを問い尋ねたほうがいい、といったことである。つまり、対立をその土俵の上で論理的に問うのではなく、そういう対立を支え押しあげたサブレベルを問うたほうがいいということだ。これにはひとつ要諦がある。それは、どんな理念も、ひとがそれを強い情念でつかんだ途端、生の欲望によってすでにエロス化されて現われているわけだが、その魅惑力[#「魅惑力」に傍点]をいったんとり払って、なぜ自分はその理念に魅かれるのかをもう一度問い直してみる、ということである。  たとえばわたしは、こういうやり方をした。 〈社会〉とは一体何か、と問うてみる。それはふつうは人間の生産と消費の錯綜する関係体といったものとしてイメージされる。だが、わたしにとっての[#「わたしにとっての」に傍点]〈社会〉とは、青年期の自分にとって、自分がそこに深く関係し、そのもっとも先までゆき、それに自分が同致したいと感じているようなある何ものか(おそらくは観念)である。それはどこから現われたか。書物や、他人との抽象的な会話や、その他のイメージからである。こうしてわたしは、何かを問うときに、その言葉[#「言葉」に傍点]が何によって構成され、そしてとくに、自分にとってどういう魅惑や嫌悪を、つまり色合いを持っているか、それらがなにに由来するのかということを、自身の心の水面を澄ますようにして尋ねてみる、ということをいつも試みた。  むろんそのとき自分の中に方法意識などというものがあったわけではない。わたしはいわば切羽詰ってそういう奇妙な作業を行なっていたのだが、それを繰り返すうち、この考え方の意味合いや、どういう場合にそれがうまくいくことになるか、といったことに徐々に気付いてきた。現象学の方法の核心とその意味が、わたしにすぐ呑み込めたのは、疑いなくこういう経験に由来しているのである。  現象学の方法の核心は、わたしの体感では修練も基礎教養も全く不要な、非常に単純なものである。フッサールが力説しているように、要は、客観世界を前提してそこからものごとを考える、という仕方をやめれば[#「やめれば」に傍点](エポケーすれば)いい。その核心は単純だから、それが呑み込めれば、フッサールの全体の体系もそれほど難解ではなく、その展開の必然すらおのずと判るようになるはずなのである。  しかし、あえて言うと、それにもかかわらずこの方法がひどい誤解を招きよせているのは、おそらくこの思考法が、なんと言えばいいか、現実的には[#「現実的には」に傍点]、全く不必要で、非合理な[#「非合理な」に傍点]考え方だからだ、とわたしは思う。その感覚をここでうまく言うことができない。この考え方は、根源的[#「根源的」に傍点]なのではなく、むしろいわば陰画的[#「陰画的」に傍点]なのである。すこし言い換えると、現実の関係が切羽詰ってどうしても道がなくなったときに、くるりと現実が逆転して道が現われるといった、そういう非[#「非」に傍点]合理性、陰画性をこの方法は孕んでいるとわたしには思える。  たとえば、わたしはデリダやドゥルーズやレヴィナスなどの思想を現象学と較べて思い浮かべると、それらは外見と異なって、いかにも現実に則した[#「現実に則した」に傍点]思考の方法だと思わざるを得ない。ついでに言っておくと、キルケゴールはひどく陰画的であり、むしろニーチェは、現実に則している。ともあれ、現象学の方法は、世界のイメージ、さもなくばそこに存在する矛盾や問題の輪郭がはっきりしている場合には、あまり役に立たない[#「役に立たない」に傍点]。わたしは、かつて『イデーン』の「あとがき」にある、フッサールの次のような言葉を見出したとき、ひどくこの哲学者に納得し、かつわが意を得た気がしたことをよく覚えている。 [#1字下げ] 上述したこと全部からして結局、本書は、次のような人には、全く何らの参考にもなりえないであろう。すなわち、すでに自分の哲学や自分の哲学的方法について確信を持っている人。したがって、哲学に心を奪われ惚れ込んでしまうという不幸に見舞われた者の絶望感を、一度たりとも味わったことのない人。そして、哲学を学び始めた頃すでにもろもろの哲学が乱立しているのを見て、そのどれを選んだらよいのかを考えさせられ、結局、そこでは選択などが本来そもそも問題にはなりえないのだということを、少しも感じたことのないような人。  現象学はどういう場合に役に立つか[#「役に立つか」に傍点]。これはなかなか興味深い問いだが、ひとことで答えられそうもない。ただ、現象学は、ひとつの思想[#「思想」に傍点]なのではなく、世界というものが、人間にとってわけのわからぬものになったとき、いつでもどこでも生じてくる、世界に対する切羽詰ったひとつの態度[#「態度」に傍点]ではないか。そうわたしは思っている。  このわたしにとってはじめての思想評論集を出版するにあたって、作品社の増子信一氏にひとかたならぬお手数をかけた。また、この本の装丁を手掛けていただいた笹原富喜子さんは、年来の友人であったが、出版の直前に病のため他界された。感謝とともに深く哀悼の意を表しておきたい。   一九八六年六月三日 [#地付き]竹田青嗣 [#改ページ]   初出一覧[#「初出一覧」はゴシック体] [#ここから2字下げ] 意味とエロス——欲望論の現象学   書き下ろし 世界認識のパラドックス   『杼』二号(一九八三年一二月) 〈差延〉と〈根源〉   『杼』四号(一九八五年四月) 実存の根底   『物語論批判』(作品社、一九八五年八月)所収 超越としての〈外部〉   『両翼の騎士——笠井潔の研究読本』(北宋社、一九八五年五月)所収 読みびと知らずのバルト   『現代詩手帖』一九八五年一二月臨時増刊号 反=形而上学の源流(原題・ポスト構造主義の源流)   『言語』一九八五年一〇月号 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] ———————————————————————————— 文庫版あとがき ————————————————————————————  フッサールの現象学が、マルクス主義、実存主義、構造主義、ポスト構造主義と続いたヨーロッパ現代思想の流れの中で、どれほど大きな誤解と混乱にさらされていたか、とてもひとことでは言いがたい。わたしは八〇年代を通じて、これらの思潮に抗いつつ現象学の本来の意義を明らかにしようとして仕事を続けてきた。  しかし、わたしは別に学問としての現象学を擁護したり再興したいと考えているわけではない。  そもそもわたしが現象学に引かれたのは、それまで絶対的に正しいと信じていたある強力な世界理論が自分の中で完全に崩壊するという奇妙な体験があったからだ。この強力な理論とはマルクス主義のことである。  いろんな角度から何度も確かめたすえこれはどうしても「正しい」という確信をえていた理論が、ある時期ある内的な仕方で崩れさったとき、とうぜんわたしは、およそ理論や世界観というものに強い懐疑を抱いた。このことがわたしの「思想体験」なるものの核だったように思う。  自分が強く信じていた思想や世界観が誤っていたと感じられたとき、ひとはさまざまな態度をとるだろう。思想的な懐疑主義やニヒリズムに陥ったり、それが誤っていたのはここがおかしかったからだという修正主義もある。またひとつの強力な理論(物語)の代わりに、さらに強力な理論(物語)を見出して、そちらに依拠するという態度もあるだろう。しかしわたしの場合は、そもそも人がさまざまな理論の中からあるひとつの理論を確信し、それに依拠して生きるということの「意味」が何であるのか、ということが最も大きな疑問として生き残った。  現象学は、このやっかいな問いにひとつのはっきりした解を与えてくれるものとしてわたしにやってきたのである。  現象学の考え方のうち最も重要なのは、それが「確信成立の条件」についての原理論である、という点だ。このことによって、現象学はそれまでの世界理論や思想のあり方の公準を、根本的に変更している。またこのことによって、現象学は、人間存在についての、その生の意味と価値についての新しい原理論の基礎を作ったとわたしは思う。そしてまさしくこのことが、これまでの現象学理解においてまったく抜け落ちていたことなのである。  現代思想は、客観認識、真理、普遍、理性、自明の制度性といった従来の知的建築物を激しく批判した。それは八〇年代のポスト・モダニズム思想に触れた者なら誰でもよく知っていることだ。しかし、これらの批判は根源的なものとはとうてい言えない。  各々の人間は、さまざまな理論、思想、世界像を強い確信の中でつかむ。あるとき人はその光景に気づいて、世界にはさまざまな理論や世界像があるだけで、それらはすべて真理を確証されない幻想にすぎない、ということを大きな努力を費やして�証明�しようとする。そのうち、人はこの努力に飽き、現在の社会(世界)への反感を、あの反‐真理主義や反‐普遍主義の理論の中で主張したくなる(たとえば、それは現に存在するさまざまな「制度」への絶えざる批判的懐疑といったポジションをとるだろう)。だがそのことで、彼のひそかな「確信」は結局一度も疑われず、また試されることもなくくるりと一巡りして�生き延びる�のである。  現象学の考え方ははっきりしている。世の中にはさまざまな理論や世界像があって人を生かしている。それらは互いに相手に向かって自らの「真理性」を確証できない。そのことが明らかになったとき、つぎに出てくる問題のかたちはつぎのようになるはずなのである。  第一に、これらさまざまな理論や世界像を持つことが、各人の生にどのような「意味」をつけ加えることになるのか、という問いを立てること。つまりそれは、個々の人間が何らかの理論、世界像、物語の中を生きることの「意味」についての普遍的な理論、をめざすだろう。  第二に、各人がさまざまな異なった理論や世界像を持つとき、当然そこに対立や矛盾が生じるので、この矛盾や対立を解決する「可能性」の原理論が必要となる。つまりそれは、社会的な共通了解(制度、システム)間の�関係論�についての普遍的理論、をめざすことになる。  この二つの問題のかたちが接続されなければ、反‐真理主義、反‐理性主義というスローガンは、理屈好きな人間の玩具になるほかないとわたしは思う。また、この「普遍的理論」という言葉を、従来の反‐普遍主義で批判できると考える人は、懐疑論を弄んでいるうちにどんな理論も批判できるという快感に溺れて、自分がはじめにぶつかった問題の核心をすっかり忘れているのである。  さてわたしは、現象学とポスト・モダニズム思想の対立が現代日本の思想状況の中でどのような意味を持つのかについて、できるだけ簡明に述べてみたかった。あとは若い世代がそれをどう受け取るかを待つだけだ。  わたしは現象学的思考の不利な立場をよく知っている。それは、ある強力な魅力で人間をつかむ世界像や理論が何らかの理由でいったん�壊れた�ときに、はじめて強い声を響かせるものだからだ。わたしの感覚では、それは優れた文学の印象と似ている。  人間のほんとうの理想を追求しようとする力が強いほど、理想一般への深い懐疑主義とニヒリズムがやってくる。しかしそれにもかかわらず、このニヒリズムに耐えて何らかの理想を求めつづけようとする力が文学の深い質を作り上げる。このような力の感覚こそは、文学、思想を問わず�普遍的�なものなのである。   一九九三年三月一九日 [#地付き]竹田青嗣 竹田青嗣(たけだ・せいじ) 一九四七年、在日韓国人二世として大阪に生まれる。早稲田大学政治経済学部卒業。明治学院大学国際学部教授を経て、現在早稲田大学国際教養学部教授。哲学者、文芸評論家。在日作家論から出発し、文芸・思想評論とともに、実存論的な人間論を中心として哲学活動を続ける。在日朝鮮人であることを思想の出発点にしながら、民族、共同体などの帰属性を超える原理を探求。現象学、プラトン、ニーチェをベースに、哲学的思考の原理論としての欲望論哲学を展開している。『〈在日〉という根拠』『〈世界〉の輪郭』『現代思想の冒険』『世界という背理』『夢の外部』『現象学入門』『「自分」を生きるための思想入門』『身体の深みへ』『はじめての現象学』『恋愛論』『エロスの世界像』『自分を知るための哲学入門』『言語的思考へ』『哲学ってなんだ』『近代哲学再考』『現象学は〈思考の原理〉である』『愚か者の哲学』『人間的自由の条件』など多くの著書がある。 本作品は一九八六年六月、作品社より刊行され、一九九三年六月、ちくま学芸文庫に収録された。